クマを通して生きる意味を見つめる
写真家 星野道夫さんは 「もしクマが反対からやって来たら、そっと道をゆずってやればいいのだ」と書いています。
最後のアイヌ猟師と言われる姉崎等さんも「クマは、本来人を襲うような動物ではない」と著書「クマにあったらどうするか?」の中で何度も語っています。
このようなクマに近い人が描くヒグマ像と多くの人が思っているヒグマ像はかなりかけ離れているのではないでしょうか?
多くの人は日頃クマの存在を感じることは少ないと思います。
クマを思い浮かべる機会は、テレビのニュースで「クマが人を襲った」「またクマが牛を襲った」「街中に出没した」などと取り上げられる時が多いのではないでしょうか?
ですから、クマというのが人を襲う恐ろしい存在だ、命や生活を脅かす厄介者だ、という意識が知らず知らずに記憶に刻み込まれてしまっています。
言うまでもなく、ほとんどのクマは山の中で人に会わないようひっそりと静かに暮らしています。
星野さんや姉崎さんが遭遇し身近に感じているクマは、このようなクマ達です。
そして彼らに畏敬の念を抱き、なんて謙虚で愛情深い生き物何だろうと感心するとともに、
クマと自分との間に宇宙と同じくらいの近づけない(命の危険性があるので)距離を実感しています。
ヒグマに対する信頼と適切な距離感、この感覚はどうやって養われたのでしょうか?
自然の懐に深く入っていき、自ずと自然を敬い、クマを敬い、親近感を感じ、かつ適切な対応を身に付けている人達は、自然とこのような感覚を纏っていることでしょう。
日頃あまり自然と接する機会のない方にとっては、感覚を養う体験より先に先入観が刷り込まれてしまいます。
それを塗り替えるための一つの提案として、ヒグマの生態を知るということが大切だと思います。
山で暮らすヒグマの素顔を知ることで、クマに対する恐しいだけのイメージを上書きできるし、クマの領域に入って行くときの心構えと対処法を学ぶことで、安全性を高められると思うのです。
森の移り変わりに柔軟に寄り添ったクマの四季の暮らし、冬眠のふしぎや赤ちゃんを無事に生み育てるための繁殖生理の深遠さ、クマの力強い体の構造と生命力などなど、興味深い生態を知ることでクマの行動を予めある程度予想できるようになります。
クマがすぐ目の前で襲いかかってくる状況を作らないために、クマの住処に「おじゃまします」という気持ち、自分の存在をクマに知らせる、クマに遭わないように周りの気配や痕跡に気を配る、そういった予防をしていれば急な遭遇は滅多に起きないと心の中に『お守り』を持つことができます。
子ども達は、クマの生態や付き合い方の心構えを伝えた時、素直に、クマってすごいな〜、山に入る時は「おじゃまします」の気持ちで自分を知らせよう、とクマは共存できる存在なんだという清らかなまっすぐな反応を見せてくれます。
一方、大人の方には強固な先入観があり、なかなかすとんと腑に落ちないようです。
「クマにあったらどうしたらいいですか?」という質問をする人の頭の中には、牙をむいて襲いかかってくるどう猛なヒグマのイメージがあります。
それはまるで、車を運転していて「対向車が自分の車に突っ込んでくるけどどうしたらいい?」と聞いている心境と同様で、その状況から無事逃げる対応はかなり高度な技術を要し、不可能な不安が募ります。
でも、ふだん皆さんは事故なく安全に車を運転していて、その時必要なのは、基本的な運転操作、安全に対する理解であり、それはそれほど高度な技術ではないですが、絶え間なく気をつけるという緊張感が不可欠です。
また何より、走っている車の運転手に対して、安全運転してくれるはず、交通規則を守ってくれるはず、という暗黙の信頼があるから、比較的リラックスして運転できています。
クマに対しても、同じではないでしょうか?
最低限の注意事項は、クマの生態と配慮すべきことの知識、そして欠かせないのが、絶え間なく周りに気を配って山歩きすることです。
その前提として、クマも決して無闇に人を襲ったりはしない、クマは基本的には人を避けて行動してくれるという信頼です。
そんなの無理!って声が聞こえてきますが、同じ地球上の生き物に対してこのような思いやりの気持ちを持ってあげてもいいと思うんです。
納得できず、クマへの不安を鎮めることが難しい人が少なくないという現実。
クマを劇的に撃退する特効的な方法を期待し、それが得られず期待外れに感じている様子。
または、やはりクマは恐ろしい猛獣で共存するのは無理だという諦め。
語り手としての私の力不足ももちろんあります。
でも、実は密かに確信していることがあります。
クマを信頼できるかどうかは、これがあるかないかに依ると。
それは、
クマを対等な命として見る、つまり自分が命を落とす可能性もあるという覚悟です。
ここで、中沢新一さん「熊と王」の文章を紹介します。
<神話が語られた社会では、人間が動物に対して一方的に優位な立場に立ったり、具体的な人間関係を越えた権力のようなものが、人々の上に有無を言わさぬ力をふるったり、ということは起こらないような仕組みができあがっていました。人間の社会の内部には、豊かなものとあまり豊かでないものとの間の階層差が生まれているところもありましたが、そういう社会でも人間と動物の間の対称的関係は、きちんと維持されていました。ところが、国家というものができると、この対称的な関係が崩れてしまうのです。>
中沢氏は、宮沢賢治の「氷河鼠の毛皮」という物語を紹介します。
<お前たちがいうように、確かに最近の人間たちのやり方は、酷すぎる。その心から「地球法」の感覚が失われてしまっている。「地球法」というのは、地球の生命圏に生きるあらゆる生物に同等の権利を認めて、その上で食物連鎖の環や生態系の一つの秩序を生み出そうとする「法」の働きのことだ。かつては神話が、その「地球法」の表現者になっていた。その「法」に対する感覚を、いまの人間がなくしているという、お前たちの主張はまったく正しい。だから、「あんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度は許して呉れ」。>
北海道でもアイヌの人達は数百年もの長きに渡り、クマを敬い感謝しながら暮らしてきました。
キムンカムイ=山の神として、畏れ敬い、生活の糧にとして狩猟し、食べ、薬に衣類に利用してきました。
クマの命を戴く時には、カムイノミ=カムイを天界に送る儀式を厳粛に取り行います。
<「無法をやめる」これが人間にできる唯一で最高のことではないでしょうか。狩猟民の世界でこのような地球的な意味をもった「法」が守られていた記録が、たくさん残されています。狩猟民たちは、自分に必要なもの以上の動物を獲ったりすることを固く禁じていました。また自分たちが殺した動物のからだを、丁寧に尊敬を込めて扱おうとしていました。そうしないと、動物たちが再びこの世界に再生してこれなくなってしまう恐れがあるからです。それによって、生き物に負わされた宿命が消えたりする訳ではないのですが、少なくとも思考の中では、この根源的な矛盾の解決が計られようとしていました。それが「法」のある世界、別の言い方をすれば、「野蛮」でない世界のあり方なのです。>
しかしながら片や取り囲む現代社会の中で様々な葛藤も生まれています。
宮沢賢治も「なめとこ山の熊」の中で、小十郎の生き方の山での顔、町での顔を対比させて、「地球法」に法って生きることの純粋さと「野蛮な」面のある現代社会とを擦り合わせる苦悩を描いています。
人は生きるために森を切り開き、生活圏を広げ、必要な物を自然から得てきました。
動物側からみると、住処を狭められ、その住処に入ってくる人との不用意な遭遇により駆除され、食べ物を求めて森を出れば撃たれ、奪われた命も蔑まれて扱われます。
人間にできるのは、かつての神話の世界に戻るとまでいかなくとも、命を尊ぶこと、同じ命として向き合うこと、万が一人が死ぬ可能性もあるけれどそれは自然なことだと受け入れる心持ちではないでしょうか?
この価値観の中には、被害者も加害者もいません。
お互いに命を全うする素晴らしい命達です。
根底にクマの命も人の命も対等なので、どちらが死ぬのもありという気持ち。
もちろん、私も死ぬのは怖いです。
でも、クマ以外でも死ぬ可能性はたくさんあります。
車の運転もそうですし、病気や怪我で死ぬかもしれません、やっぱりそれは仕方ないことです。
生まれたら、確実にいつか死にます。
死は常に選択肢の一つに含まれています。
その選択肢を抱えながら、同時に生き続けます。
死ぬ可能性を排除するのではなく、死を受け入れ、それでも生きていくという強い意志、勇気をもって生きていく覚悟。
クマが生きている大地で、同じ時間と空間を生きている私達は、命を大切に生きている、クマに襲われないように心構えを持って暮らしている、それでももしも死んでしまったら、、、やはり仕方ない。
クマを車と、クマをウイルスと置き換えても同じです。
死のリスクをゼロにしたいがために、やりたいことをやらずに生きるのはせっかく生まれてきたのに、もったいないことだと思います。
なかなか自然に悟るのが難しいがための神話が語られ続けたように、私たちにはたくさんの先人の知恵を書物やインターネットを通じて学ぶ機会があります。
また、実際に人にあったり、世界を旅して実感することもできます。
宮沢賢治が物語を紡ぎ続けたように、星野道夫さんが動物と対称的な関係の中で写真を撮り続けたように、姉崎さんが熊撃ちとして命を全うしたように、私も体験し表現し日々精進しながら生きて死んでいきたいと思います。
ぜひみなさんもクマを人の言葉ではなく、自分が実際体験していること(クマにあったことが一度もないという体験も含めて)を基に、また自分がいいなって感じる人が描いているクマの姿を一つの拠り所として、自分の感覚を大切に自分だけのクマ像を創造してみてください。
クマは「死」を意識させる存在、だから恐れられ、排除されてきました。
それでもクマに対する畏敬の念は、本来人の奥底に流れていると私は信じています。
「地球法」を尊重し「野蛮」に陥らずに生きていく叡智を人間はもっているのです。
クマという存在は、生きる意味、どう生きるかを人間にいつも問い続けてくれるかけがえのないカムイです。