無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

著者の本をもっと見つけたり、似たような著者を調べたり、おすすめの本を読んだりできます。
歌人の穂村弘が、高橋源一郎や川上弘美、山崎ナオコーラや一青窈など、もの書く人びとと対談しています。
対談相手に合わせて、ページの文字数や書体、レイアウトを変えているのが面白い。
「そうそう! 川上弘美を書体で表現すると、まさにこんな雰囲気!」と中身を読みはじめる前から楽しい。
穂村弘は、聞き手としての能力がすごく高い。
二言三言、言葉を交わしただけですっと相手にチューニングを合わせて(もちろん、事前の入念な準備があってのことだと思うけれど)、うなずきながら本質に近づいてゆくさまは、すごくためになる。
鋭利なカミソリを持っていなくとも、知識と理論で過剰に武装しなくても、「よく聴く」ことができれば豊かな会話ができる、という好例だと思う。
フィールドも、年代も言語感覚も異なる作家たちとの対談集だから、基本的には一話完結の短編集を読むような感じなのだが、その中でも、穂村弘はくり返し、現代の「死」の希薄さ、ということを言っている。
感情が薄くなり、死のリアリティーがなくなってきた時代に、言葉で表現をするということ。
その困難と最前線で向き合っているからこそ、穂村弘は作家たちに問いかけずにはいられないんだろうと思う。
あなたは、どうして書くの?
コミュニティガイドライン新しいタブで開きますに照らしてこのレビューが適切かどうか確認します。 そうでない場合は削除されます。
穂村弘の対談集だが、最初と最後に高橋源一郎との対談が置かれていて、高橋という人はわりと明晰に語る人だから、入口と出口としてはいいと思う。実はその他の対談は、確かに「書くこと」をめぐって会話が展開するが、「どうして書くのか?」という問いに必ずしも直接的には対応していなくて、それを「どうして書くの?」というタイトルに回収するためには読み手の側に何らかの構えが必要となるのだが、その構え方を示しているのが、高橋との2つの対談ということになるのかもしれない。
ところで私は高橋の『大人にはわからない日本文学史』へのここでのレビューで、「『現代短歌の最前線のことば』の本質を『言葉の敗戦処理』と呼ぶ穂村弘の議論を高橋は引用するが(p103)、高橋にとって『戦争』とは70年安保だったのだろう」と書いてしまった。今、実は私は穂村の言葉の引用元となった『短歌の友人』もポツポツ読んでいるのだが、本書の最後の高橋との対談を読んで、上のレビューの捉え方は甘かったと反省している。少なくとも引用の原典くらいには当たっておくべきでした。
本書の対談では、「敗戦処理」という言葉はとてもニュアンスに富んだ比喩で説明されていて、高橋が野球にたとえて「先発・中継ぎ・抑えも全部打たれたのか(笑)」と尋ねると、驚いたことに穂村は「いや、打たれなかったという話です。生身では、ぼくらは望みどおり零封してきたのに、気がついたら一点も取られなかったことが敗戦だったという大きな裏返し状況ですよね」と返している(p255〜)。そこから、高橋「勝ち試合だと思ってたら負け試合だったと」、穂村「全体を通してね。それで皆自分たちはそれなりに抑えたと思ってるから、若い人たちを見て『こんな平板な』とかいろいろ言うわけですよ」と対話が進む。
ここで「平板」というのは、対談中でも触れられているけど、『短歌の友人』で論じられている「棒立ち」につながる言葉だが、面白いこと言うなと、改めて思った。
他には一青窈との対談が面白かったのだけど、ところで私が持っているのは初版第一刷だが、中に正誤表が挟んであって、何と目次で対談相手の字を2か所も間違えているし、一青窈のプロフィールも何かマズイ書き方だったみたいで、何だか知らないけど事故があったとしか思えない間違え方だった。
コミュニティガイドライン新しいタブで開きますに照らしてこのレビューが適切かどうか確認します。 そうでない場合は削除されます。