兵庫県神戸市と山口県下関市を結ぶ山陽線には、神戸を出て次の駅である兵庫駅から伸びる、僅か2.7kmの支線がある。
その支線は通称・和田岬線と呼ばれていて、かつては中間駅が1つあったものの、今では起点の兵庫駅の次は終点の和田岬駅である。そんな1駅間、10分と掛からない路線なのに、朝夕はとんでもない多くの通勤客の利用があることでも知られている。その分、平日の昼間や休日は閑散としており、列車そのものの運転が無かったりもする。
その和田岬線は、最後まで旧型客車が活躍していた路線でもあった。当時、そこで使われていたのは、全国でもここだけという64系客車だった。車内はロングシートが5人分だけで、あとは床が広がり天井からは「つり革」がずらりとぶら下がっているという特殊な車両でもあった。
まだ国鉄時代だった1986(昭和61)年の6月、その和田岬線を訪れた。日曜日だったので、その日は閑散としていた。

先頭にDE10-1070号機、最後尾にDD13-639号機を連結した「プッシュプル」の編成で列車が姿を見せた。

到着後、すぐに最後尾のDD13が切り離された。


切り離されたDD13は、隣の線に移って、そのまま姿を消していった。

反対側から機回しされたDE10が先頭に連結された。

そのDE10-1070号機には、1971(昭和46)年「汽車会社」の製造銘板が付いていた。ディーゼル機関車なのに製造元のメーカーが「汽車会社」とは、なんとも不思議な感じがした。その名の通り、元々はSL=蒸気機関車を製造していたメーカーの一つだが、1972(昭和47)年に川崎重工に吸収されているので、このDE10は「汽車会社」としては最後の方に製造された機関車になる。
しかし、このDE10-1070号機は、どこがどう悪かったのか、1990(平成2)年に廃車になっているので、僅か19年の実働期間だった。


兵庫駅の和田岬線ホームは、土の地面になっており、まるで地方の駅のようだった。今だったら、映画のロケとかで使えそうだ。

オハフ64の端面には、日本国有鉄道の銘板のほかに、「剛体化改造 高砂工場」と「昭和44年改造 後藤工場」の銘板が付いていた。
古い木造客車を太平洋戦争後に改造してオハフ61になったのが前者の改造で、それを和田岬線用に改造したのが後者の銘板が意味している内容である。
オハフ64は、オハフ641と642の2両しか存在しなかったが、どちらもオハフ61の改造である。そのオハフ61は、前述の通り、木造客車を改造したもので、その元は1919(大正8)年から1927(昭和2)年にかけて製造した17m級の木造二軸ボギー式客車ナハフ22000という。
オハフ64は、1990(平成2)年に姿を消しているが、戦争のあった激動の大正、昭和から平成という3つの時代を生き抜いたことになるのかもしれない。

DE10のけん引で、全部で10人くらい、しかもほぼ全員が鉄道ファンという列車が終点の和田岬駅を目指す。

客車列車ならではの、終着駅での機回し作業も、今ではほぼ見ることが出来なくなってしまった。

注*掲載写真の中には、現在は地形などの変化で撮影することができない場所や、撮影対象そのものが存在しなくなったものも含まれます。必ずしも現状とは一致しませんので、あらかじめご了承ください。