ボヘミア君主一覧
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ボヘミア君主一覧(ボヘミアくんしゅいちらん)では、ボヘミアの君主であるボヘミア公およびボヘミア国王を挙げる。ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀に神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。
プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国の構成国として続く。
ボヘミア公
[編集]プシェミスル家
[編集]| 名前 | 生誕 | 在位 | 結婚 | 死去 | 備考 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ボジヴォイ1世 | 852年 ホスティヴィトの息子 (?)[1] |
870年 - 883年 885年 - 889年 | リュドミラ 873年[2] 6子 |
889年 35/6歳没 |
記録に残る最初の王朝の統治者。 | ||
| ストロイミール | ? | 883年頃 - 885年 | ? | ? | 簒奪者とみられる。 | ||
| ボヘミアはモラヴィア王国に併合(889年 - 894年) | |||||||
| スピチフニェフ1世 | 882年 ボジヴォイ1世とリュドミラの長男 |
894年 - 915年 | 未婚 | 915年 32/3歳没 | 907年からモラヴィアも統治。彼の統治によりボヘミアの主権は回復された。 | ||
| ヴラチスラフ1世 (Vratislav) | 888年 ボジヴォイ1世とリュドミラの次男 |
915年 - 921年2月13日 | ドラホミーラ 3子 |
921年2月13日 32/3歳没 | |||
| リュドミラ(921年)およびドラホミーラ(921年 - 925年)の摂政政治 | 聖ヴァーツラフ(『ウェンセスラスはよい王様』)として知られ、チェコの守護聖人である。 | ||||||
| ヴァーツラフ1世 (Svatý Václav) | 907年[3][4][注釈 1] ストホフ[7] ヴラチスラフ1世とドラホミーラの長男 |
921年2月13日 - 929/35年9月28日 | 未婚 | 929/35年9月28日 スタラー・ボレスラフ 21/2歳または27/8歳没 | |||
| ボレスラフ1世(残酷公) (Boleslav I. Ukrutný) | 915年 プラハ (?) ヴラチスラフ1世とドラホミーラの次男 |
929/35年9月28日 - 972年7月 | ビアゴタ 4子 |
972年7月 56/7歳没 | 公位を継承するために兄を暗殺した。 | ||
| ボレスラフ2世(敬虔公) (Boleslav II. Pobožný) | 940年 プラハ (?) ボレスラフ1世とビアゴタの息子 |
972年7月 - 999年2月7日 | アディヴェア(・オブ・イングランド?) 4子 エマ (エマ・ディタリー (?)) 989年 子女なし |
999年2月7日 58/9歳没 | モラヴィアは999年にポーランドに奪われた。 | ||
| ボレスラフ3世(赤公) (Boleslav III. Ryšavý) | 965年 ボレスラフ2世とアディヴェアの長男 |
999年2月7日 - 1002年5月 1003年2月 - 3月 | 不明 | 1037年 56/7歳没 | 1002年から1004年にかけて、ボヘミアはポーランドに二度侵略された。 | ||
| ポーランドに併合(1002年 - 1004年) | |||||||
ピャスト家
[編集]| 名前 | 生誕 | 在位 | 結婚 | 死去 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| ヴラジヴォイ | 981年頃 ポーランド公ミェシュコ1世とドゥブラフカの息子 (?) |
1002年5月 - 1003年1月 | ? | 1003年1月 22歳位で没 |
実際はピャスト家かどうか不明 | |
| ボレスラフ4世 | 966/7年 ポーランド公ミェシュコ1世とドゥブラフカの息子 |
1003年 - 1004年 | (1) マイセン辺境伯リクダックの娘 980年代初め 子女なし (2) 「ハンガリー人の女性」 1男 (3) エムニルダ 2男3女 (4) オーダ・フォン・マイセン 1018年2月3日 1女 |
1025年6月17日 57/8歳没 | ポーランド王(ボレスワフ1世) | |
プシェミスル家
[編集]| 名前 | 生誕 | 在位 | 結婚 | 死去 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| ヤロミール | 970年頃 ボレスラフ2世とエマの息子 |
1004年 - 1012年4月12日 1034年11月9日 - 1035年 | 不明 | 1038年11月4日 リサー・ナト・ラベム 60/70歳没 |
1004年、ヤロミールはドイツ軍を率いてプラハを占領し、ボヘミア公を自称し、領土は縮小されたものの、一族の領地を回復した。ボレスラフ3世の弟であったヤロミールとオルドジフは、1034年にオルドジフが死去しヤロミールが引退(その後暗殺)するまで、帝位をめぐって争いを続けた。しかし、ポーランドからモラヴィアを再び奪取して1019年にボヘミアに再編入したため領土は拡大し、モラヴィアはオルドジフの息子ブジェチスラフ1世に与えられた。 | |
| オルドジフ (Oldřich) | 975年頃 ボレスラフ2世とエマの息子 |
1012年4月12日 - 1034年11月9日 | ボジェナ 1002年頃 1子 |
1034年11月9日/1042年 59/60歳没または66/7歳没 | ||
| ブジェチスラフ1世 (Břetislav I. český Achilles) |
1002/5年 オルドジフとボジェナの息子 |
1035年 - 1055年1月10日 | ユーディト・フォン・シュヴァインフルト 1020年 4子 |
1055年1月10日 50/3歳没 |
1019/29年 - 1033年、1034年11月9日 - 1055年1月10日:モラヴィア公 モラヴィアがボヘミアから初めて分離した。父は1年間その地位を奪ったが、父の死後、息子たちが遺産を分け合った。 | |
| スピチフニェフ2世 | 1031年 ブジェチスラフ1世とユーディト・フォン・シュヴァインフルトの長男 |
1055年1月10日 - 1061年1月28日 | イダ・フォン・ヴェッティン 1054年 1子 |
1061年1月28日 29/30歳没 |
ブジェチスラフ1世の子供たちは遺領を分割した。
この分割は、スピチフニェフ2世(1055年)によって無効とされた。1056年以降、スピチフニェフ2世はモラヴィアにまで支配を拡大し、プシェミスル家の領地全土を支配下に置いた。しかし、スピチフニェフの死後(1061年)、ヴラチスラフ2世がボヘミアを相続したため、領地を持たない兄弟たちは領地を取り戻し改めて分割し直した。
| |
| ヴラチスラフ2世 (Vratislav II) | 1035年頃 ブジェチスラフ1世とユーディト・フォン・シュヴァインフルトの次男 |
1061年1月28日 - 1085年6月 (ボヘミア公) 1085年6月 - 1092年1月14日 (ボヘミア王) | マリア 1057年以前 子女なし マジャロルサーギ・アーデルハイド (I) 1057年 4子 シフィエントスワヴァ・ポルスカ 1062年 5子 |
1092年1月14日 59/60歳没 | ||
| コンラート1世 (Konrád I) | 1035年頃 ブジェチスラフ1世とユーディト・フォン・シュヴァインフルトの三男 |
1092年1月14日 - 9月6日 | ヴィルピルク・フォン・テングリング 1054年 2子 |
1092年9月6日 56/57歳没 | ||
| ブジェチスラフ2世 (Břetislav II) | 1060年頃 ヴラチスラフ2世とマジャロルサーギ・アーデルハイド (I)の息子 |
1092年9月6日 - 1100年12月22日 | ルイトガルト・フォン・ボーゲン 1094年 1子 |
1100年12月22日 39/40歳没 | ||
| ボジヴォイ2世 | 1064年頃 プラハ ヴラチスラフ2世とシフィエントスワヴァ・ポルスカの次男 |
1100年12月25日 - 1107年5月 1117年12月 - 1120年8月16日 | ゲルベルガ・フォン・バーベンベルク 1100年10月 ズノイモ 子女なし |
1124年2月2日 39/40歳没 | 二度統治、1120年に退位した。 | |
| スヴァトプルク(1世) (Svatopluk Olomoucký) | 1075年 オタ1世とマジャロルサーギ・エウフェーミアの長男 |
1107年5月 - 1109年9月21日 | 不明 1子 |
1109年9月21日 33/4歳没 | ||
| ヴラジスラフ1世 (Vladislav I) | 1065年頃 ヴラチスラフ2世とシフィエントスワヴァ・ポルスカの三男 |
1109年9月21日 - 1117年12月 1120年8月16日 - 1125年4月12日 | リヒェンツァ・フォン・ベルク 1110/11年 4子 |
1125年4月12日 プラハ 59/60歳没 | 二度統治した | |
| ソビェスラフ1世 | 1075年頃 ヴラチスラフ2世とシフィエントスワヴァ・ポルスカの四男 |
1125年4月12日 - 1140年2月14日 | マジャロルサーギ・アーデルハイド (II) 1123年 5子 |
1140年2月14日 64/5歳没 |
従兄弟オタ2世(黒公)と公位を争う ブルノおよびズノイモを統治[8]、1123年にそれらの領地は以下のように継承された:
| |
| ヴラジスラフ2世 (Vladislav II & I) | 1110年頃 ヴラジスラフ1世とリヒェンツァ・フォン・ベルクの息子 |
1140年2月14日 - 1158年1月11日 (ボヘミア公) 1158年1月11日 - 1172年 (ボヘミア王) |
ゲルトルート・フォン・バーベンベルク 1140年 6子 ユーディト・フォン・テューリンゲン 1155年 3子 |
1174年1月18日 メーラネ 63/4歳没 | 1172年に退位 | |
| ベドジフ (Bedřich) | 1142年 ヴラジスラフ2世とゲルトルート・フォン・バーベンベルクの息子 |
1172年 - 1173年 1178年 - 1189年3月25日 | マジャロルサーギ・エルジェーベト 1157年 6子 |
1189年3月25日 46/7歳没 | ||
| ソビェスラフ2世 (Soběslav II. kníže sedláků) | 1128年 ソビェスラフ1世とマジャロルサーギ・アーデルハイド (II)の三男 |
1173年 - 1178年 | エルジュビェタ・ミェシュクヴナ 子女なし |
1180年1月29日 51/2歳没 | ||
| コンラート2世 (Konrád III. Ota) | 1136年頃 ズノイモ公コンラート2世とマリエ・スルプスカーの息子 |
1189年 - 1191年9月9日 | ハイリカ・フォン・ヴィッテルスバッハ 1176年以前 子女なし |
1191年9月9日 54/5歳没 |
ズノイモとオロモウツを統合。ブルノも1182年に統合し、初代モラヴィア辺境伯となった。 | |
| ヴァーツラフ2世 (Václav II.) | 1137年 ソビェスラフ1世とマジャロルサーギ・アーデルハイド (II)の四男 |
1191年9月9日 - 1192年 | 未婚 | 1192年頃 54/5歳没 | オタカル1世により廃位。 | |
| オタカル1世 (Přemysl Otakar I) | 1155年 ヴラジスラフ2世とユーディト・フォン・テューリンゲンの長男 |
1192年 - 1193年 1197年12月6日 - 1230年12月15日 (1198年以降はボヘミア王) |
アーデルハイト・フォン・マイセン 1178年 (1199年解消) 1子 マジャロルサーギ・コンスタンツィア 1199年 9子 |
1230年12月15日 プラハ 74/5歳没 |
1212年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により発行されたシチリアの金印勅書によって最初の世襲の王として承認された。 | |
| ブジェチスラフ3世 (Břetislav III. Jindřich) | 1137年 インジフとマルケータ(?)の息子 |
1193年 - 1197年6月15/19日 | 未婚 | 1197年6月15/19日 59/60歳没 |
インジフ(ヴラジスラフ2世の弟)の息子。プラハ司教(1182年 - 1197年)。 | |
| ヴラジスラフ3世 (Vladislav III. Jindřich) | 1137年 ヴラジスラフ2世とユーディト・フォン・テューリンゲンの次男 |
1197年6月22日 - 12月6日 | ハイルヴィダ 子女なし |
1222年8月12日 84/5歳没 |
嗣子なく死去し、死後、モラヴィアはボヘミア王子のアパナージュとなった。 | |
ボヘミア王
[編集]プシェミスル家
[編集]| 名前 | 生誕 | 在位 | 結婚 | 死去 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| オタカル1世 (Přemysl Otakar I) | 1155年 ヴラジスラフ2世とユーディト・フォン・テューリンゲンの長男 |
1198年 - 1230年12月15日 | アーデルハイト・フォン・マイセン 1178年 (1199年解消) 1子 マジャロルサーギ・コンスタンツィア 1199年 9子 |
1230年12月15日 プラハ 74/5歳没 |
1212年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により発行されたシチリアの金印勅書によって最初の世襲の王として承認された。 | |
| ヴァーツラフ1世 (Václav I. Jednooký) | 1205年 オタカル1世とマジャロルサーギ・コンスタンツィアの息子 |
1230年12月15日 - 1253年9月23日 | クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン 1224年 5子 |
1253年12月23日 クラールーフ・ドヴール 47/8歳没 | ||
| オタカル2世(大王) (Přemysl Otakar II. král železný a zlatý) | 1233年 ムニェステツ・クラーロヴェー ヴァーツラフ1世とクニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェンの息子 |
1253年12月23日 - 1278年8月26日 | マルガレーテ・フォン・バーベンベルク 1252年2月11日 ハインブルク・アン・デア・ドナウ (1261年解消) 子女なし クンフタ・ウヘルスカー 1261年10月25日 プレシュプルク 3子 |
1278年8月26日 デュルンクルト 44/5歳没 |
オーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、フリウーリ公およびクライン辺境伯を兼ねた。 | |
| クンフタ・ウヘルスカー(1278年 - 1285年)およびブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯オットー5世(1278年 - 1283年)による摂政政治 | クラクフ公(1291年から)およびポーランド王(1300年 - 1305年)を兼ねた。 | |||||
| ヴァーツラフ2世 (Václav II) | 1271年9月27日 プラハ オタカル2世とクンフタ・ウヘルスカーの息子 |
1278年8月26日 - 1305年6月21日 | ユッタ・フォン・ハプスブルク 1285年1月 ヘプ 10子 リクサ・エルジュビェタ 1303年5月26日 プラハ 1子 |
1305年6月21日 プラハ 33歳没 | ||
| ヴァーツラフ3世 (Václav III) | 1289年10月6日 ヴァーツラフ2世とユッタ・フォン・ハプスブルクの息子 |
1305年6月21日 - 1306年8月4日 | ヴィオラ・エルジュビェタ・チェシンスカ 1305年10月5日 ブルノ 子女なし |
1306年8月4日 オロモウツ 16歳没 |
ボヘミア王としては戴冠せず。ハンガリー王(1301年 - 1305年)およびポーランド王を兼ねた。 | |
内乱期
[編集]| 名前 | 生誕 | 在位 | 結婚 | 死去 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| アンナ・プシェミスロヴナ (Anna Přemyslovna) | 1290年10月10日 ヴァーツラフ2世とユッタ・フォン・ハプスブルクの娘 |
1306年8月4日 - 1306年 1307年7月3/4日 - 1310年12月3日 |
インジフ・コルタンスキー 1306年 子女なし |
1313年9月3日 オロモウツ 16年没 |
ボヘミアの女相続人であった彼女たちは、継承危機において夫たちが主張したボヘミア王位の真の継承者であった。3人の中で、ルドルフは最も主張力が弱く、人気も最も低かった。この争いは、1310年にエリシュカとヤンがプラハに侵攻し、対立するアンナとインジフを破ったことで終結した。 | |
| インジフ・コルタンスキー[注釈 2] (Jindřich Korutanský) | 1265年 ケルンテン公マインハルトとエリーザベト・フォン・バイエルンの息子 |
アンナ・プシェミスロヴナ 1306年 子女なし アーデルハイト・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1313年 2子 ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア 1327年 子女なし |
1335年4月2日 ティロル 69/70年没 | |||
| リクサ・エルジュビェタ (Eliška-Rejčka) | 1288年9月1日 ポズナン ポーランド王プシェミスウ2世とリキッサ・アヴ・スヴェーリエの娘 |
1306年 - 1307年7月3/4日 | ヴァーツラフ2世 1303年5月26日 プラハ 1子 ルドルフ1世・ハプスブルスキー 1306年10月16日 プラハ 子女なし |
1335年10月19日 ブルノ 47歳没 | ||
| ルドルフ1世・ハプスブルスキー (Rudolf Habsburský, Rudolf Dobrý) |
1281年頃 ウィーン アルブレヒト1世とエリーザベト・フォン・ケルンテンの長男 |
ブランシュ・ド・フランス 1300年5月25日 1子 リクサ・エルジュビェタ 1306年10月16日 プラハ 子女なし |
1307年7月3/4日 ホラジュジョヴィツェ 26歳没 | |||
| エリシュカ・プシェミスロヴナ (Eliška Přemyslovna) | 1292年1月20日 プラハ ヴァーツラフ2世とユッタ・フォン・ハプスブルクの娘 |
1310年12月3日 - 1330年9月28日 | ヤン・ルケンブルスキー 1310年9月1日 プラハ 7子 |
1330年9月28日 プラハ 38歳没 | ||
| ヤン・ルケンブルスキー (Jan Lucemburský, Jan Slepý) | 1296年8月10日 ルクセンブルク 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世とマルグリット・ド・ブラバンの息子 |
1310年12月3日 - 1346年8月26日 | エリシュカ・プシェミスロヴナ 1310年9月1日 プラハ 7子 ベアトリス・ド・ブルボン 1334年12月 ヴァンセンヌ 1子 |
1346年8月26日 クレシー=アン=ポンティユー 50歳没 | ||
| 名前 | 在位 | 備考 | |
|---|---|---|---|
| ヤン・ルケンブルスキー (Jan Lucemburský) |
1310年 - 1346年 | ヴァーツラフ2世の義理の息子。 | |
| カレル1世 (Karel I.) |
1346年 - 1378年 | ヤンの息子。神聖ローマ皇帝カール4世。ルクセンブルク伯。 | |
| ヴァーツラフ4世 (Václav IV.) |
1378年 - 1419年 | カレル1世の息子。1400年までローマ王。ブランデンブルク選帝侯およびルクセンブルク公。 | |
| ジクムント (Zikmund) |
1419年 - 1437年 | ヴァーツラフ4世の弟。(フス戦争のため)1436年から1437年までのみ統治した。神聖ローマ皇帝およびハンガリー王、ルクセンブルク公も兼任した。 | |
| 名前 | 在位 | 備考 | |
|---|---|---|---|
| アルブレヒト (Albrecht Habsburský) |
1437年 - 1439年 | ジクムントの義理の息子。ローマ王、オーストリア公、およびハンガリー王。 | |
| 空位時代 | 1440年 - 1453年 | アルブレヒトの息子の継承は、この時代においてチェコ貴族によって認められず、領地はラント平和令によって管理されていた。 | |
| ラジスラフ・ポフロベク (Ladislav Pohrobek) |
1453年 - 1457年 | アルブレヒトの息子(父の死後に生まれた)。オーストリア公、ハンガリー王。 | |
フス派の王
[編集]| 名前 | 在位 | 備考 | |
|---|---|---|---|
| イジー・ズ・ポジェブラト (Jiří z Poděbrad) |
1458年 - 1471年 | チェコの貴族クンシュタート家から選出された国王。子孫はいたものの、王位継承権はポーランド王国の王子に継承された。 | |
| マティアス1世 (Matyáš I. Korvín) |
1469年 - 1490年 | ハンガリー王。1469年、反乱を起こしたカトリック系チェコ貴族によって対立王として選出されたが、戴冠式は行われなかった。1479年、王位は保持しつつ、統治範囲をモラヴィア、シレジア、ラウジッツに限定することに同意した。 | |
| 名前 | 在位 | 備考 | |
|---|---|---|---|
| ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー (Vladislav II. Jagellonský) |
1471年 - 1516年 | ラジスラフ・ポフロベクの甥。イジー・ズ・ポジェブラトの要請により王に選出された。1490年以降はハンガリー王も兼ねた。 | |
| ルドヴィーク (Ludvík Jagellonský) |
1516年 - 1526年 | ヴラジスラフの息子。ハンガリー王。 | |
ボヘミア王(ハプスブルク君主国)
[編集]| 名前 | 在位 | 備考 | |
|---|---|---|---|
| フェルジナンド1世 | 1526年 - 1564年 | ルドヴィークの義弟。国王に選出された。1558年からはハンガリー王および神聖ローマ皇帝にも選出された。 | |
| マクシミリアン1世 (Maxmilián I.) |
1564年 - 1576年 | フェルジナンド1世の息子、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーの孫。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| ルドルフ2世 (Rudolf II.) |
1576年 - 1612年 | マクシミリアン1世の息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| マティアス2世 (Matyáš II.) |
1612年 - 1615年 | ルドルフ2世の弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| フェルジナンド2世 | 1615年 - 1619年 1620年 - 1637年 |
マティアス2世の従兄弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| フリードリヒ1世(冬王) (Fridrich I.) |
1619年 - 1620年 | プファルツ=ジンメルン家、プファルツ選帝侯。三十年戦争の初めに王室評議会によって選出されたが、白山の戦いで敗北した後、国外に逃亡した。 | |
| フェルジナンド3世 | 1637年 - 1657年 | フェルジナンド2世の息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。この時から、ボヘミアは選挙君主制ではなくなり、ハプスブルク家が白山の戦いで独占的な支配を確立した。 | |
| フェルジナンド4世 | 1646年 - 1654年 | フェルジナンド3世の息子。父の治世中は共同君主を務めた。ハンガリー王およびローマ王(帝位継承前に死去)でもあった。 | |
| レオポルド1世 | 1657年 - 1705年 | フェルジナンド4世の弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| ヨゼフ1世 (Josef I.) |
1705年 - 1711年 | レオポルド1世の息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| カレル2世 (Karel II.) |
1711年 - 1740年 | ヨゼフ1世の弟。カール6世としてハンガリー王および神聖ローマ皇帝も務めた。 | |
| マリエ・テレジエ (Marie Terezie) |
1740年 - 1741年 1743年 - 1780年 |
カレル2世の娘。オーストリア大公、ハンガリー女王。 | |
| カレル・アルブレフト (Karel Albrecht) |
1741年 - 1743年 | ヴィッテルスバッハ家、バイエルン選帝侯。ヨゼフ1世の義理の息子。オーストリア継承戦争中は マリエ・テレジエの対立王であった。また、カール7世として神聖ローマ皇帝にもなった。 | |
| 名前 | 在位 | 備考 | |
|---|---|---|---|
| ヨゼフ2世 (Josef II.) |
1780年 - 1790年 | マリエ・テレジエの息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| レオポルド2世 | 1790年 - 1792年 | ヨーゼフ2世の弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。 | |
| フランティシェク1世 (František I.) |
1792年 - 1835年 | レオポルド2世の息子。ハンガリー王、1806年まで神聖ローマ皇帝、1804年からオーストリア皇帝も務めた。 | |
| フェルジナンド5世 | 1835年 - 1848年 | フランツ1世の息子。オーストリア皇帝およびハンガリー王でもあった。ボヘミア王としては最後の戴冠者。1848年の革命中に退位を余儀なくされた。 | |
| フランティシェク・ヨゼフ1世 (František Josef I.) |
1848年 - 1916年 | フェルジナンド5世の甥。オーストリア皇帝およびハンガリー王でもあった。 | |
| カレル3世 (Karel III.) |
1916年 - 1918年 | フランティシェク・ヨゼフ1世の大甥。オーストリア皇帝およびハンガリー王も兼任。第一次世界大戦中に短期間統治したが、1918年11月に国政への関与を放棄したものの、退位はしなかった。 | |
注釈
[編集]脚注
[編集]- ↑ 歴史家ヤロスラフ・ザステラの仮説によれば、ボジヴォイはモラヴィアのラスティスラフの息子であり、プシェミスル朝はモラヴィア王国の統治者の直系の子孫である可能性がある(Hypotheses and citations of articles by J. Zástěry on the website of the Club of Friends of the Znojmo Rotunda (in Czech)参照)。
- ↑ “Saint Ludmila Slavic saint”. Encyclopaedia Britannica. Encyclopædia Britannica, inc. (2018年9月11日). 2026年3月7日閲覧。
- ↑ “Wenceslas I”. Encyclopædia Britannica. 2022年5月11日閲覧。
- ↑ “Sep 28 – St Wenceslaus (907–929) martyr”. CatholicIreland.net (2011年9月28日). 2022年5月11日閲覧。
- ↑ “Svatý Václav se narodil u nás, tvrdí obyvatelé Stochova na Kladensku” (チェコ語). iDnes (2011年9月28日). 2022年5月11日閲覧。
- ↑ “The Premyslids”. Genealogy.eu. 2022年5月11日閲覧。
- ↑ 伝承による。
- ↑ 異なる系統による統治の中断は、例えば15世紀のオーストリア公国で起こったように、摂政時代と見なすこともできる。オーストリア公国では、フリードリヒ5世が従兄弟のラディスラウス・ポストゥムスのために摂政を執った。しかし、こうした統治の中断は、例えばキエフ・ルーシにおける統治者による統治の「移動」にも似ている可能性がある。しかし、これは何ら証明されていない。











