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ボヘミア君主一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聖ヴァーツラフの王冠宝珠王笏ボヘミア王国のクラウンジュエルチェコ語版

ボヘミア君主一覧(ボヘミアくんしゅいちらん)では、ボヘミア君主であるボヘミアおよびボヘミア国王を挙げる。ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。

プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国構成国として続く。

ボヘミア公

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プシェミスル家

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名前生誕在位結婚死去備考
ボジヴォイ1世 852年
ホスティヴィト英語版の息子 (?)[1]
870年 - 883年

885年 - 889年
リュドミラ
873年[2]
6子
889年
35/6歳没
記録に残る最初の王朝の統治者。
ストロイミールチェコ語版 ? 883年頃 - 885年? ?簒奪者とみられる。
ボヘミアはモラヴィア王国に併合(889年 - 894年)
スピチフニェフ1世 882年
ボジヴォイ1世リュドミラの長男
894年 - 915年未婚 915年
32/3歳没
907年からモラヴィアも統治。彼の統治によりボヘミアの主権は回復された。
ヴラチスラフ1世
(Vratislav)
888年
ボジヴォイ1世リュドミラの次男
915年 - 921年2月13日ドラホミーラ
3子
921年2月13日
32/3歳没
リュドミラ(921年)およびドラホミーラ(921年 - 925年)の摂政政治 聖ヴァーツラフ(『ウェンセスラスはよい王様』)として知られ、チェコの守護聖人である。
ヴァーツラフ1世
(Svatý Václav)
907年[3][4][注釈 1]
ストホフ英語版[7]
ヴラチスラフ1世ドラホミーラの長男
921年2月13日 - 929/35年9月28日未婚 929/35年9月28日
スタラー・ボレスラフ英語版
21/2歳または27/8歳没
ボレスラフ1世(残酷公)
(Boleslav I. Ukrutný)
915年
プラハ (?)
ヴラチスラフ1世ドラホミーラの次男
929/35年9月28日 - 972年7月ビアゴタ英語版
4子
972年7月
56/7歳没
公位を継承するために兄を暗殺した。
ボレスラフ2世(敬虔公)
(Boleslav II. Pobožný)
940年
プラハ (?)
ボレスラフ1世ビアゴタ英語版の息子
972年7月 - 999年2月7日アディヴェア英語版(・オブ・イングランド?)
4子

エマ英語版
エマ・ディタリー (?))
989年
子女なし
999年2月7日
58/9歳没
モラヴィアは999年にポーランドに奪われた。
ボレスラフ3世英語版(赤公)
(Boleslav III. Ryšavý)
965年
ボレスラフ2世アディヴェア英語版の長男
999年2月7日 - 1002年5月

1003年2月 - 3月
不明 1037年
56/7歳没
1002年から1004年にかけて、ボヘミアはポーランドに二度侵略された。
ポーランドに併合(1002年 - 1004年)

ピャスト家

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名前生誕在位結婚死去備考
ヴラジヴォイ 981年頃
ポーランド公ミェシュコ1世とドゥブラフカの息子 (?)
1002年5月 - 1003年1月? 1003年1月
22歳位で没
実際はピャスト家かどうか不明
ボレスラフ4世 966/7年
ポーランド公ミェシュコ1世とドゥブラフカの息子
1003年 - 1004年(1) マイセン辺境伯リクダックの娘
980年代初め
子女なし
(2) 「ハンガリー人の女性」
1男
(3) エムニルダ
2男3女
(4) オーダ・フォン・マイセン
1018年2月3日
1女
1025年6月17日
57/8歳没
ポーランド王(ボレスワフ1世)

プシェミスル家

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名前生誕在位結婚死去備考
ヤロミール 970年頃
ボレスラフ2世エマ英語版の息子
1004年 - 1012年4月12日

1034年11月9日 - 1035年
不明 1038年11月4日
リサー・ナト・ラベム英語版
60/70歳没
1004年、ヤロミールはドイツ軍を率いてプラハを占領し、ボヘミア公を自称し、領土は縮小されたものの、一族の領地を回復した。ボレスラフ3世の弟であったヤロミールとオルドジフは、1034年にオルドジフが死去しヤロミールが引退(その後暗殺)するまで、帝位をめぐって争いを続けた。しかし、ポーランドからモラヴィアを再び奪取して1019年にボヘミアに再編入したため領土は拡大し、モラヴィアはオルドジフの息子ブジェチスラフ1世に与えられた。
オルドジフ
(Oldřich)
975年頃
ボレスラフ2世エマ英語版の息子
1012年4月12日 - 1034年11月9日ボジェナ英語版
1002年頃
1子
1034年11月9日/1042年
59/60歳没または66/7歳没
ブジェチスラフ1世
(Břetislav I. český Achilles)
1002/5年
オルドジフボジェナ英語版の息子
1035年 - 1055年1月10日ユーディト・フォン・シュヴァインフルト
1020年
4子
1055年1月10日
50/3歳没
1019/29年 - 1033年、1034年11月9日 - 1055年1月10日:モラヴィア公
モラヴィアがボヘミアから初めて分離した。父は1年間その地位を奪ったが、父の死後、息子たちが遺産を分け合った。
スピチフニェフ2世 1031年
ブジェチスラフ1世ユーディト・フォン・シュヴァインフルトの長男
1055年1月10日 - 1061年1月28日イダ・フォン・ヴェッティン
1054年
1子
1061年1月28日
29/30歳没
ブジェチスラフ1世の子供たちは遺領を分割した。

この分割は、スピチフニェフ2世(1055年)によって無効とされた。1056年以降、スピチフニェフ2世はモラヴィアにまで支配を拡大し、プシェミスル家の領地全土を支配下に置いた。しかし、スピチフニェフの死後(1061年)、ヴラチスラフ2世がボヘミアを相続したため、領地を持たない兄弟たちは領地を取り戻し改めて分割し直した。

  • コンラート1世はブルノを取り戻したが、オタ1世の持ち分であったズノイモも受け取った。
  • オタ1世はヴラチスラフ2世の持ち分であったオロモウツを受け取った。
ヴラチスラフ2世
(Vratislav II)
1035年頃
ブジェチスラフ1世ユーディト・フォン・シュヴァインフルトの次男
1061年1月28日 - 1085年6月
(ボヘミア公)

1085年6月 - 1092年1月14日
(ボヘミア王)
マリア
1057年以前
子女なし

マジャロルサーギ・アーデルハイド英語版 (I)
1057年
4子

シフィエントスワヴァ・ポルスカ
1062年
5子
1092年1月14日
59/60歳没
コンラート1世
(Konrád I)
1035年頃
ブジェチスラフ1世ユーディト・フォン・シュヴァインフルトの三男
1092年1月14日 - 9月6日ヴィルピルク・フォン・テングリング
1054年
2子
1092年9月6日
56/57歳没
ブジェチスラフ2世英語版
(Břetislav II)
1060年頃
ヴラチスラフ2世マジャロルサーギ・アーデルハイド英語版 (I)の息子
1092年9月6日 - 1100年12月22日ルイトガルト・フォン・ボーゲン
1094年
1子
1100年12月22日
39/40歳没
ボジヴォイ2世英語版 1064年頃
プラハ
ヴラチスラフ2世シフィエントスワヴァ・ポルスカの次男
1100年12月25日 - 1107年5月

1117年12月 - 1120年8月16日
ゲルベルガ・フォン・バーベンベルク
1100年10月
ズノイモ
子女なし
1124年2月2日
39/40歳没
二度統治、1120年に退位した。
スヴァトプルク(1世)
(Svatopluk Olomoucký)
1075年
オタ1世英語版マジャロルサーギ・エウフェーミア英語版の長男
1107年5月 - 1109年9月21日不明
1子
1109年9月21日
33/4歳没
ヴラジスラフ1世
(Vladislav I)
1065年頃
ヴラチスラフ2世シフィエントスワヴァ・ポルスカの三男
1109年9月21日 - 1117年12月

1120年8月16日 - 1125年4月12日
リヒェンツァ・フォン・ベルク英語版
1110/11年
4子
1125年4月12日
プラハ
59/60歳没
二度統治した
ソビェスラフ1世英語版 1075年頃
ヴラチスラフ2世シフィエントスワヴァ・ポルスカの四男
1125年4月12日 - 1140年2月14日マジャロルサーギ・アーデルハイド英語版 (II)
1123年
5子
1140年2月14日
64/5歳没
従兄弟オタ2世英語版(黒公)と公位を争う
ブルノおよびズノイモを統治[8]、1123年にそれらの領地は以下のように継承された:
ヴラジスラフ2世
(Vladislav II & I)
1110年頃
ヴラジスラフ1世リヒェンツァ・フォン・ベルク英語版の息子
1140年2月14日 - 1158年1月11日
(ボヘミア公)

1158年1月11日 - 1172年
(ボヘミア王)
ゲルトルート・フォン・バーベンベルク
1140年
6子

ユーディト・フォン・テューリンゲン
1155年
3子
1174年1月18日
メーラネ英語版
63/4歳没
1172年に退位
ベドジフ
(Bedřich)
1142年
ヴラジスラフ2世ゲルトルート・フォン・バーベンベルクの息子
1172年 - 1173年

1178年 - 1189年3月25日
マジャロルサーギ・エルジェーベト英語版
1157年
6子
1189年3月25日
46/7歳没
ソビェスラフ2世英語版
(Soběslav II. kníže sedláků)
1128年
ソビェスラフ1世英語版マジャロルサーギ・アーデルハイド英語版 (II)の三男
1173年 - 1178年エルジュビェタ・ミェシュクヴナ
子女なし
1180年1月29日
51/2歳没
コンラート2世
(Konrád III. Ota)
1136年頃
ズノイモ公コンラート2世マリエ・スルプスカーの息子
1189年 - 1191年9月9日ハイリカ・フォン・ヴィッテルスバッハ
1176年以前
子女なし
1191年9月9日
54/5歳没
ズノイモとオロモウツを統合。ブルノも1182年に統合し、初代モラヴィア辺境伯となった。
ヴァーツラフ2世英語版
(Václav II.)
1137年
ソビェスラフ1世英語版マジャロルサーギ・アーデルハイド英語版 (II)の四男
1191年9月9日 - 1192年未婚 1192年頃
54/5歳没
オタカル1世により廃位。
オタカル1世
(Přemysl Otakar I)
1155年
ヴラジスラフ2世ユーディト・フォン・テューリンゲンの長男
1192年 - 1193年

1197年12月6日 - 1230年12月15日
(1198年以降はボヘミア王)
アーデルハイト・フォン・マイセン
1178年
(1199年解消)
1子

マジャロルサーギ・コンスタンツィア
1199年
9子
1230年12月15日
プラハ
74/5歳没
1212年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により発行されたシチリアの金印勅書によって最初の世襲の王として承認された。
ブジェチスラフ3世英語版
(Břetislav III. Jindřich)
1137年
インジフチェコ語版とマルケータ(?)の息子
1193年 - 1197年6月15/19日未婚 1197年6月15/19日
59/60歳没
インジフ(ヴラジスラフ2世の弟)の息子。プラハ司教(1182年 - 1197年)。
ヴラジスラフ3世
(Vladislav III. Jindřich)
1137年
ヴラジスラフ2世ユーディト・フォン・テューリンゲンの次男
1197年6月22日 - 12月6日ハイルヴィダ
子女なし
1222年8月12日
84/5歳没
嗣子なく死去し、死後、モラヴィアはボヘミア王子のアパナージュとなった。

ボヘミア王

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プシェミスル家

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名前生誕在位結婚死去備考
オタカル1世
(Přemysl Otakar I)
1155年
ヴラジスラフ2世ユーディト・フォン・テューリンゲンの長男
1198年 - 1230年12月15日 アーデルハイト・フォン・マイセン
1178年
(1199年解消)
1子

マジャロルサーギ・コンスタンツィア
1199年
9子
1230年12月15日
プラハ
74/5歳没
1212年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により発行されたシチリアの金印勅書によって最初の世襲の王として承認された。
ヴァーツラフ1世
(Václav I. Jednooký)
1205年
オタカル1世マジャロルサーギ・コンスタンツィアの息子
1230年12月15日 - 1253年9月23日 クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン
1224年
5子
1253年12月23日
クラールーフ・ドヴール英語版
47/8歳没
オタカル2世(大王)
(Přemysl Otakar II. král železný a zlatý)
1233年
ムニェステツ・クラーロヴェー英語版
ヴァーツラフ1世クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェンの息子
1253年12月23日 - 1278年8月26日 マルガレーテ・フォン・バーベンベルク
1252年2月11日
ハインブルク・アン・デア・ドナウ英語版
(1261年解消)
子女なし

クンフタ・ウヘルスカー
1261年10月25日
プレシュプルク
3子
1278年8月26日
デュルンクルト英語版
44/5歳没
オーストリア公シュタイアーマルク公ケルンテン公フリウーリ公およびクライン辺境伯を兼ねた。
クンフタ・ウヘルスカー(1278年 - 1285年)およびブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯オットー5世(1278年 - 1283年)による摂政政治 クラクフ公(1291年から)およびポーランド王(1300年 - 1305年)を兼ねた。
ヴァーツラフ2世
(Václav II)
1271年9月27日
プラハ
オタカル2世クンフタ・ウヘルスカーの息子
1278年8月26日 - 1305年6月21日 ユッタ・フォン・ハプスブルク
1285年1月
ヘプ
10子

リクサ・エルジュビェタ
1303年5月26日
プラハ
1子
1305年6月21日
プラハ
33歳没
ヴァーツラフ3世
(Václav III)
1289年10月6日
ヴァーツラフ2世ユッタ・フォン・ハプスブルクの息子
1305年6月21日 - 1306年8月4日 ヴィオラ・エルジュビェタ・チェシンスカ
1305年10月5日
ブルノ
子女なし
1306年8月4日
オロモウツ
16歳没
ボヘミア王としては戴冠せず。ハンガリー王(1301年 - 1305年)およびポーランド王を兼ねた。

内乱期

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名前生誕在位結婚死去備考
アンナ・プシェミスロヴナ
(Anna Přemyslovna)
1290年10月10日
ヴァーツラフ2世ユッタ・フォン・ハプスブルクの娘
1306年8月4日 - 1306年
1307年7月3/4日 - 1310年12月3日
インジフ・コルタンスキー
1306年
子女なし
1313年9月3日
オロモウツ
16年没
ボヘミアの女相続人であった彼女たちは、継承危機において夫たちが主張したボヘミア王位の真の継承者であった。3人の中で、ルドルフは最も主張力が弱く、人気も最も低かった。この争いは、1310年にエリシュカとヤンがプラハに侵攻し、対立するアンナとインジフを破ったことで終結した。
インジフ・コルタンスキー[注釈 2]
(Jindřich Korutanský)
1265年
ケルンテン公マインハルトエリーザベト・フォン・バイエルンの息子
アンナ・プシェミスロヴナ
1306年
子女なし

アーデルハイト・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
1313年
2子

ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
1327年
子女なし
1335年4月2日
ティロル
69/70年没
リクサ・エルジュビェタ
(Eliška-Rejčka)
1288年9月1日
ポズナン
ポーランド王プシェミスウ2世リキッサ・アヴ・スヴェーリエの娘
1306年 - 1307年7月3/4日 ヴァーツラフ2世
1303年5月26日
プラハ
1子

ルドルフ1世・ハプスブルスキー
1306年10月16日
プラハ
子女なし
1335年10月19日
ブルノ
47歳没
ルドルフ1世・ハプスブルスキー
(Rudolf Habsburský, Rudolf Dobrý)
1281年頃
ウィーン
アルブレヒト1世エリーザベト・フォン・ケルンテンの長男
ブランシュ・ド・フランス
1300年5月25日
1子

リクサ・エルジュビェタ
1306年10月16日
プラハ
子女なし
1307年7月3/4日
ホラジュジョヴィツェ英語版
26歳没
エリシュカ・プシェミスロヴナ
(Eliška Přemyslovna)
1292年1月20日
プラハ
ヴァーツラフ2世ユッタ・フォン・ハプスブルクの娘
1310年12月3日 - 1330年9月28日 ヤン・ルケンブルスキー
1310年9月1日
プラハ
7子
1330年9月28日
プラハ
38歳没
ヤン・ルケンブルスキー
(Jan Lucemburský, Jan Slepý)
1296年8月10日
ルクセンブルク
神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世マルグリット・ド・ブラバンの息子
1310年12月3日 - 1346年8月26日 エリシュカ・プシェミスロヴナ
1310年9月1日
プラハ
7子

ベアトリス・ド・ブルボン
1334年12月
ヴァンセンヌ
1子
1346年8月26日
クレシー=アン=ポンティユー
50歳没
名前在位備考
ヤン・ルケンブルスキー
(Jan Lucemburský)
1310年 - 1346年 ヴァーツラフ2世の義理の息子。
カレル1世
(Karel I.)
1346年 - 1378年 ヤンの息子。神聖ローマ皇帝カール4世。ルクセンブルク伯。
ヴァーツラフ4世
(Václav IV.)
1378年 - 1419年 カレル1世の息子。1400年までローマ王。ブランデンブルク選帝侯およびルクセンブルク公。
ジクムント
(Zikmund)
1419年 - 1437年 ヴァーツラフ4世の弟。(フス戦争のため)1436年から1437年までのみ統治した。神聖ローマ皇帝およびハンガリー王、ルクセンブルク公も兼任した。
名前在位備考
アルブレヒト
(Albrecht Habsburský)
1437年 - 1439年 ジクムントの義理の息子。ローマ王、オーストリア公、およびハンガリー王。
空位時代 1440年 - 1453年 アルブレヒトの息子の継承は、この時代においてチェコ貴族によって認められず、領地はラント平和令によって管理されていた。
ラジスラフ・ポフロベク
(Ladislav Pohrobek)
1453年 - 1457年 アルブレヒトの息子(父の死後に生まれた)。オーストリア公、ハンガリー王。

フス派の王

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名前在位備考
イジー・ズ・ポジェブラト
(Jiří z Poděbrad)
1458年 - 1471年 チェコの貴族クンシュタート家から選出された国王。子孫はいたものの、王位継承権はポーランド王国の王子に継承された。
マティアス1世
(Matyáš I. Korvín)
1469年 - 1490年 ハンガリー王。1469年、反乱を起こしたカトリック系チェコ貴族によって対立王として選出されたが、戴冠式は行われなかった。1479年、王位は保持しつつ、統治範囲をモラヴィアシレジアラウジッツに限定することに同意した。
名前在位備考
ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー
(Vladislav II. Jagellonský)
1471年 - 1516年 ラジスラフ・ポフロベクの甥。イジー・ズ・ポジェブラトの要請により王に選出された。1490年以降はハンガリー王も兼ねた。
ルドヴィーク
(Ludvík Jagellonský)
1516年 - 1526年 ヴラジスラフの息子。ハンガリー王。

ボヘミア王(ハプスブルク君主国)

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名前在位備考
フェルジナンド1世 1526年 - 1564年 ルドヴィークの義弟。国王に選出された。1558年からはハンガリー王および神聖ローマ皇帝にも選出された。
マクシミリアン1世
(Maxmilián I.)
1564年 - 1576年 フェルジナンド1世の息子、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーの孫。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
ルドルフ2世
(Rudolf II.)
1576年 - 1612年 マクシミリアン1世の息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
マティアス2世
(Matyáš II.)
1612年 - 1615年 ルドルフ2世の弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
フェルジナンド2世 1615年 - 1619年
1620年 - 1637年
マティアス2世の従兄弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
フリードリヒ1世(冬王)
(Fridrich I.)
1619年 - 1620年 プファルツ=ジンメルン家プファルツ選帝侯三十年戦争の初めに王室評議会によって選出されたが、白山の戦いで敗北した後、国外に逃亡した。
フェルジナンド3世 1637年 - 1657年 フェルジナンド2世の息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。この時から、ボヘミアは選挙君主制ではなくなり、ハプスブルク家が白山の戦いで独占的な支配を確立した。
フェルジナンド4世 1646年 - 1654年 フェルジナンド3世の息子。父の治世中は共同君主を務めた。ハンガリー王およびローマ王(帝位継承前に死去)でもあった。
レオポルド1世 1657年 - 1705年 フェルジナンド4世の弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
ヨゼフ1世
(Josef I.)
1705年 - 1711年 レオポルド1世の息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
カレル2世
(Karel II.)
1711年 - 1740年 ヨゼフ1世の弟。カール6世としてハンガリー王および神聖ローマ皇帝も務めた。
マリエ・テレジエ
(Marie Terezie)
1740年 - 1741年
1743年 - 1780年
カレル2世の娘。オーストリア大公、ハンガリー女王。
カレル・アルブレフト
(Karel Albrecht)
1741年 - 1743年 ヴィッテルスバッハ家バイエルン選帝侯ヨゼフ1世の義理の息子。オーストリア継承戦争中は マリエ・テレジエの対立王であった。また、カール7世として神聖ローマ皇帝にもなった。
名前在位備考
ヨゼフ2世
(Josef II.)
1780年 - 1790年 マリエ・テレジエの息子。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
レオポルド2世 1790年 - 1792年 ヨーゼフ2世の弟。ハンガリー王および神聖ローマ皇帝でもあった。
フランティシェク1世
(František I.)
1792年 - 1835年 レオポルド2世の息子。ハンガリー王、1806年まで神聖ローマ皇帝、1804年からオーストリア皇帝も務めた。
フェルジナンド5世 1835年 - 1848年 フランツ1世の息子。オーストリア皇帝およびハンガリー王でもあった。ボヘミア王としては最後の戴冠者。1848年の革命中に退位を余儀なくされた。
フランティシェク・ヨゼフ1世
(František Josef I.)
1848年 - 1916年 フェルジナンド5世の甥。オーストリア皇帝およびハンガリー王でもあった。
カレル3世
(Karel III.)
1916年 - 1918年 フランティシェク・ヨゼフ1世の大甥。オーストリア皇帝およびハンガリー王も兼任。第一次世界大戦中に短期間統治したが、1918年11月に国政への関与を放棄したものの、退位はしなかった。

注釈

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  1. 他の史料では908年[5]または911年[6]とされる。
  2. ケルンテン公としてはハインリヒ6世。

脚注

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  1. 歴史家ヤロスラフ・ザステラの仮説によれば、ボジヴォイはモラヴィアのラスティスラフの息子であり、プシェミスル朝はモラヴィア王国の統治者の直系の子孫である可能性がある(Hypotheses and citations of articles by J. Zástěry on the website of the Club of Friends of the Znojmo Rotunda (in Czech)参照)。
  2. Saint Ludmila Slavic saint”. Encyclopaedia Britannica. Encyclopædia Britannica, inc. (2018年9月11日). 2026年3月7日閲覧。
  3. Wenceslas I”. Encyclopædia Britannica. 2022年5月11日閲覧。
  4. Sep 28 – St Wenceslaus (907–929) martyr”. CatholicIreland.net (2011年9月28日). 2022年5月11日閲覧。
  5. Svatý Václav se narodil u nás, tvrdí obyvatelé Stochova na Kladensku (チェコ語). iDnes (2011年9月28日). 2022年5月11日閲覧。
  6. The Premyslids”. Genealogy.eu. 2022年5月11日閲覧。
  7. 伝承による。
  8. 異なる系統による統治の中断は、例えば15世紀のオーストリア公国で起こったように、摂政時代と見なすこともできる。オーストリア公国では、フリードリヒ5世が従兄弟のラディスラウス・ポストゥムスのために摂政を執った。しかし、こうした統治の中断は、例えばキエフ・ルーシにおける統治者による統治の「移動」にも似ている可能性がある。しかし、これは何ら証明されていない。

関連項目

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