土橋勇逸
| 土橋 勇逸 つちはし ゆういつ | |
|---|---|
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| 生誕 |
1891年1月1日 |
| 死没 | 1972年5月31日(81歳没) |
| 所属組織 |
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| 軍歴 | 1912年 - 1945年 |
| 最終階級 | 中将 |
| 墓所 | 多磨霊園 |
土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]佐賀県小城郡芦刈村(現・小城市)出身。小城中学校在学中、日露戦争が勃発。郷里から将校が出征する姿や、演習帰りの歩兵第48連隊の留守大隊の将校らを見て自身も軍人を志す[1]。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校に進学。中隊長は三木宗太郎、区隊長は津村諭吉(のち鴨脚光弘)、指導生徒は神田正種だった。神田の誘いで富久町の善慶寺にて精神修養を行うようになり、陸士卒業後も同期の甘粕正彦と度々訪れている。歩兵第37連隊での勤務を経て陸軍士官学校に進学。しかし区隊長の森本八十三中尉とのそりが合わず、大きく内申点を落としてしまう[2]。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第37連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業した。
1921年(大正10年)4月、参謀本部付勤務となり、次いで参謀本部員に就任。1923年(大正12年)4月から一年間、陸軍委託学生として東京外国語学校でフランス語を学んだ。1924年(大正13年)7月から1927年(昭和2年)1月までフランスに駐在し、この間、国際連盟代表随員、陸軍省軍務局課員(軍事課)を務めた。1930年(昭和5年)8月、歩兵第1連隊大隊長となり、参謀本部員、欧州出張、軍務局課員などを経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第20連隊長に就任した。1937年(昭和12年)8月、フランス大使館付武官発令を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級。
1939年(昭和14年)5月、参謀本部付となり、次いで第21軍参謀長に就任し日中戦争に出征。参謀本部第2部長、支那派遣軍総参謀副長、兼中国大使館付武官を経て、1941年(昭和16年)8月、陸軍中将となった。同年9月、第48師団長に親補され台湾に駐屯。太平洋戦争開戦により、フィリピンの戦い、蘭印作戦に参加し、その後、ティモール島の警備に従事した。1944年(昭和19年)11月、印度支那駐屯軍司令官に発令され、翌月、印度支那駐屯軍が第38軍に改編後も引き続き司令官を務めた。1945年(昭和20年)3月、仏印総督代行を兼務し終戦をハノイで迎えた。
1946年(昭和21年)4月、戦犯容疑により広東で抑留され、1948年(昭和23年)1月、サイゴンで抑留となった。1949年(昭和24年)7月、不起訴処分となり、翌年6月に復員。
国内では1948年(昭和23年)1月31日に公職追放の仮指定を受けた[3]。
晩年、改めて勲一等の授与が発表されたが、現物が届く前に発作を起こして昏睡状態となり、1972年5月31日正午過ぎに死去した[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章(大正)[6] | ||
| 1934年(昭和9年)4月29日 | 勲四等旭日小綬章[7] | ||
| 1934年(昭和9年)4月29日 | 昭和六年乃至九年事変従軍記章[7] | ||
| 1940年(昭和15年)8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[8] |
- 外国勲章佩用允許
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1934年(昭和9年)3月1日 | 建国功労章[9] | |||
| 1941年(昭和16年)12月9日 | 建国神廟創建記念章[10] |
親族
[編集]著作
[編集]脚注
[編集]- ↑ 土橋 1985, p. 4-5.
- ↑ 土橋 1985, p. 32.
- ↑ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、210頁。NDLJP:1276156。
- ↑ 「花だより今月の話題 24期」『偕行』第253巻、陸修偕行社、32頁、1972年7月。NDLJP:11435364/17。
- ↑ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
- ↑ 『官報』第1407号・付録「辞令」1917年4月13日。p6
- 1 2 『官報』第2602号・付録「叙任及辞令二」1935年9月3日。p13
- ↑ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。p.5
- ↑ 『官報』第2493号・付録「辞令二」1935年4月27日。p.6
- ↑ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。p.2
参考文献
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