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敦実親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
敦実親王
敦実親王像(沙沙貴神社所蔵)
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 寛平5年(893年)
薨去 康保4年3月2日(967年4月14日)
改名 覚真(法名)[1]
別名 六条式部卿宮[2]、八条宮[3]、仁和寺宮[4]
官位 一品式部卿
父母 父:宇多天皇、母:藤原胤子
兄弟 醍醐天皇、斉中親王、斉世親王、敦慶親王、敦固親王、斉邦親王、均子内親王、柔子内親王、君子内親王、載明親王、敦実親王、孚子内親王、成子内親王、依子内親王、行中親王、誨子内親王、季子内親王、雅明親王、行明親王、源順子、他
妻 藤原時平の娘
子 源寛信、寛朝、源雅信、源重信、雅慶
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敦実親王(あつみしんのう)は、宇多天皇の第八皇子[5]。母は贈皇太后・藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。官位は一品・式部卿。六条宮を称した。

経歴

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寛平5年(893年)贈皇太后・藤原胤子を母として誕生[6]。寛平7年(895年)親王宣下を受け、延喜7年(907年)宇多院において元服を迎えるが、醍醐天皇より宸筆の位記を賜り、三品に叙せられている。

親王は若くして管弦の才を現し、宮中の文化的な行事において重要な役割を果たした。延喜13年(913年)の亭子院歌合では右頭を務め[7]、延喜16年(916年)には醍醐天皇の行幸による宇多法皇の五十の算賀の宴に陪席した[8]。特に音楽面での貢献は著しく、延喜17年(917年)3月および18年(918年)2月の六条院への行幸における御遊では笛を奉仕し[9]、延長3年(925年)正月の仁和寺朝観行幸や清涼殿での臨時御会では、敦慶親王や公卿らと共に弦歌を奏している[10]。また、北野や大原野への行幸にも度々供奉した。

朱雀天皇の代になっても親王への厚遇は続き、承平2年(932年)10月には牧馬を賜り[11]、承平7年(937年)正月には天皇の元服に伴う饗宴に参列した[12]。天慶2年(939年)3月には仁和寺内の八角堂供養に関わったほか[13]、同年11月には、輦車に乗っての宮中出入りや、諸節会の日に行列に加わらず直接昇殿することを許されるという特権的な待遇を受けた[14]。この許可を得た親王は、同月の豊明節会にて初めて輦車に乗り参内している[15]。

その後も、成明親王の元服や白馬節会、賀茂臨時祭などに参列し、天盃を賜るなど宮廷儀礼の中心にあった[16]。天慶8年(945年)正月には右大臣・藤原実頼の饗宴で「帰徳」・「胡徳」の曲を歌うなどしたが[17]、同年12月には上表して職を辞し、その辞表は関白・藤原忠平のもとへ届けられた[18]。

村上天皇の治世となった天慶9年(946年)12月、先帝の時と同様に輦車の使用と直接の昇殿が許された[19]。その後も朱雀院への行幸における管弦の御遊に参加し、琵琶や和琴を弾じた[20]。天暦4年(950年)2月3日、親王は剃髪して出家し、覚真という法名を名乗って仁和寺に住することとなった。

出家後もその音楽的才能は宮中から求められ、天暦9年(955年)の御仏名では召されて参内し、和琴を演奏した。その琴音は「白雪紛々、恰如落花」と絶賛され、御衣や茶具などを賜った[21]。晩年は仁和寺で法会を修するなど仏道に勤しみ[22]、康保4年(967年)3月2日に75歳で薨去した。村上天皇は訃報に接し、喪料として絁や布を贈った[23]。

官歴

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※日付は旧暦

人物

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早世が多かった宇多天皇の皇子では唯一長命を保ち、内外から重んじられた存在であった。坂家宝剣を自ら肌身離さず持っていた。

和歌・管弦・蹴鞠など諸芸に通じた才人であったが、とりわけ音曲に優れ源家音曲の祖とされる[28]。藤原忠房が作曲した舞楽曲の胡蝶や延喜楽に振り付けを加えるなど[29]、日本の音楽史上重要な人物である。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品が1首採録されている[30]。

京極のみやす所[注 1]あまになりて、戒うけんとて仁和寺にわたりて侍けれは

ひとりのみ なかめてとしを ふるさとの
あれたるさまを いかにみるらむ[注 2]

—あつみのみこ 『後撰和歌集』 巻第十五 雑一 1119番

系譜

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その他

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一説に、歌人で琵琶の名手・蝉丸が雑色として仕えたといわれる。

脚注

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注釈

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  1. ↑ 宇多法皇の御息所であった藤原褒子のこと。法皇の崩御後に尼となった。
  2. ↑ 大意:(あなたが去ってしまい)私ひとりだけで、ぼんやりと長雨や月日を眺めて過ごしております。古びて荒れてしまったこの旧居の様子を、寺にいるあなたはどのように想像しておられるのでしょうか。

出典

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  1. ↑ 『尊卑分脈』
  2. ↑ 『大鏡』
  3. ↑ 『本朝皇胤紹運録』
  4. ↑ 『尊卑分脈』・『本朝皇胤紹運録』
  5. ↑ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 41頁。
  6. ↑ 『本朝皇胤紹運録』
  7. ↑ 『亭子院歌合』
  8. ↑ 『日本紀略』延喜16年3月7日条
  9. ↑ 『御遊抄』
  10. ↑ 『御遊抄』
  11. ↑ 『貞信公記』同月7日条
  12. ↑ 『日本紀略』同月5日条
  13. ↑ 『日本紀略』同月27日条
  14. ↑ 『日本紀略』同月7日条
  15. ↑ 『本朝世紀』同月25日条
  16. ↑ 『西宮記』
  17. ↑ 『西宮記』巻1
  18. ↑ 『貞信公記』同月6日条
  19. ↑ 『西宮記』巻13
  20. ↑ 『御遊抄』
  21. ↑ 『北山抄』巻2
  22. ↑ 『日本紀略』応和元年3月6日条
  23. ↑ 『日本紀略』同日条
  24. ↑ 『日本紀略』
  25. ↑ 『西宮記』巻20
  26. ↑ 『尊卑分脈』
  27. ↑ 『日本紀略』
  28. ↑ 『郢曲相承次第』
  29. ↑ 『礼源抄』
  30. ↑ 『勅撰作者部類』