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磐座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

磐座(いわくら)とは、日本列島において、神が宿るとされる岩石のこと[1][2]。一般的に古代日本で神が降臨したとして信仰された磐座祭祀の遺跡は、古墳時代以降のものと考えられており[1]、巨石・磐座への信仰は仏教と融合しながら継承され、中世、特に山岳修験が盛んだった後期の室町時代に磐座祭祀が隆盛した[3][4]。現在では神聖な岩石を全般的に表す言葉としても使われている[1]。

概要

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古代日本の自然信仰である神信仰では山・樹木・石などの自然物に神が宿ると考えており、このうち神が降臨した岩石が神聖視され信仰の対象となったものを指す言葉である[1]。「磐座」という言葉は『古事記』『日本書紀』や『風土記』にみられ、元々は神のいる場所を讃える語であった[5]。磐座の語は『日本書紀』が初出で、『古事記』では石位、『風土記』では石坐と表記されている[2]。磐座はやがて神祭りの際の神の依り代とされた岩石を指す言葉となり、岩そのものを神体として祭祀が行われるようになった[5]。「磐『座』」とあるが、磐座とされる各地の岩石の形状は必ずしも台座状ではなく、また巨石だけではなく小型のものもあり、人工的に加工が施された岩石もある[1]。

考古学的には、磐座の祭祀遺跡は古墳時代以降のものであり、磐座というもが明確にみられるのは古墳時代以降であると考えられている[1][5]。一般紙などでは磐座祭祀が縄文時代に遡るという主張もあるが[6]、学術的には否定されており、考古学者の時枝務はこうした見解に対して、そもそも磐座祭祀が開始されたのは古墳時代に入ってからであると指摘している[7]。なお、一般的に磐座祭祀というと古代のイメージが強いが、全国の山岳信仰遺跡の調査結果によると、山岳修験が隆盛した中世の、特に中世後期の室町時代が主流である[4]。山岳信仰を研究する山本義孝は、「磐座祭祀は古代が主流」というイメージが強い理由として、玄海灘沖の沖ノ島の磐座群の印象の強さや、磐座に遺物が伴う場合に発掘される遺物は古代のものが多いことを挙げている[4]。巨石・磐座祭祀は中世の山岳修験遺跡の基本となる重要な要素であるが、これらの遺跡は共通して遺物が全く伴わないか、皆無に近い[4]。

磐座祭祀の遺跡には、福岡県の沖ノ島の遺跡や、静岡県の天白(てんぱく)遺跡、奈良県の三輪山山麓の三輪山ノ神遺跡などがあり、磐座の周囲から祭祀に用いられた多様な遺物が出土している[5]。天皇家発祥の地とも考えられる三輪山の大神(おおみわ)神社は社殿がなく三輪山を神体山とすることで有名だが、山麓に遍在する斑レイ岩の巨石の多くは磐座とみなされており、禁足地となっている[8][9]。沖ノ島には、ヤマト王権が海外交渉に関する回路の安全を祈ったと考えられる祭祀遺跡があるが、それも磐座を中心に展開している。発掘により4世紀後半から10世紀初頭まで形式を変えながら祭祀が行われ、遣唐使の廃止に伴い終了したと考えられている[10]。奈良時代まで、1つの祭場で行う祭祀は1回のみで終了後の片づけはなく、神を招く儀は丁重に行われたが送り返す儀は簡単なものか、またはなかったことが分かり、原初的な神の不明瞭さを示している[11]。沖ノ島の祭祀の最終段階では、同一の祭場で複数の祭祀が継続的に行われるようになり、岩を拝むように祭場を設定し、鏡や武具、金属製雛形、人形(ひとがた)・馬形・船形の滑石製の形代(かたしろ)等を並べ、酒や食物を捧げて神を祀っていたと思われ、大量に出土した土器は「延喜式」で規定された祭具と重なり、律令祭祀との関係が考えられる[11]。こうした祭場・祭儀の1か所への定着は、神社祭祀への転換の過程と見られている[11]。

かつて祭祀の場であった磐座は、常設の神殿である神社に発展したり、なんらかの伝承と共に現在まで信仰の対象となっているものが多い[12]。霊山の磐座を基に形成された仏教の霊場もみられ、平安貴族はこうした観音霊場に盛んに参詣していた[3]。神体山として崇敬された山と、その中核をなす巨石への信仰は、仏教と融合しながら継承された[3]。

花の窟(高さ45m)。岩上からは「御綱」が渡され、仏教祭祀に用いる幡を象った「三流の幡」が垂らされている[13]。

中世の山岳修験の磐座の行場・祭祀場は、地域の拠点となる山寺と連動する形でその周縁部に設けられたものである[4]。山岳修験では、「石躰(せきたい)」と呼ばれる石製の権現等の神霊の依代があり、福岡県東峰村宝珠山の大行事社(現・高木神社)の三基の石躰など、現代まで残るものもある[14]。中世以降の磐座祭祀としては、世界遺産にも登録されている紀伊山地の霊場と参詣道、三重県熊野市に所在する「花の窟」のように、明治政府による神仏分離、国家神道の創始により、神社祭祀が根底からすり替えられ、明治以前の歴史と信仰が忘却された事例もある[4]。ここは明治以前は一般的に「大般若の鼻(端・華)」と呼ばれる神仏融合の磐座祭祀場であり、傍らの磐座は「王子の岩屋」と呼ばれ、熊野九十九王子の神霊が宿るとみなされていた[15]。玄海灘沖の対馬には、天童信仰と山岳修験が融合した独特の磐座祭祀の霊場が幾つか残されている[4]。山岳霊場として知られる福岡県の英彦山を中心とする中世「彦山」の活動域・文化圏は西日本最大規模であり、その仲間組織で豊前国全域に渡る「彦山六峰」(福智山・普智山・蔵持山・求菩提山・松尾山・檜原山)では、岩屋を廻り参籠する独特の修行形態「彦山四十九窟」が鎌倉初期には成立していた[4]。その圏内には現在、磐座祭祀の遺跡が点在しており、うち中世彦山四至の東方結界の「発心門」にあたる大行事山の中津市山国町中摩には、月輪に収まる阿弥陀如来の種子であるキリクを刻んだ磐座がある[4]。これは室町期のものと考えられている[4]。四国の事例としては、愛媛県北宇和郡鬼北町の山寺、奈良山等妙寺(旧等妙寺)周辺の尾根の稜線上で、山中修行に関わる複数の遺跡が確認されており、内容としては参籠宿・礼拝宿・修法壇・護法があり、磐座が礼拝対象として中心に位置づけられている[4]。等妙寺は、伊予国と土佐国の国境をなす山岳霊場「奈良山」(鬼ヶ城山系)の登拝拠点として14世紀前半に拓かれたもので、調査を進めている山本義孝は、磐座祭祀遺跡は等妙寺の盛衰と連動した14世紀から16世紀のものと想定している[4]。山岳修験や修験道では、戸外に設置した石の護摩炉(サイトウ(柴燈・採灯)炉)・壇で木を燃やし権現や山の神に祈りを捧げるが、英彦山周辺やその影響下にあった奈良山では、岩屋や磐座を背負う形で設置された石の護摩炉が複数確認されている[16][注 1]。

ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ↑ 山岳修験や修験道では、戸外で石造りの炉(サイトウ炉)や壇で木を燃やして煙を立ち昇らせ、その煙に祈りを乗せるという護摩が行われたが、煩悩や罪過を燃やし清める仏教の護摩とは意味合いが異なっている[16]。修験道の護摩壇は、古くは神界に最も近いと考えられた山頂や山中に設けられた[16]。

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 「磐座」『山川 日本史小辞典 改訂新版』山川出版社。コトバンクより2026年9月18日閲覧。
  2. 1 2 吉川宗明「磐座」『山川 最新 地学事典』平凡社。コトバンクより2026年9月18日閲覧。
  3. 1 2 3 三橋 2012, p. 183.
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 山本 2025, pp. 89–90.
  5. 1 2 3 4 辰巳和弘「磐座」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。コトバンクより2026年9月18日閲覧。
  6. ↑ 東京新聞:磐座(イワクラ) 八王子に神宿る巨石:TOKYO発(TOKYO Web) - ウェイバックマシン(2018年12月28日アーカイブ分)『東京新聞』朝刊2018年12月27日(26面)2018年12月28日閲覧。
  7. ↑ 時枝務『山岳霊場の考古学的研究』株式会社雄山閣、2018年。
  8. ↑ 「磐座・磐境」『世界大百科事典(旧版)』株式会社平凡社。コトバンクより2026年9月18日閲覧。
  9. ↑ 三橋 2012, p. 181.
  10. ↑ 三橋 2012, pp. 181–182.
  11. 1 2 3 三橋 2012, p. 182.
  12. ↑ 三橋 2012, pp. 182–183.
  13. ↑ 山本 2025, p. 91.
  14. ↑ 山本 2025, pp. 95–96.
  15. ↑ 山本 2025, pp. 89–91.
  16. 1 2 3 山本 2025, p. 96.

参考文献

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  • 山本義孝、河中丈正「神倉 後ロ山遺跡発掘調査報告書」、鳥取県三朝町教育委員会、2025年3月31日。 
    • 山本義孝「6章 考察」。 
  • 苅部直, 黒住真, 佐藤弘夫, 末木文美士, 田尻祐一郎 編『日本思想史講座』ぺりかん社〈1 古代〉、2012年4月。ISBN 978-4-8315-1320-5。 

関連項目

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外部リンク

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