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紫根染

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムラサキ

紫根染(しこんぞめ)とは、ムラサキの根(紫根)を染料として用いる日本の伝統的な草木染の技法。

概要

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ムラサキの根から取れる染料は紅花とともに日本三大色素の一つであり、飛鳥時代の冠位十二階でも紫根で染めた「濃紫(こむらさき)」や「淡紫(あわむらさき)」が最高位の色に定められるなど、古来から貴重な染料として位置付けられてきた。飛鳥時代から平安時代のころには天皇、公家にしか赦されない禁色として、鎌倉時代には身分の高い武士の身に着ける甲冑紫縅に、江戸時代には本紫、京紫江戸紫などが高価な色として染められてきた[1][注 1]

紫根染は南部藩の重要産物であり、京都朝廷、江戸幕府への献上品や諸国大名家への土産品として重宝されていた。明治時代には、化学染料の浸透によって衰退していたが、その後盛岡では中村治兵衛藤田謙らが、鹿角では栗山文次郎と息子である栗山文一郎らが再興し、今では広く周知されるようになった。現在でも、岩手県盛岡市の南部紫根染や秋田県鹿角市の鹿角紫根染をはじめとした南部地方などの地域で生産されている[2][3][4]

歴史

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宮沢賢治
旧盛岡高等農林学校

南部紫根染

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岩手県南部地方に紫根染の技術が伝わったのは鎌倉時代以前であり、南部地方は良質なムラサキの産地であったため、南部藩の手厚い保護の下で生産されてきた。しかし、良質な南部のムラサキではなく別の染料で染められた「偽紫(にせむらさき)」が登場し、明治時代にはその保護が解かれ、更には海外からの安い化学染料の流入も重なり、高価な南部紫根染の需要は激減し、伝統技能は完全に途絶えた。1916年(大正5年)に、紫根染を復興させるために紫根染の研究が始まり、岩手県工業会の役員や工芸学校の教員が文献を調べ、秋田県花輪地方にわずかに残っていた技術者を招き、さらに研究によって独自の技法が開発され、1918年(大正7年)には中村治兵衛が岩手県染織試験場内に「南部紫根染研究所」を開設し、藤田謙が主任技師となり、紫根染の技能が復活した。1933年(昭和8年)には藤田が独立し、「草紫堂」を創業し、「大枡」「小枡」「立涌」といった伝統柄に加え、新たなデザインを作り出し、品質を保ったまま化学的技法も取り入れるなど技術開発と技術者養成に尽力した[5][6]

南部紫根染研究所によって復興された紫根染は、出展した1922年(大正11年)3月の平和記念東京博覧会にて二等賞を取り、新聞でも取り上げられるなどの評価を得た。平和記念東京博覧会で二等賞を取るまでの話は宮沢賢治の童話『紫紺染について[注 2]』にも記されている。宮沢賢治は、南部紫根染研究所の設立に関わっていた盛岡高等農林学校に19歳で入学し研究生として約5年間在籍しており、復興の様子を間近に見ていた。この小説は、一度は途絶えた紫根染の技法を唯一とどめていた西根村山男を招き、研究所の人々が教えを受けるという旨の内容となっている。作品中には「さて紫紺染が東京大博覧会[注 3]で二等賞をとるまでにはこんな苦心もあったといふだけのおはなしでありました。」との記述があり、宮澤賢治は紫根染が入賞した事を報道で知り、その感動をこの作品の中に込めたのではないかと考えられている[5][7]

鹿角紫根染

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秋田県北部に位置する鹿角地方では、自生のムラサキが豊富であったことから、奈良時代から紫根染の技法が伝承されてきた。江戸時代には、盛岡藩の手厚い保護を受けて産業として発展し、鹿角地方の特産品として全国的にも知られるようになり、朝廷や将軍家への献上品として江戸へも送られるようになった。しかし、明治時代に入り化学染料の技術が発展すると、鹿角の紫根染は衰退し途絶えた。そこで栗山文次郎が大正時代初期に復活させ、それを文次郎の息子である栗山文一郎が伝承した。栗山文次郎は1953年(昭和28年)に文部省指定無形文化財(いわゆる人間国宝)に、栗山文一郎は1978年(昭和53年)に秋田県指定無形文化財、紫根染・茜染技術保持者になった[3]

染色工程

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紫根染は、絞りに適した薄手で丈夫な別注織のと特別織の木綿を原反として使用する。はじめに、使用する生地を精錬し、生地に付着している油分・糊分を完全に取り除き、ニシゴリという植物の灰汁などから作られた媒染液に布を浸した後、脱水乾燥させ、その後、媒染液が生地に固着、安定するまで半年~1年間寝かせ、枯らす。枯らしの後、和紙に柿渋を塗ったものに小刀などを使って図柄を切り抜き、型紙をつくる。その後、青花で文様を摺り込み、絞り上げる。この「縫い絞り」「鹿子絞り」と呼ばれる作業は地元の人によってすべて手作業で数か月から数年かけて行われる。現在、盛岡市を中心に数十人ほどの絞り手がこの仕事に携わっている。絞り上がったものは、紫根をでつき、熱湯で抽出濾過した後、反物を漬け込み、染着吸収させる。この作業を1時間ごとに12回染め重ね、仕上げ後、3年から5年ほど箪笥などに寝かせ、南部紫の色に仕上げる。最後に、染め上がった反物を乾燥させ、一つ一つ丁寧に解き糸抜きをして、水洗、乾燥後、巾出しして仕上げられる[5][8]

媒染による色の違い[注 4]
本紫 (webcolor)
  16進表記 #7D56C4
浅紫 (webcolor)
  16進表記 #A27BAD
濃紫 (webcolor)
  16進表記 #46325C
青紫 (webcolor)
  16進表記 #7C6D91
江戸紫 (webcolor)
  16進表記 #6A5E82
京紫 (webcolor)
  16進表記 #875D91

脚注

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注釈

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  1. 紫#紫の文化も参照。
  2. 宮沢賢治は「紫染」をあえて「紫染め」と書いたと考えられている[7]
  3. ここでの「東京大博覧会」とは「平和記念東京博覧会」のことを指していると思われる[7]
  4. 表示されている色は一例である[1]

出典

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  1. 1 2 紫根染(しこんぞめ)”. Murasaki dye. 株式会社マイトデザインワークス. 2026年3月4日閲覧。
  2. いわての工芸・民芸品 紫根染”. 岩手県産株式会社. 2026年3月5日閲覧。
  3. 1 2 鹿角紫根染・茜染とは”. 鹿角紫根染・茜染研究会. 2026年3月6日閲覧。
  4. 南部紫根染とは”. 草紫堂. 2026年3月4日閲覧。
  5. 1 2 3 南部絞りとは?紫根染・茜染の歴史と染色方法、着物の格やTPOについて解説”. きものおもひ. 2026年3月9日閲覧。
  6. 紫根染の歴史”. 草紫堂. 2026年3月9日閲覧。
  7. 1 2 3 宮澤賢治と紫根染”. 草紫堂. 2026年3月9日閲覧。
  8. 染色工程”. 草紫堂. 2026年3月9日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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