初恋
明治という新しい時代の幕開けに歌われた島崎藤村の『初恋』。
そして、昭和という激動の時代を経て、人々の心の琴線に触れた村下孝蔵の『初恋』。
同じタイトルを持ちながら、異なる時代に生まれた二つの名作を並べ、その情景に浸ってみましょう。
1. 島崎藤村『初恋』
(詩集『若菜集』より)
まだあげ初(そ)めし前髪の
りんごのもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
りんごをわれに呉(く)れしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの
君が髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃(さかづき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな
りんご畠の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそめでたけれ
2. 村下孝蔵『初恋』
(作詞・作曲:村下孝蔵)
五月雨(さみだれ)は緑色
悲しくさせたよ一人の午後は
恋をして淋しくて
届かぬ想いを暖めていた
好きだと言えぬ間に
見つめるだけでもう精一杯
眩しすぎる身体の
5センチの隙間がもどかしくて
放課後の校庭を
走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探していた
浅い夢だから 胸を打つ
夕映えはあんず色
帰り道一人 口笛吹いて
名前さえ呼べなくて
とらわれた心は震えていた
ひとつ残らず君を
覚えているから
幸せになれるように祈っている
(※サビ繰り返し)
放課後の校庭を
走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探していた
浅い夢だから 胸を打つ
二つの「初恋」が描く、色と香りの記憶
「初恋」という言葉を聞いたとき、あなたの脳裏には何色が浮かぶでしょうか。
島崎藤村が描いたのは、「薄紅(うすくれない)」の林檎の色。
村下孝蔵が描いたのは、「五月雨の緑」と「夕映えのあんず色」。
時代も表現方法も異なる二つの作品ですが、そこには共通する「初恋の解剖図」が隠されています。情緒的な視点を探ってみました。
「林檎」と「あんず色」:視覚が捉える恋の芽生え
藤村の詩において、林檎は単なる果物ではなく、「性の目覚め」と「清潔な憧れ」の象徴です。まだ前髪を上げたばかりの少女が差し出す林檎。
その瑞々しさは、言葉を交わす以前の、本能的な「惹かれ合い」を美しく切り取っています。
対して、村下孝蔵の歌詞では、色彩はより「背景」として機能します。
五月雨の緑、夕映えのあんず色。主役である「君」の眩しさを引き立てるための、切ない額縁のような役割です。藤村が「対象物」に恋を投影したのに対し、村下は「世界そのもの」が恋によって色づく様を描きました。
「細道」と「5センチ」:縮まることのない距離
藤村は、林檎の樹の下に自然とできた「細道」を、二人の心の交流の証(かたみ)として描きました。
「誰が踏み始めた道かしら」と問う少女の無邪気さに、成就の予感さえ漂います。
一方で、村下の描く距離はあまりに切実です。「5センチの隙間」。それは、手の届く距離にいながら、決して踏み越えられない心の境界線です。藤村の道が「二人のもの」であったのに対し、村下の道は「一人で口笛を吹いて帰る道」なのです。
「ためいき」と「浅い夢」:消えゆくものの美学
藤村の詩にある「わがこころなきためいき」は、相手の髪を揺らすほど近く、温かいものです。明治のロマンティシズムは、そこに「恋の盃」を酌み交わすような、至福の瞬間を見出しました。
しかし、現代(昭和)の感性を持つ村下は、初恋を「浅い夢」と断じます。深い眠りに落ちて見る夢ではなく、覚めることが前提の、淡く、だからこそ胸を打つ痛み。
結びに代えて
明治の『初恋』が、「恋という未知の感情への驚き」を謳歌したものだとしたら、昭和の『初恋』は、「失われるからこそ輝く、永遠の静止画」のような記憶ですね。
どちらも、私たちが大人になる過程でどこかに置き忘れてきた、けれど名前を呼べばいつでも熱を持って蘇る、大切な心の破片ではないでしょうか。
あなたの心にある「初恋」は、林檎の香りがしますか? それとも、放課後のチャイムの音が聞こえてきますか?
文語体の格調高いリズムと、フォークソングの哀愁を帯びたメロディ。
この二つを交互に味わうと、日本語がいかに「恋の微かな揺れ」を表現するのに適した言語であるかを再確認させられますよね。
詩も音楽も、私の生きてきた道に何時も寄り添うように離れない影のように色褪せずにいてくれます。
そして、人も同じです。何があっても表情一つ変えず、私の人生を彩り続けて頂いております。
あと何度、同じ桜を観れるだろか、
あとどのくらい笑い会えるだろか、
そんな事を時々、思うとき、大事なこれからの時間も丁寧に大切にしたいと思いますね。
氣育て道場
スーリアタッチ
心に良い、身体に良い、未来に良い!!
