※無料記事「ありがとう」「すまなかった」上司が部下に謝る勇気・・・ -ストーリータイトル「「ありがとう」その一言が支店を変えた」-
三浦、38歳。
中古車販売・整備会社の経営企画部でキャリアを積んできた彼は、人事ローテーションの一環として地方営業支店へ赴任した。
数字を見ること、戦略を考えることには慣れていた。
しかし現場は違う。
車を売る営業。 車を直す整備士。 顧客対応を支える事務スタッフ。
それぞれが異なる専門性を持ち、それぞれの誇りを持って働いている。 赴任当初、三浦はこう考えていた。
「まずは信頼されることだ」 だから赴任後は意識していた。
「まずは聞こう」
現場の話を聞いた。
整備工場に足を運んだ。
営業の商談にも同行した。
飲み会にも顔を出した。
一年後。
支店の雰囲気は悪くなかった。
営業と整備が衝突することも減った。
業績も前年を少し上回った。
大成功ではない。
だが確実に前進している。
三浦は少しだけ自信を持ち始めていた。

そんな時だった。
関西の大型拠点から一人の整備士が異動してきた。
近藤。
35歳。
社内でも有名な技術者だった。
難しい故障診断を次々と解決する。
若手育成も上手い。
整備士たちからの信頼も厚い。
異動して一ヶ月も経たないうちに、近藤は支店の人気者になった。
営業は新型車の知識を聞きに来る。
若手整備士は昼休みに質問へ行く。
事務スタッフとも笑いながら話している。
だが——
一人だけ。
近藤が心を開いていない相手がいた。
支店長の三浦だった。
挨拶はする。
業務連絡もする。
だがそれだけだった。
どこか壁がある。
三浦にも分かっていた。
近藤の目には、自分はこう映っているのだろう。
「現場を知らない本社の人間」
正直、否定できなかった。

ある日の午後。
三浦は整備工場を回っていた。
中堅整備士の宮崎が若手へ指導している。
作業は順調そうだった。
その時だった。
三浦は何気なく口を開いた。
「この部品交換って、前は違う手順だったよね?」
悪気はなかった。
ただの確認だった。
しかし空気が止まった。
宮崎の手が止まる。
若手社員も三浦を見る。
宮崎は困った顔になった。
「ええ・・・そういうやり方もありますが・・・」
歯切れが悪い。
三浦は違和感を覚えた。
何かおかしい。
だが何がおかしいのか分からない。
その時だった。
後ろから声が飛んだ。
「三浦さん。それ、今は違うんです。」
近藤だった。
工場の空気が張り詰める。
近藤は続けた。
「以前はその手順でした。」
「でもこの車種からシステムが変わったんです。」
「今そのやり方をすると、別の制御装置に影響が出る可能性があります。」
三浦は黙って聞いた。
近藤はさらに説明した。
専門用語を噛み砕きながら。
若手にも分かるように。
宮崎が答えやすいように。
そして最後に言った。
「宮崎さん、説明しづらかったですよね。」
宮崎は苦笑した。
「正直、ちょっと困りました。」
工場に小さな笑いが起きた。
だが三浦の胸には別の感情が広がっていた。
冷や汗だった。
もし近藤が来なかったら。
もし若手たちの前で古い知識を正しいと思い込んだまま話していたら。
宮崎は否定できなかっただろう。
若手は間違った知識を覚えたかもしれない。
何より——
現場は「上司には本当のことを言えない場所」になってしまう。
その事実に気づいた瞬間。
三浦は背筋が寒くなった。

そして次の瞬間。
三浦は決めた。
逃げない。
ここで向き合う。
今しかない。
そう思った。
三浦は近藤の方を向いた。
「近藤君。」
近藤が振り返る。
三浦は深く頭を下げた。
工場が静まり返る。
「ありがとう。」
近藤は目を見開いた。
三浦は続けた。
「本当に助かった。」
「君が言ってくれなかったら、私は間違ったままだった。」
誰も喋らない。
三浦はさらに言った。
「立場がみんなと離れていくとね。」
「間違いを教えてくれる人が減るんだ。」
「気づかないうちに、自分だけ昔の常識で生きてしまう。」
少し笑いながら言った。
「危うく裸の王様になるところだった。」
工場に笑いが起きた。
だが三浦の声は真剣だった。
「だから本当に感謝してる。」
「言いづらかっただろ?」
近藤は少し照れながら答えた。
「・・・まあ、正直。」
その言葉に工場中が笑った。

三浦は今度は宮崎へ向いた。
「宮崎君。」
「すまなかった。」
宮崎が慌てる。
だが三浦は続けた。
「若手の前で答えにくい質問をした。」
「困らせたよな。」
宮崎は少し沈黙してから言った。
「・・・ちょっとだけ困りました。」
また笑いが起きた。
だがその笑いには安心感があった。
誰も責められていない。
誰も傷ついていない。
ただ事実だけが共有されている。

その日の終礼。
三浦は全員の前に立った。
「今日、私は一つ学びました。」
全員が顔を上げる。
「近藤君が私の間違いを指摘してくれました。」
静かになる。
「そして私は、そのことに心から感謝しています。」
三浦は続けた。
「上司だから正しいわけじゃない。」
「役職が高いから詳しいわけでもない。」
「現場には現場の知識がある。」
「専門にしか判らないこともある。」
「若手には若手の気付きがある。」
「会社にとって大事なのは、誰が言ったかじゃない。」
「何が正しいかだ。」
若手社員たちが真剣な顔で聞いている。
「だから私は約束します。」
「私が間違っていたら教えてください。」
「遠慮はいりません。」
「むしろ言ってほしい。」
「今日の近藤君みたいに。」
その瞬間。
近藤の表情が少し変わった。
初めてだった。
三浦を見る目から警戒心が消えたのは。

翌朝。
朝礼前。
三浦がコーヒーを淹れていると隣に人影が立った。
近藤だった。
自分から話しかけてきた。
「三浦さん。」
「昨日の話なんですけど。」
そこから三十分。
話は止まらなかった。
新型車の技術。
整備士不足。
若手育成。
市場の変化。
近藤は次々と話した。
三浦も真剣に聞いた。
気づけば笑いながら議論していた。
三浦は分かった。
昨日までの壁はもうない。
信頼を得たのではない。
信頼への扉が開いたのだ。
その鍵は、自分の正しさではなかった。
自分の間違いだった。

数ヶ月後。
若手社員が会議で意見を言うようになった。
整備士が営業へ改善提案を出すようになった。
ベテランも新しい技術を学び始めた。
「それ違いますよ。」
その言葉が言える組織になった。
誰も怒らない。
誰も潰されない。
むしろ感謝される。
それが当たり前になった。
業績向上の理由を分析すれば、きっと様々な要因があるだろう。
だが三浦だけは知っていた。
支店が本当に変わり始めた瞬間を。
それは大きな改革の日ではない。
新しい戦略を打ち出した日でもない。
工場の片隅で。
一人の整備士が勇気を出して上司の間違いを指摘し、
一人の上司が意地を捨てて感謝を伝えた。
あの日の、たった一言だった。
「ありがとう。」
「教えてくれて。」

※この記事は、現役時代、管理職時のを元にアレンジして作成しています。
とても印象深い出来事だったため、主要人物の名字は当時の関係者の名字を使用させていただいています。
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