Ai小説:百キ夜行物語~短編集 第25話【岩手~黒塚の母】
※本作は伝承を元に、非常に猟奇的な描写を含みます。ご注意ください。
あらすじ
命を救うため、命を奪った。 償いの果てに残された喪失が辿り着いたのは、黒塚と呼ばれる静かな塚――
母と鬼の境界に揺れる女のものがたり。
一「岩手と姫君の病」
奈良の都、平城京。
朱雀門を吹き抜ける春日野の風は、しだれ柳をそっと揺らしていた。
その奥、香を焚きしめた寝所には、名家の姫君が伏していた。
齢わずか五つ。
生まれながらに肝を患い、この一年は熱にうなされ、
肌は蝋のように白く、声さえ出ぬ。
枕辺に侍すは、乳母・岩手。
陸奥国安達郡(むつのくに あだちごおり)の豪族の娘として
生を受けたが、十五年前、縁ある都の貴族に召し出され、
女房となった女であった。
夫と、生まれたばかりの娘を故郷に残し、
以後、都に骨を埋める覚悟で仕えてきた。
だが、目の前で日ごとに細りゆく姫君の姿に、心は揺れていた。
生まれた時からこの手で抱いてきた、愛おしく、我が子の如く。
祈祷師の印も、陰陽師の符も、病に届かぬと知れたとき、岩手は言った。
「……これは、肝の火。草の湯も、香の煙も……届きませぬ」
思い浮かぶは、故郷の山人が持ち帰った黒き薬――熊胆(い)。
その苦き胆汁は、かつて多くの熱病を鎮めたという。
「この手でお救いせねば……その術(すべ)は、もはや、それしか……」
岩手は主に暇を願い、助からぬかもしれぬと知りつつ、
唯一頼れる地・陸奥への旅支度を整えた。
二「帰らぬ家」
夏。
山を越え、川を渡り、岩手は懐かしき地へ還った。
だが、村の入り口で家の名を告げても、首を横に振る者ばかり。
あったはずの屋敷のあたりは、ただ茅に埋もれ、
風に鳴るばかりの原となっていた。
岩手は、静かに膝をつき、薄紅の土を掬い、掌に載せる。
夫は、娘は――いずこへ……
答える者はなく、ただ空だけが、青く、広がっていた。
三「寒村の灯」
村で熊胆のことを問うと、年老いた男が言った。
「山の端の寒村に、今も熊を追う者がいるやもしれぬ」
岩手は山を越え、霧深き獣道を抜けて、その村を訪ねた。
萱ぶきの小屋々は軋み、炭と獣脂の匂いが重く漂っていた。
訪ねた一軒に住む男は、岩手と同じほどの齢と見えたが、
髪も髭も伸び放題で、顔には山に棲むものの影が宿っていた。
「熊胆が欲しい。金子は、惜しみませぬ」
岩手が頭を下げると、男は囲炉裏の火を見ながら、低く言った。
「この時期の熊は痩せとる。胆も干からびとる。……秋まで、待つこった」
秋を待っては、姫君はもたぬ。
それでも夜は更けていた。男は火箸を弄びながら言う。
「今宵は泊まっていけ。こんな山中、夜に出歩く者は命を落とす」
岩手は囲炉裏の傍に座し、ふと梁を見上げた。
梁に吊された笠が二つ、麻布を巻いたまま埃をかぶっていた。
ひとつは細く、ひとつは大きい
――まるで、主の戻らぬことを知っているかのように。
土間の片隅に置かれた木箱からは、何かが乾いた音を立てて転がる。
岩手の指先が、じっと冷えた。
四「娘」
夜も更け、この家の娘と思しき女性が戸を開けて戻ってきた。
背負い籠をおろし、ほっと息をつくと、火に手をかざして微笑んだ。
腹は丸く張っていたが、どこか健気な気配をまとっていた。
「山の上で薬草を見つけまして……隣の村に売って参りましたの」
「おが(母)は、朝廷のお方にお仕えしておられるとか……乳母さまがよく申しておりました」
「十五年、お会いできていないけれど……今でも、夢に見ることがあるのです」
その声を聞いた岩手は、静かに目を伏せた。
(……我が子が生きていれば、年のころ、ちょうどこれくらいか……)
頬の丸み、指の細さ、目元のくせ。
どこか、遠い記憶と重なって見えた。
母子とは互いに気づかぬまま、
ふたりは囲炉裏をはさみ、ただ黙って座っていた。
五「囁き」
夜更け、囲炉裏の火が静かに赤を残すなか、
岩手は眠れぬ目を天井へ向けていた。
耳に残るのは、娘が籠から取り出した薬草を並べる音。
カワラケツメイ、ウツボグサ、キハダの皮
――どれも、熱に効くものばかり。
(……まるで、病の子に使う薬のよう……)
ふと、ふるき言葉が脳裏をよぎる。
――熊胆より、なお効くものがある。妊婦の生き胆。
それは、胎内に宿る命の熱そのもの。命を蘇らせる、秘薬。
(……まさか、そんな……)
岩手は、そっとかぶりを振り、胸に手を当てた。
姫を救いたい。だが、それは人の道にあらず。
けれど、それでも――
この家には、あまりに多くの不穏が漂っていた。
梁に吊るされた、麻の笠。
旅道具とは思えぬ重さを持つ山刀。
囲炉裏の奥にかけられた、赤く裂けた布。
土間の片隅の木箱が、ときおり、乾いた音を立てて転がる。
静けさのなか、岩手の背に、じっと冷たい気配が忍び寄っていた。
六「夜襲」
――きぃ……きぃ……
刃を研ぐ音が、夜の静けさを裂いた。
岩手は、枕元から守りの小刀を抜き、目を細める。
紙戸がすうっと開き、静かに忍び寄る影。
その手には、光る刃。
刃が振り下ろされる刹那、岩手の小刀が先に走った。
娘は呻き声をあげ、その場に崩れ落ちた。
奥から、慌てて駆け込んできた男が立ち尽くす。
「――おさ……!!」
その名に、岩手は凍りついた。
おさ――十五年前、あの日この手で名をつけた、我が娘の名。
娘の正体は、己が子だった。
男の顔は、かつての夫の面影に、重なって見えた。
岩手は絶叫し、その手に持った小刀で、襲いくる男を刺し伏せた。
七「裂く」
男は呻き、血に沈み、そして娘の腹はまだ温かかった。
そのふくらみの奥に――生きようとする命が、たしかに宿っていた。
「……赦して……赦しておくれ……姫を……救わねばならぬのじゃ……」
岩手は、炭俵の脇にかけられていた葛縄を取り、
娘の亡骸を、庵の横木に縛り上げた。
足元が揺れ、視界が霞む。
だが、手だけは止まらなかった。
震える指で刃を這わせ、
迷いながらも皮を裂き、血に濡れた肉を、押しひらく。
――ずるり。
落ちたのは、まだ小さな赤子。
まなじりは静かで、息はなかった。
だがその顔は――娘に、姫に、己に――あまりに、似ていた。
岩手は叫び、嗚咽し、膝をつき、地に伏して泣き崩れた。
八「黒塚」

その後、岩手がふたたび大和の地を踏むことは、ついになかった。
姫君が救われたのか、否か――
それを問う声も、もはや誰の口からも語られなかった。
やがて、安達郡(あだちごおり)にひとつの噂が流れた。
妊婦の肝を喰らい、道ゆく旅人を喰らう鬼女が、岩窟に棲むという。
国司の命を受け、郡司の役人たちが岩屋へと向かったが、
そこに人の姿はなく、ただ一基、煤けた黒き塚が、
草の庵の傍らに、ひっそりと立っていた。
その傍らに散らばる、荒々しく彫られた木彫りの童。
その後、阿武隈を渡って来たひとりの行脚の僧が、この話を聞いた。
「これは、鬼ではない……ひとりの母の、祈りの果てぞ」
僧は石塚の一部を抱え、川のほとりに移し、静かに手を合わせた。
それは、いまも阿武隈の風にさらされながら、声もなく、佇んでいる。
九「風の祈り」
人は、その塚を「黒塚」と呼んだ。
ある者は、鬼女を恐れて手を合わせ、
ある者は、ひとりの母の業を偲び、袖を濡らした。
それが罪であったか、愛であったか――
いまも、安達ヶ原に吹く風だけが、その答えを知っている。
