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虎猫からの手紙【54】謝罪への道②──謝罪に相応しい自分であるということ

「強姦殺人で娘を亡くした父親の心情」を綴った記事を、虎猫への手紙に添えました。

 そのお父さんの苦悩は、何年経っても消えることがありませんでした。

加害者を殺したいほどの憎悪、怨念……。

しかし、どれほど憎しみ続けても、最愛の娘さんは帰ってこない。
 苦しみを抱え続けるなかで、やがて──
「自分と同じ思いをする遺族をこれ以上増やしたくない」「犯罪のない社会であってほしい」
とお父さんは願うようになったそうです。

 なぜ犯罪が起きるのか。

そのお父さんは、加害者が子ども時代に接した「大人たちの関わり」に注目していました。

幼少期の環境が、人間としての在り方を大きく左右する──その点に、深い問題意識を抱いていたのです。


虎猫の手紙

その父親の心情は計り知れるものではない。
私みたいな加害者が、軽く口にできるものではないです。
記事を見なくても許せない気持ちは感じてくるし、伝わってくる。
自分に置き換えたら、接触する前に法廷で殺すだろうと思います。

私たち加害者は、被害者と遺族の気持ちを知ることは絶対にあり得ないのです。
その大切な、かけがえのない存在を奪われた苦しみと痛み、怒りや悲しみ、恨みや憎しみ……

いくらその立場に置き換えて考えても、感じてくるものに限度がある。
考えれば考えるほど、その深すぎる感情から引き離され、無力感に襲われ、非現実の世界へ落ちてしまうことすらある。

償うといっても、奪った命は返りません。
絶対に償うことなんてできないのに、今の自分の状況を「償っている」と思い込んでいる受刑者がほとんどだと思います。

どんな刑罰を受けようと、失われた命や遺族の苦しみが癒える助けにはならない。

それでも、何かをするべきだと思う。
一つの「ケジメ」として。

これは自分自身を納得させるためのケジメではなく、僕がなした行為によって被害を被った人たちに対するケジメです。
どこまでも、相手側に対してのケジメなのです。

白猫は言ったよね。
「謝罪をすれば、ケジメをつけられるのか?」「虎猫のケジメなんて重要ではない。大切なのは遺族の気持ちだ」と……

まさにその通りです。
私のケジメなんて遺族には関係ないし、ただの自己満足に過ぎない。
私も、自分の心を楽にするためのケジメとして、接触を考えているわけではありません。

自分にとってプラスになるかならないかは関係ない。そんなことは考える必要もない。

そうハッキリと言ってくれて、ありがとう。
白猫のパシッとした率直な意見に、スカッとしました。

「遺族の受けた傷はどうすることもできない。
でも、生きている間に謝罪の言葉を受けることは
プラスにはならないかもしれないけど、マイナスにもならないのではないか?」

この白猫の言葉は、謝罪に対して、また遺族を傷つけてしまうかもしれない…という、心の中のモヤモヤを消してくれました。

いかに自分の非を認め、シンプルにその気持ちを伝えることが大事なのね。

実は、謝罪文についてずっと考えていたけど、どうすれば自分の気持ちを伝えられるのか……
一向にまとまらなかったのです。
私の気持ちは、少なからず償いの意味が含まれているのです。
償えるはずもないのに……

自分の気持ちより、相手の気持ちを思うこと。
それこそが「謝罪」ということではないかと思いました。
重点を置くべきは私ではなく、「遺族にとって」なんだよね。


白猫より

虎猫の謝罪が遺族にどう届くのか、実際には分かりません。
それが本当にプラスになるのかどうかも、誰にも断言はできない。
それでも、誠実に謝罪へ向かおうとする虎猫の歩みを、私は止めたくありませんでした。

 謝罪は、心がこもっていなければ意味をなしません。
そして、その「謝罪に相応しい自分」であることも、同じくらい大切だと感じています。

 心に濁りがあれば、謝罪の言葉にも必ず濁りが出ます。
だからこそ、自分自身との対峙は欠かせません。純粋で真っ直ぐな心で、謝罪に向き合ってほしい。

 謝罪とは、自分を救うためではなく、相手の心へ向ける行為。

 その本質を胸に置きながら、虎猫と共に、そして私自身とも、静かに向き合い続けていきたいと思います。


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