虎猫からの手紙【69】難民という言葉の向こう側で
日本国内では、難民や移民をめぐる議論が、政治の場でも大きく扱われるようになっています。
その一方で虎猫は、難民についてこんな言葉を綴りました。
虎猫より
難民問題は、世界各国が抱える政治課題であると同時に、私は「いまを生きる人々一人ひとりの心」に問いかける問題でもあると思っています。
私たちは、自分たちの豊かな暮らしを最優先に守ろうとするあまり、困っている人々に手を伸ばすどころか、「難民」という存在を、自分たちの快適さを脅かす仮想の敵として作り出し、排除しようとしてはいないだろうか。
世界情勢を見る限り、これからも難民の数は増え続けるだろうと思います。
一方で、受け入れる国は減っていく。
その現実は否定できません。
いまの世界で、難民を心から歓迎する国は、残念ながら一つもないように見えます。
政府が受け入れの姿勢を示せば、すぐに抗議デモが起こり、ときには暴動にまで発展する。
「仕事を奪われる」「生活が脅かされる」まるでそれが、すでに現実になったかのように騒ぎ立てるのです。
これは国家の意思ではなく、そこに暮らす人々の民意が生み出している現実です。
先進国では、難民はすでに「偏見」や「差別」というレベルを超え、「悪者」として認知されているようにすら感じます。
難民や移民に反対すること自体は、自由です。
反対意見がまったく存在しないほうが、むしろ不自然です。
でも、難民を犯罪者のように、あるいは疫病神のように扱い、見下し、排斥し、攻撃したりするのはやめてほしいんです。
私は善人ではありません。
れっきとした犯罪者であり、悪人です。
それでも、その感覚だけは、どうしても理解できないのです。
好んで生まれ育った故郷を捨てる人はいない。
好んで命がけで国を越える人もいない。
好んで難民になり、見下され、排斥され、攻撃され、拘束されたい人など、いるはずがない。
彼ら彼女たちは、家族を守るため、生き延びるため、戦火や迫害をくぐり抜け、命からがら他国へ辿り着いた人たちです。
その勇気や決断、強さは、ぬるま湯の中で暮らす私たちには、決して真似できない。
そして、いまの世界情勢の中で、自分だけが絶対に難民にならないと、誰が言い切れるのか。
一度は、真剣に考えてみるべきだと思います。
たまたま少し豊かな国に生まれただけで、私たちが彼らより優れているわけでも、偉いわけでもない。
困っている人に手を伸ばさず、自分のことだけを考えながら、難民を非難し排斥する資格が、自分たちにあるのか。それを知ってほしいのです。
少し感情的になってしまいました。
利益や自国ファーストの話になると、どうしても抑えきれなくなる部分があります。
どの国も豊かさを目指している。
でも、人道を無視した豊かさは、本当の豊かさではないと、私は思います。
お金がすべての価値ではない。
そのことを、どうか発信してほしい。
私は本当に嫌味ばっかりの極端な奴だと思わない?
自分でも嫌になるくらい分かるのです。
悪事しかやってこなかったくせに、世間の悪や偽善に不平不満をブチまくる……
私こそ本当の偽善者だよね。
現実の話になると暴れたくなる頭オカシイ奴です。
白猫より
虎猫の言葉は、ときに強く、ときに荒い。
けれどその奥には、人を切り捨てるためではなく、人を「人」として見ようとする、祈りに似た視線があります。
彼は自らを「悪事しかしてこなかった偽善者だ」と責め立てます。
しかし、自らを悪と断じ、どん底を見てきた彼だからこそ、理屈や損得でコーティングされた世の中の「偽善」や「無関心」を、これほどまで鋭く剥ぎ取ることができるのではないでしょうか。
日本は、「自国の経済や社会を守るための制度」を現実的に強化してきた一方で、難民条約が本来求めている人道的責任については、正面から語られることが少ないようにも感じます。
命からがら国を逃れる。
その恐怖や覚悟を、島国で平和に暮らす私たちが自分事として想像することは、容易ではありません。
虎猫が指摘する「ぬるま湯」とは、私たちが無意識に浸っている、この「想像力の欠如」そのものを指しているのかもしれません。
虎猫は、日本人には持ち得ない「難民の視点」から世界を見ています。
それは正しさを振りかざすためではなく、理不尽に踏みにじられる痛みを知っているからこそ、絞り出された言葉なのだと感じました。
