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誰のために言葉を紡ぐのか

私はちょっと前まで日々を生きるのに精一杯過ぎて、仕事で自己実現とかいうことを考えたことはなかったのだが、最近人の言葉や本の内容、ちょいと難しい話などもすいすい頭に入るようになってきて、余計なことも考えるようになった。そして自分のことを「客観視」しているような感覚を以前よりもてるようにもなった。

最近は手帳のことをnoteでよく書いているが、noteにしても手帳にしても、どちらも自分のために言葉を書いていると思う。書くことで気づきを得たいという感じ。

結局昔も今も、私は私のために言葉を綴っているだけだと思う。それが自分。これからはもう少し、他者の背負っているものを少し軽くするお手伝いをできる、そういう働き方をできるようになりたい。これが、今自分が望む自己実現のあり方である。

さて、最近読んだ「自己実現」がテーマのひとつとなっている本の中に、辛辣なレビューが寄せられているものがあるのだが、そのレビューにはたとえば「結局は自己顕示で書いたのに過ぎない」といったものが見られる。このレビューこそ自己顕示そのものではないか?と思う一方で、確かに何か引っかかるなと私も思うのだった。筆者の思いが確かに込められている本ではありながら、その背景には何か別の意図のようなもの(告発、のような)があるという指摘も否定できない気がしてきた。そのせいなのか、他の本を読み終えたときに自然と行われる、自分の心の本棚に収めるプロセスにはまだ至らない。

おそらく、私のなかでは その本が「視聴率をとろうとするテレビコンテンツ」と同じ何かをもっていると感じているのだろう。他にもこういう本はたくさんあるのだが。
自分が最近読んだ本は、たとえば「分人主義」を小説で追究する平野啓一郎氏や、「生きるために必要なささやかで平凡な、でも忘れてはならない何か」を思い出させてくれる吉本ばなな氏だとか、、、あるいは柔らかい筆致でありながら現代社会を生きる人たちが抱える切実な状況をふわりと描き出す作家の方たちとか、とにかく物事の核心に迫っていこうとする気迫だけで仕上がっている作品だった。
これらと比べると「売ろう」という意図が強い本は、当然違う雰囲気をもっている。最初に示した本は、筆者本人がもつ思い以外の要素がずいぶん大きいのかもしれない。よって、「この本で筆者が獲得しようとしている本質的な部分とは果たして何なのか」がわからず、私の中で宙ぶらりんなままなのだろう。

個人的な経験として、自分の言葉の使い方を思い返すと、「誰かを見返したい」とか「私の辛さを伝えたい」という思いが強いときに綴るそれらは、相当吟味や整理をしないと発信できない。あるいは、言葉を発する意図を自分自身の内ではっきりさせないと、自分が発した言葉が他人を、そして自分をも傷つける危険もある。「売ろう」「読んでもらおう」という思いが、自分を、あるいは自分の周りの人を巻き込んだ大きな渦になったときに起きる事態への覚悟を伴っているのか、このこともあるいは、最初の本について引っかかっている点かもしれない。

プロの書き手の方たちは、その辺りの覚悟ももって、作品を世に送り出していらっしゃるのだと、本を読ませていただくたびに本当に頭が下がる思いでいっぱいになる。

おそらく「収穫を得るために発信する」とか「報復や復讐として言葉を使う」のは、思っている以上にリスクの高い行いなのだと思う。

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