諸見里
進めたいけど、初動抵抗が大きすぎる書類があるとする。それを取引先に催促されると、今座っている事務椅子に磔(はりつけ)にされたような気持ちになる。取引先に言われているだけなら良いが、そのメールがカーボンコピーになっており、同じ仕事をしている仲間にも催促が知れ渡ってしまっているというのが厄介だ。
「で、これはいつまでにしようか」
同い年、同郷の同僚であるナカジー(中島さん)が芝犬のような笑顔で聞いてくる。せめてこの笑顔をやめてくれないだろうか、仕事を溜め込んでいる自分が全面的に劣った人間になったような気持ちがしてくる。爽やかな笑顔で同僚にも気遣えるナカジーと、仕事を溜め込んでいて気遣われている私、という構造に飲み込まれ、磔(はりつけ)にされた椅子以外に行き場がなくなる。
「じゃあ、十二日で。絶対にやるから」
「よし、了解。ありがとうね」
言ってしまった以上、やるしかない。無性に現場に出て行きたくなったが、もう十九時、外は日が落ちており、職人は全員帰っている。現場を見ていた大城くんも、久手堅くんも、事務所に戻ってきて給湯室のコーヒーマシンを囲んでいる。パソコン上に開いている中途半端な仕事を一旦保存し、全てのウインドウを閉じた。気を取り直して、初動抵抗が大きすぎる書類を開く。取引先に書かれた注意書きが細かすぎて、そんなことも説明しなければいけないのか、こいつら馬鹿なのか、と悪態をつきたくなる。
「あーもう、この」
「なんだよ、荒れてんなお前」
斜向かいの保田さんが、サワークリームオニオンのスナックを食べながらこっちを覗き込んだ。
「クソデカ初動抵抗書類がよお」
「おもろ、今度から俺もそれ使うわ」
保田さんが言い終わるか終わらないかくらいで、事務所の扉が開いて宅急便が届いた。席から立ちたかったが、ナカジーにそのポジションを取られたので、耳をそばだてて様子を伺う。どうやら、宮崎にある吉田くんの実家から我々宛に筍が届いたらしい。一本一本、皮を剥いて塩茹でにされた状態のそれは、事務所の皆で一本ずつ分けてもまだ有り余るくらいの量だった。ナカジーがビニール袋に筍をとりわけ、はいはい持って帰って、と声をかける。食べることが大好きな保田さんが飛びついて、一番大きな筍が入っていそうな袋を選ぶ。こういう保田さんのような人がいると、何をしても喜んでくれそうでありがたいなあ、と喉の辺りが暖かくなった。
「てか、お前の実家は群馬の山奥だって言ってたやん、こういうの採れるんじゃないと」
保田さんは筍の袋を蛍光灯にかざし、覗きながら私に声をかけてきた。つるんと重く、少しだけ根元が緑色の大きな塊、今日の夜はどんなして食べようか。
「そうなんですけど、なんか吉田くんの筍、白くて柔らかくてじょーとげ(品質が良さそう)ですよ。群馬のとは種類が違うっていうか」
吉田くんの実家から届いたそれは、日本で広く流通している孟宗竹でも、延岡の金の筍と言われている特別な栽培をしている種類らしかった。
「ってかナカジーも群馬やん、なんか美味しいものないと」
群馬繋がりで、同郷のナカジーの方にも飛び火する。
「ナカジーの家は、館林って言って割と都会なんですよ。あっても米とか麦とかですかね」
説明しながら、真夏の館林の平地を思い出した。所々に私鉄の線路が通っており、埼玉県とは直接接していないものの、明和町を挟んで川の向こうにある埼玉県に顔が向いてしまう、県庁所在地の前橋より都会な感じがする町。少しだけ羨ましくて、向こうの方がしょぼいんだぞ、と気持ちがこもった説明をしてしまったことに気がつく。
「そういうこと、やっぱ山奥ってすげえな、水がうまそう」
「こいつの家はね、ほぼ新潟みたいなとこ、冬なんかすごいのよ雪が。関越トンネルが長い渋滞になる、あっちでは有名な話だよな」
ナカジーと私が、互いに相手の実家の説明をする。私がした館林の説明より、よほど分かりやすく、面白く説明してくれたな、と悔しくなる。それで言ったらお前の家はほぼ埼玉みたいなもんだろ、と付け加えてやりたかったが、とっくに私の説明ターンは終わっていた。
ナカジーに、はいお前これね、と渡された。左手には、ずっしりと三本の筍を入れた袋。筍ご飯は安直だから、まずは木の芽和えだ、あとは春巻き、もちろん筍ご飯もやるけれど。今日はなんとしてでも、サンエーの閉店時間に間に合わなければならない。
結局その日は、サンエーに二十一時半くらいに滑り込んだ。木の芽和えに入れようと思って手に取ったコウイカは沖縄県産、新潟と誤認されるような山奥からきた私からしたら、本当に素敵な響きだ。しかし、肝心の木の芽が売っていなかった。ハーブを売っている冷蔵の陳列棚の前で、冷えた作業着が肌に当たってグッと寒くなる。少し身をかがめたとき、私の背後をコンテナを押す店員が通り過ぎた。意を決して声をかける。
「すみません、木の芽売ってませんか。もしくは、いつ入荷しますか」
「え、と、木の芽、ぬーやが(なんだろう)」
ワイシャツに紺色のエプロンをかけた、少し白髪混じりの店員は、虚空を見た。木の芽ですよ、ミョウガとか、蓼とかと売ってるような、と言ったら店員はますます私の顔を覗き込んだ。濃い眉が忙しく動く。
「お姉さんさ、ひょっとして、ナイチャー(内地の人)?」
「はい、実は」
沖縄ではひょっとすると木の芽はメジャーではない食べ物なのかもしれない。ちょっとした自己紹介のつもりで、一拍置いて、どこだと思いますか、と続けてみる。
「うーんと、新潟!肌がはっさ(和訳不可)、白いさ」
あまりにピンポイントすぎて絶句してしまい、そうです、ご名答、と答えてしまった。本当は違うけれど、その方がインパクトがあって良いじゃないか。ほんの少しだけ、頬が熱くなる。
木の芽を探して他のスーパーに行っても多分同じだろうから、山椒の粉を買って帰ることにした。
「大丈夫です、山椒の粉買います。探してくれて、ありがとうございます」
彼は目を丸くして、もう一度私を覗き込み、コンテナを押してバックヤードに消えていった。木の芽って山椒なんだ、と初めて知ったかのように。
陳列棚の上の鏡を見ると、私は確かに白い顔をしていた。疲れて血の気が引いているから白いのだ、今日もクマが深かった。
