袋無料のコンビニ
雪が降ったり止んだり、現場が動くの動かないのの話をしている中、團さんは今日も、目尻を笑わせていた。一ヶ月前、私との待ち合わせのコンビニに、頭にわずかに雪を積もらせて入ってきた團さん。イートインコーナーで紅茶を飲みながら声を抑えて状況を説明するとき、表情ジワを覆う薄い瞼はかすかに震えていた。
華があるとか、万人が認める秀麗な顔立ちではないが、表情皺に人柄の良さが滲み出た、優しい顔立ち。根っこの部分は、田舎の質実剛健な人そのもの。それが第一印象、今年の年始に会社の集まりで團さんに会った時のことだ。
このごろの團さんと、團さんの補佐をする篠宮、そして私の疲労の色は深い。團さんの目尻にある笑いジワの隙間から、瞼が震えるたびにその色が溢れた。毎晩二十三時ごろまで晩御飯も食べずに残業している篠宮は、今日は十五時の時点で喋るのをやめて下向きで瞼を閉じている。若いからシワはないものの、背中から気団のように疲労の気配が、わっと吹き出している。居眠りだとわかっていても、起こすのはためらわれた。現場の所長も見てみぬふりだ。
私はというと、くまの面積が日に日に拡大し、ついには顔全体を覆っていた。体の芯から冷え切っているだろうに、頭部だけは不思議と青白くのぼせた。日中の体力仕事でかいた汗を拭ったくらいでは落としきれないほど濃く、疲労の色は皮膚を構成する層となって化粧下地のように薄く染み込んでいる。
團さんの率いる班は、一ヶ月前に、工事現場で大事故を起こしてしまった。この一ヶ月、混乱したいのを抑えて、関係ない話で場を和まそうとする篠宮。おばかな篠宮を目の前に置きながら、團さんの視界にはきっと当時の状況しか写ってないだろうなと思った。ため息も出ない、一ヶ月前から表情はずっと変わらない。
私は、事故が起きた翌日、持ち場だった鹿児島を離れて團さんと篠宮がいる広島の現場に急いだ。この会社に入って初めての、重い命令で、しかも遠い現場。一ヶ月だけだから頼むぞ、と滝浪部長に言われて、想像される惨状とは裏腹に浮き足だった気持ちだった。出発の日は、最強寒波が西日本を襲った日、鹿児島でも早朝の四時くらいからみぞれが降っていた。みぞれの景色を見ながら、国道沿いのすき家で出発に向けて自分と決起会を。国道3号を挟んで向こうの川面に、みぞれが当たっては消え、当たっては消え。すき家の朝ごはんで温まった私の吐息は、川に漂う早朝の移流霧と混ざってモラモラと漂った、ように見えた。
九州道、中国道、夕方になって山陽道を駆け抜けて、フロントガラスに散る雪をかき分けて。佐波川で雪が中心から外に向かって際限無く叩きつけ始めた時は、フロントガラス全体がスクリーンセイバーのように見えた。流石に怖くなり、ちょっと休憩。SAで車を停めると、アクセルを踏み続けていた足も、ハンドルを支えていた手も、暖房を入れていたにもかかわらず冷たくなっていた。初めて買った黒豆茶で自分を温め、早朝の勢いを取り戻す。
一ヶ月だけだから頼むぞ、と言われてあっという間に一ヶ月が過ぎた。滝浪部長とは、あれから一度も話していない。佐波側で買った黒豆茶のペットボトルは、ずっと洗って使い続けている。すき家は、二日に一回、お世話になっている。
團さんはいつも、偉い人の電話を断れない。気づけば今日も窓の外、真っ暗な空の下で、背中を丸めて「そうですね、そうですね」とか「すみません、わかりました」を繰り返していた。電話の相手は滝浪部長か、川本時長か、それとも工事関係者や役所のお偉いさんだろうか。聞いた話によれば、休みの日に、大事故で負傷した下請けが入院している県外の病院にも行っているらしい。團さんも篠宮も、恐怖や悲しみを分け合う時間は、まだ与えられていない。
気づけば一時間も「すみません、わかりました」は続いており、事務所を囲んでいる住宅街の明かりは次第に増えていった。事務所裏の細い道を挟んで向こうの家からは、お風呂の湯気と、シャンプーの温かい香りが漂ってきた。團さんを通して、滝浪部長や川本次長にぶつけられるはずだった怒りは、現場事務所に溜まって、発酵し始めている。我々の班を含め、工事全体を受け持っている会社のメンバーは、その発酵の壺にどんどん送り込む。
「だいたい團の上につく奴があれでは駄目じゃ」
「ぜんぶ團さんに丸投げですよね」
「あれから電話はあったのか」
「それがさっぱり、こっちからの電話はブロックしてるかもしれん、ほんまになめてるな」
どんな顔をして過ごせばいいのかわからない、私も篠宮も。篠宮が隣で電子タバコを吸い、ブルーベリーの湯気を吐き出すと同時に、私は頬に涙の温度を感じていた。はじめ、となりの窓から入ってくる、風呂の湯気が頬にあたったのだと思った。
「姉さん」
篠宮が大きな目をさらに大きく見開いて、メガネの奥からこっちを見た。根本が太く、立ち上がりがちな前髪がさらに立ち上がって見える。篠宮の視線が私の両目を射ったとき、目の奥から小さく揺れるような痛みを感じた。それで初めて、長時間労働で積み重なった眼精疲労を実感した。でも、この涙は眼精疲労だけではない。味のない、不思議な涙だ。先程まで怒りを発酵させていた面々の興味の対象は、私の涙にうつる。
「おい、どうしたん、お前が責任を感じる必要はないじゃろ」
「すみません、そうですね」
「疲れてるんじゃろ、帰らせてやらにゃ」
「すみません、本当に、すみません」
この時ばかりは、私は團さんになって返事をするほかなかった。そうでなければ、きっと明日、何事もなく仕事には来れないだろうから。きっと失言をしてしまうだろうから。今は、團さんの気の毒な優しさを借りるしかない。
時計は午後九時をまわっていた。今から帰っても、宮浜の大浴場を使える時間帯はとっくに過ぎている。早く、アパートを借りて暮らしたい。私はこの一ヶ月、ホテル暮らしを続けている。
「姉さん」
もう一度、篠宮が私を静かに睨んだ。彼としては睨んではいないのかもしれないが、いつも彼の目線は鋭い。篠宮は申し訳なさそうに、飴の袋を一個だけ差し出してくれた。桃が好き、と言う話をしてから何かの一つ覚えみたいに桃の飴ばかりを選んで持ってきてくれる。飴を右ポケットに入れて、現場事務所を出ようとしたところで、長電話を終えて戻ってきた團さんとすれ違った。やわらかくくたびれた團さんの表面は、さらにしわしわになっている。作業着の表面から五センチくらい、よく冷えた空気をまとって、少しだけ土と雪の匂いもした。
團さんと目が合わないようにそっぽを向いて、お疲れ様です、と車の運転席に急いだ。團さんが小さく、あの、と言った声が聞こえたような気がした。
ほこり臭いハイエースに乗り込み、冷えたハンドルを握る。今日は楽して好きなものを食べたい、コンビニに寄って行こう。涙を拭って鼻をかむと、少しだけ豪快な気持ちになった。
最近、電子レンジに入れるだけで本格的な食感を再現できるスパゲッティの存在を知った。そうだ、今日はスパゲッティの冷食で、下品なくらい濃いトマト味のが良い。これとブラックコーヒーを淹れるだけで、もう喫茶店だ。それもとびっきりレトロで、天井にはタバコの雲ができているような、本気を出してさがせば、この広島の田舎町にもありそうな。この現場を受け持っている間に、そんな場所に出会えるだろうか。
横着し、左折で入れるコンビニを探し続けて、店の外にテントなんかを出している店舗を発見した。大手のコンビニではあるが、それこそ、前述の喫茶店があった時代の個人商店のような、独特の創意工夫が凝らされているようだ。ラミネート加工された手書きのポップや、埃をかぶって日焼けをしていそうな(実際は被っていないし、日焼けもしていない)陳列、店内にあるひとつひとつに、“古き良き時代の人情味”が感じられる。よく探せばレモン石鹸やカーマインローションのような、昭和の生活感丸出しグッズが顔を覗かせそうだ。
他のコンビニにはなくても、ここのコンビニだったらきっとある。下品なくらい濃い、トマト味のスパゲッティが。なんなら店の奥に招待されて、底に色が沈着した皿に載せられたそれを振る舞ってくれそうだ。ナポリタンが良い、いや、ボロネーゼでも良い。店の奥に招待されるわけはないので、冷食のコーナーにまっしぐら。それにしても、ここのコンビニは全体的に狭くて少し暗い。段ボールを開けて値札を貼っただけで、棚に陳列していない商品もある。
「袋はいりません」
「いえいえ、ここのコンビニは袋無料なんです、どうぞ」
巷でコンビニやスーパーのビニール袋が有料になって久しいが、レジの男性が自然な動作で、弁当用の平たい袋に冷食のスパゲッティを入れてくれた。ひょっとして店長だろうか、五十歳前後の中高年男性だ。目の下のくたびれた線と、うざそうな前髪はまるで先ほどの團さんーもっとも、團さんはまだ四十歳になるかならないかだがー。しかしながら、白髪染めでミルクティのような色になったカサカサの髪と、どこかの指に光った金ピカの指輪、骨太そうな手元は精神的に幸福な私生活を感じさせた。
それにしてもここのコンビニは、レジまでごちゃごちゃと物が溢れている。三色ボールペンの束、乾電池、トイレットペーパー、新作の栄養ドリンクまで。そんな場所におでんの什器の湯気が重なると、散らかっている所でしか感じられない幸福感に包まれた。一歩間違えれば、だらしない学生の家である。そのような部屋に住んでいる学生は、もちろん物に囲まれて幸せで、本人なりの便利な暮らしをしているから不思議だ。暖かいこたつの周りに、使うものを集めて、友人を呼んではどてら姿で内輪の会話をする。鍋なんかをつつきながら。
このレジの男性は毎日、自分なりに少しだけおしゃれをして、この雑多なレジの中で温かい気持ちで過ごしているのだろう。
コンビニを出て駐車場に戻ると、雪混じりの風に乾かされた涙の跡がかゆくなった。そういえばもう、涙はひいていたし、確かに現場事務所で涙を流したんだった、と思い出した。
宮浜に戻って、一人の部屋で思い切りほっぺたを掻こう。今日は和室に泊まれるから、一人で声をあげて空中にぐちを言って、部屋を散らかしてスパゲッティを食べよう。暖房もつけて、机の周りに読みかけの本を集めて。眠れなくなっても良いから、ブラックコーヒーも淹れて。
和室の扉をあけると、仕事用の携帯がなった。しゃんと伸ばした背筋をほぐし、いかにも体に悪そうな姿勢で携帯を覗き込んだら、くたびれ團さんから、さっきはきついところに巻き込んでごめん、とメールがきている。泣いている私を見たのだろうか、ぎょっとして、うろたえたに違いない。泣いた私よりずっとかわいそうな、くたびれ團さん。
足元にくたくたになった毛布と、潰れかけの敷き布団が広がっていて、さらにぐしゃぐしゃにしてやった。もう疲れた。心がいたくていたくて、優しい人を傷つけたくてたまらない。そして、毛布と布団に謝りながらきれいに敷き直した。
結局私はその日、和室を散らかさずに、つとめて上品にスパゲッティとハーブティーを頂いた。背筋をしゃんと伸ばして、伏目がちに。
スパゲッティーを買った汚いコンビニのことは、その時すでに忘れていた。
