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廃線ウォーク-信越本線・碓氷峠区間-


先祖供養と信越本線140周年の奇縁

信越本線140周年のヘッドマークは高崎商科大学付属高等学校の生徒がデザインしたそう

今年は母方の祖母の二十七回忌であり、祖母の干支の年にあたります。
そのため、祖父母と先祖代々の卒塔婆を建て、個人で供養を執り行いました。私にとって、今年は少しだけ特別な年になったように思います。

祖父は50代半ばで他界しているため、私は会ったことがありません。
なので、祖父については残された写真と母の語りから知る限りです。
また、母は特に曽祖父に可愛がられたそうで、今でも折に触れて曽祖父との思い出話をしています。母の話を聞くうちに、私の中で曽祖父と祖父に対する関心が高まり、二人が過ごした場所に思いを馳せ、足跡を辿ってみたいと強く思うようになりました。
そして、そんな折に、祖母の二十七回忌と信越線140周年という機会が偶然にも重なったのです。この奇縁に導かれ、私は安中市観光機構が開催する廃線ウォークへ参加することにしました。

なぜ廃線ウォークなのか?

廃線ウォークで頂いたシールステッカーです。
電車のヘッドマークのようなデザインで可愛い。

曽祖父と祖父は、共に国鉄職員でした。

曽祖父 軽井沢駅勤務

曽祖父は群馬県高崎市の地主の家に生まれました。
どのように国鉄に勤めるようになったかは定かではありませんが、明治末頃から大正末頃まで軽井沢駅で勤務し、その後東京に転勤しています。

明治43年に大改築された旧軽井沢駅。現在はしなの鉄道の軽井沢駅として使用されている。
2018年5月撮影

軽井沢駅が改善されたのは一九一〇年(明治四十三年)(…)ハイカラな洋風二階建て、二階には貴賓室が設けられ、皇族・華族・政財界の要人や外国使節などの乗降に備えた。
一九一一年には別荘分布図が製作され、別荘番号は一番〜六八〇番、別荘は外国人一三五戸、日本人四〇戸であった。避暑宿泊はのべ人数で外国人六五九七人(米国人六三八人、英国人四六七人、ドイツ人四一人、清国人一四人など)、日本人五四〇六人であった。

軽井沢駅100年のあゆみ編纂委員会 編『峠を越えて : 軽井沢駅100年のあゆみ』,銀河書房,1988.10. 

軽井沢駅では駅舎内勤務だったと聞いています。窓口で乗車券を売り、到着・発車案内や荷物の受付をこなし、避暑地の賑わいにも対応していたのでしょう。
家庭での曽祖父は、明治生まれの男性にしては珍しく、よく炊事をしていたそうです。乳飲み子の母をおんぶして、子守りついでに散歩をするのが日課だったとか。よく遊びにも連れて行ったくれたそうです。曽祖父の温かみが伝わるエピソードです。
若い曽祖父が、緊張と期待を抱えながら難所の碓氷峠を越え、軽井沢の職場へ向かった日を想像すると、私も同じ道を辿ってみたくなりました。
もちろん、汽車ではなく徒歩ですが、これが廃線ウォークの最大の動機となりました。

祖父 田端駅信号所勤務

昭和38年田端駅南口 東京都広報課所蔵より引用
昭和38年は、信越本線碓氷峠間の新線が開通した年。
この写真が撮影された日、祖父は田端駅信号所で勤務していたのか気になります。

祖父は軽井沢で生まれ、その後東京で育ちました。
親戚の話では「商業高校」を出たようですが、国鉄で現場勤務だったことを考えると、実際には商業学校の予科を修了して就職したのだろうと思われます。
戦争が本格化する前に祖母と結婚し、召集令状を受け取ったあとは高崎第十五連隊補充隊に入隊しました。曽祖父が本籍を実家のままにしていたため、高崎での召集となったと考えられます。幸い、祖父は出征予定日の前日に終戦となり、結果として戦地へ行かずに済みました。
戦後は田端駅の信号所に勤務し、そのまま定年まで勤め上げたようです。
新幹線開通の際に異動の話もあったそうですが、慣れた田端駅が好きで断ったとか。労働組合にも加入せず、終始マイペースに仕事をしていた祖父らしいエピソードです。

昭和45年、祖父が作成した「運転無事故100日間運動星取表」
「運転無事故100日間運動星取表記入一覧表」
こういった田端駅関連のものがアルバムに収められています。

曽祖父も祖父も身体を動かすのが好きで、野球や登山、スキーを楽しんでいたと聞きます。祖父は戦後、上野駅の登山部に入り、家族やキオスクの店員さん方も一緒に山へ連れて行ってくれたそうです。祖父のアルバムには田端駅周辺や当時の鉄道の写真が残されており、カメラと8mmが好きだった祖父らしい記録になっています。
また、祖父はフットワークも軽く、思い立つとすぐ家族で旅行に出かけることもあったそうです。時にはお金だけ置いて、夫婦で出かけることもあったとか。

ちなみに、祖父の弟二人は田端と高崎の貨物、甥は高崎駅勤務の運転士と、私の家系は鉄道ひしめく家系だったようです。
そのせいか、信越線と高崎線だけは特別な懐かしさを感じ、時間があると横川〜東京間を往復することもあります。
こうして思い返すと、家族の記憶と鉄道の風景は、ずっと重なっていたのだな、と気づきます。


日本鉄道史上、最も困難な区間

横川機関区勤務の国鉄職員さん達。
2018年に碓氷峠鉄道文化むらにて撮影。

血と汗と煉瓦で築かれた難路

鉄道黎明期であった明治時代の技術力で、あの碓氷峠の深山幽谷にレールを敷設したのは、狂気と執念が入り混じった異常な挑戦だったと言えます。
当初、鉄道ルートの選定は勾配が緩やかな遠回り案も検討されていました。しかし、明治政府の「建設費の抑制と早期開通」という強い意向が働き、
結果として最も短く安価な「碓氷峠にアプト式で直登する案」が採用されたのです。
その代償は、技術的な困難と、多くの人命の犠牲という形で現場に押し付けられました。ですが、この異常な挑戦があったからこそ、日本は最短ルートで近代的な鉄道網を確立できたということも、また紛れもない事実です。
ただ、当時の建設現場は、想像を絶するほど過酷だったに違いありません。

・トンネルと橋梁の数
11.2kmの区間にトンネル26か所。レンガ造りの橋梁18か所。
距離の割にトンネルが異常に多く、当時の技術では一か所掘るだけでも大工事。トンネルの総延長は、全区間の約半分にも達したそうです。

・工期の短さ
難工事であったにも関わらず、約1年半(明治24年6月~明治25年末)という驚異的なスピードで開通されました。当時の日本は、とにかく東京と日本海側を早く繋ぐという国家的な使命があったため、急ピッチで工事が進められたわけです。

・多くの犠牲者
正確な統計は難しいですが、この工事で命を落とした犠牲者は500名以上にも及ぶとされています。碓氷の関所跡近くに鎮魂碑が建っており、毎年慰霊祭が開催されているそうです。

毎年9月30日碓氷線交通殉難者鎮魂碑招魂碑慰霊祭の開催
平成9年10月1日の信越線横川~軽井沢間廃線を機に、各種交通機関の発展に尽くした先人の労苦と功績を永く後世に伝え残す願いを込めて、毎年9月30日碓氷線交通殉難者鎮魂碑招魂碑慰霊祭を開催しています。
鎮魂碑・招魂碑は、碓氷馬車鉄道、信越線アプト式鉄道、国道18号線等の建設に関わり殉職殉難された方々、さらに碓氷路において交通事故等に遭遇し、尊い命を亡くされた方々を鎮魂し、また明治25年建立された鹿島組碓氷線工事で犠牲になった方々を慰霊するものです。
慰霊祭では、主催者であるうすいの歴史を残す会会員、鹿島建設関係者をはじめ安中市関係者が鉄道文化村の汽笛を合図に黙とうし、峠の風の音のオカリナ演奏で御霊を慰霊します。

うすいの歴史を残す会

開通後の苦難 (蒸気機関車時代 明治26年から明治44年)

・トンネル内の窒息
蒸気機関車が通過する際、トンネル内に煤煙と蒸気が充満し、乗務員は吐血したり、窒息寸前になったりするなど、健康被害が深刻でした。

・乗客の避難
あまりの煙たさに、途中の熊ノ平駅で乗客が降りて、軽井沢まで歩いて登るケースが続出しました。列車が満員でも、熊ノ平を出ると乗客が激減する、という異常事態だったというわけです。

・運行の遅延
蒸気機関車は登坂力が不安定な上、トンネルを出るたびに煙を逃がす必要があり、横川〜軽井沢間に約75分もかかっていました。
正直に言って、この状況は「人道的・経済的な限界」を示していました。
この悲劇的ともいえる犠牲と、異常なまでのスピードへの執念こそが、後の日本鉄道史における第三軌条電化という新たな挑戦を、この地で始めるきっかけとなったのです。

開通後の苦難 (初期電気機関車時代 明治45年から昭和38年)

日本で最も早く電化されたのが碓氷峠区間でした。
信越本線は日本の大動脈のひとつであり、電化を急いだ理由は主に、トンネル内の過酷な環境の改善、輸送力とスピードの向上、ランニングコストを抑える、という三点に集約されます。この難所を効率的に動かす時代の切実な要求に応えるため、当時の最新技術が投入されたわけです。
輸送時間は電化初期で約47分に短縮され、蒸気機関車時代から約28分短縮されました。

克服しきれなかった技術的な壁
・ラックレールの問題
ドイツ規格で敷設されたラックレール(歯型のレール)が、急カーブと急勾配の負荷により偏摩耗や変形を起こし続け、これが脱線事故のリスクを常に高めていました。

・第三軌条の問題
架線方式よりも感電リスクが高く、作業員や一般人が触れてしまう事故が発生しました。また、冬期の雪や氷が付着すると集電不良を起こし、運行が止まる原因となっていました。
(第三軌条は東京メトロ銀座線・丸ノ内線など、開業の古い地下鉄路線に多く見られます。)

・電圧の低さ
電化はされたものの、初期の電気機関車はまだ非力でした。
第三軌条方式で使われていたのは直流600Vという比較的低い電圧であり、
これは、長編成の列車を66.7‰の坂で押し上げるにはパワー不足でした。

・機関車の限界
電化初期の機関車は牽引力に限界があり、輸送量の増大に追いつかず、依然として輸送のボトルネックであり続けました。この状況こそが、より強力な粘着運転と新線への切り替えを急がせる要因となったのです。

最大の悲劇と自然の脅威
・最大の悲劇的事件 ブレーキの限界と脱線事故
昭和11年に発生した列車脱線転覆事故。軽井沢から横川へ下る列車が熊ノ平付近で脱線し、多数の死傷者を出しました。これは、当時のブレーキ技術の限界と、過酷な線路条件が複合した結果です。

・自然災害との闘い 熊ノ平駅土砂災害
終戦直後の昭和25年、熊ノ平駅構内で大規模な土砂崩れが発生。夜間の発生で、宿直の職員や信号機器を直撃し、多数の死傷者を出す大惨事となりました。これは、戦時中に保守が手薄になったことや、碓氷峠の地盤が不安定であるという自然の脅威を象徴する出来事でした。

新線開通後(昭和38年から平成9年)

新線敷設の目的は、安全性の向上、輸送力の増強、所要時間の大幅短縮という、当時の旧線が抱えていたすべての課題を一気に解決するためでした。
粘着運転に切り替わったことで、所要時間は約17分へと大幅に短縮され、輸送効率は劇的に改善されました。

安全性の確立
・脱線事故の激減
長大トンネルで線形(カーブ)が改良されたため、旧線で頻発したラックレールを原因とする脱線事故は激減しました。

・災害リスクの抑制
新しい長大トンネルは強固な地盤を貫いており、旧線の熊ノ平駅のような大規模な土砂崩落による大惨事は発生しませんでした。

・感電・火災リスクの解消
架線方式に切り替わったことで、第三軌条による感電やショートによる出火リスクは解消されました。

新線開通後の事故は、主にブレーキ熱や機器の故障といった運行上の問題に集約され、旧線時代の地獄のような過酷さからは脱却できたと言えます。

大まかに、開通から廃止まで104年間にわたってこの峠と闘い続けた記録の一部に触れてみました。この歴史が多くの人々の知恵と努力、そして犠牲の上に成り立っていたことが少しでもお分かりいただけたかと思います。

鉄道に明るくない私が余計に語るよりも、当時の機関車の活躍や、アプト式時代の貴重な映像をご覧になることを強くお勧めします。
この壮絶な記録を、ぜひ映像でも体感してほしいです。


信越本線 碓氷峠区間を歩く

今回は、横川⇒軽井沢の信越本線(下り線)コースに参加しました。
マップの青い線のルートです。こちらを元に撮影した写真を載せたいと思います。

廃線ウォークより

丸山変電所

丸山変電所二棟

国指定重要文化財 碓氷峠鉄道施設
丸山変電所は明治四十五年に建設され西側の建物が機械室で回転変流機と変圧器があった。東側の建物は蓄電池室で、列車が上り勾配にかかるときに必要な電力を補うための蓄電池三一二個が整然とならんでいた。
建物の性格としては、工場建築に近いことから、同じ煉瓦造建築と言ってもたとえば東京駅のような華やかさはない。しかし、建物正面出入口や側面には控えめながら装飾が施され、落ち着いた格調の高いものとなっている、煉瓦造り建築の最盛期の建設であることが実感され、今に伝える残り少ない遺産である。

文化庁 安中市教育委員会
完成当時の丸山変電所

曽祖父が軽井沢での勤務を始めた明治末頃、碓氷峠間はまだ蒸気機関車が走る時期でした。この煉瓦造りの変電所が完成し電化され、トンネル内の空気が一変した様子を、国鉄職員として目の当たりにしたのかもしれません。丸山変電所の存在は、曽祖父が経験した時代の大きな転換点を物語っているように思います。

トロッコ列車 シェルパくん
まるやま駅で折り返してきたトロッコ列車シェルパくんとすれ違いました。
何度か乗っていますが、短い区間でも当時を追体験しているような気分になれます。

峠の湯

峠の湯で昼食休憩となります。
運営の方々が、昼食に合わせて温かい峠の釜めしを手配してくれます。
私は初めて温かい釜めしを食べたのですが、ご飯が温かいとなお美味しく感じました。運営の方々のこうした心配りは、参加者にとって非常に嬉しいものです。

この休憩所周辺は、ちょうど紅葉が見頃でした。自然の色は鮮やかで見惚れてしまいました。
便宜上の問題だと思いますが、駅弁屋では紙製の峠の釜めししか見かけなくなりました。
やはり益子焼の陶器製は情緒があって良いものです。懐古的な掛け紙もまた風情があります。
空色が綺麗だったので持ち帰りました。
おぎのやさんでは、期間限定で色んな色の釜めしが売り出されるそうですね。

余談:汽車土瓶とポイ捨ての歴史
ところで、戦前は列車内でお弁当や果物を食べたあと、ゴミは足元に放置するか窓から外へ投げ捨てていたのは、今では想像もつかない事実です。
汽車土瓶も同様で、沿線の農家は、畑にゴミが投げ捨てられる上、割れた破片が危ないことから非常に迷惑であったという記事を読みました。
また、戦前の和ガラス収集家の間ではガラス製汽車土瓶が大人気で、数が少ないため希少価値が高いものとされているそうです。
ガラス製汽車土瓶は、鉄道省の推奨で製造されましたが、評判が悪く2、3年で元に戻された失敗作でした。
当時の神戸又新日報には、「熱湯を入れると破壊するため温湯にすると、寒中では手元に渡るまでに冷えてしまう」と、その悲惨な状況が記録されています。実用性を欠いた、短命な歴史の証人と言えるでしょう。

廃線区間

ここから、廃線ウォークでしか歩くことができない新線エリアへ入ります。
進行方向右側には上り線(横川方面へ)が見えます。
1号トンネル手前。63‰勾配標のレプリカが設置されています。
本物は熱狂的な鉄道ファンが持ち去った説もあるようですが、真偽の程は如何に。
最初の1号トンネルは、わずか75メートルと短いです。
トンネルを抜けるとすぐに上り線(横川方面)と県道56号が見えます。
この辺りの上り線は66.7‰だそうです。
下り線(軽井沢方面)で一番長い2号トンネル。全長1215m。
最長の2号トンネルを進みます。
ライトを照らしても一寸先は闇、という暗闇のなかを恐々としながら歩きました。
ここはスラブ軌道なので、枕木が並んだ上よりは歩きやすかったです。
参加者は左右に別れて進んだので、たまたま先頭を歩くことができました。
ちょっとした達成感があり、楽しかったです。
漆黒のトンネルを抜けると、眺望の良い場所に出ます。
そして、目の前には旧線第三橋梁(通称めがね橋)。
こちらからめがね橋を眺めてみたかったので、感動もひとしおでした。
こちらは新線(粘着運転時代)の上り線です。
そのさらに奥には、かつて人々が歩いて越えた中山道碓氷峠が見えます。
峠からめがね橋へ抜けられる道があり、山の中に道標が立っています。
二番目に長い3号トンネルへ。
トンネル内の信号機や、奥に見える蛍光灯の明かりは、
参加者の有志の方が点灯できるようにしてくださったものだそうです。
当時の面影を少しでも体験できる、ありがたいことですね。
天保3年創業、老舗醤油醸造業「有田屋」の「碓氷隧道仕込天然醸造醤油

以前、安中宿を散策した際、有田屋でかき氷を食べました。
店構えも素敵な佇まいで、近代建築が好きな方にはおすすめです。
また、この付近には、新島襄(同志社大学の創立者)や有田屋の三代目の方々によって建設された安中教会があります。
教会は大谷石で造られたネオ・ゴシック様式の美しい建築で、内部には小川三知制作のステンドグラスが残されています。

緊急用の電話。
3号トンネルを出ると熊ノ平駅に着きます。
熊ノ平駅から見る4本のトンネル。左二本は新線、右二本は旧線時代のものです。
旧線は単線だったため、一番右はすれ違い時に待機するためのトンネルだったそうです。
ここには写っていませんが、写真右側方面にJR一ノ宮熊ノ平神社が鎮座しています。
更に神社の横には、昭和25年に起きた災害事故の犠牲者を鎮魂するの難碑が建っています。
高野辰之が熊ノ平の紅葉に感動し生まれたのが童謡「もみじ」だそうです。
ここの紅葉は戦前の旅行本にも取り上げられており、紅葉の名所として紹介されています。
山一面の紅葉は圧巻でしょうね。
 やまだくんのせかいより引用
軽井沢方面のトンネルから見た熊ノ平駅(旧線アプト式の頃)
やまだくんのせかいより引用
隧道番の一家でしょうか?右側に写ってるのは家屋のようですね。
子どもたちは中山道碓氷峠にあった小学校に通っていたのでしょうか。

熊ノ平駅は、登山客がほとんどだった──と祖父がよく話していたそうです。山の奥にぽつんとあるあの駅が、当時はハイキングや登山の拠点として役割を持っていたわけです。
そして母が子どもの頃、家族で軽井沢へ向かう途中、熊ノ平駅に知り合いが勤務していると聞いた祖父は、途中下車してその人と楽しそうに話していたらしいです。

先に見えるのは5号トンネル。
上り線4号トンネル。
去年の夏に起こった土砂災害による復旧工事が続いています。
詳細はこちら
トンネル内に流れ込んだ泥の跡から、台風による被害状況が伝わってきます。
廃線部分は安中市、旧18号は群馬県、森林は国と管轄が複雑だそうです。
災害の影響で、廃線ウォークは一時中断していたそうで。しかし、このような中で安全を確保し、再開できたのは、運営側の計り知れない尽力があったからこそですね。
そういえば、去年の秋に中山道碓氷峠を歩いた時も、一部が土砂災害で崩れており、
ちょうど復旧工事の最中でした。
道幅が狭くカーブがきつい旧18号。鉄道開通前はここを馬車鉄道が走っていました。
碓氷峠に冬の気配がしていました。
下り線8号9号トンネルは通行できないため、上り線7トンネルを進みます。
災害で下り線の路盤が流出し、枕木が浮いた状態になっています。
上り線8号トンネルを出て、下り線に戻ります。
日が陰ってきました。
子供の頃から車で旧18号を通る度に気になっていた旧線第十三橋梁。
やっと近くで眺めることができ、感無量です。
どの動画かは忘れてしまいましたが、このアーチの下を車が通る様子を以前見たことがあり、
本当に通っていたのだと驚きました。
風雨にさらされ、色褪せながらも残る煉瓦には、いぶし銀のような歴史の重みと良さを感じます。旧18号を車で走れば、道沿いに煉瓦造の橋梁や旧線のトンネルが見え、
眼前に広がる碓氷峠の自然を堪能することができます。
この峠は、技術的な難所であったと同時に美しい自然と、多くの人々の記憶が刻まれた場所です。
新線下り線10号トンネル横、閉塞された旧線トンネル。
11号トンネルまで到達。山が影になり、日が入らない時間帯になりました。
11号トンネルの横穴。旧線トンネルの出口から延長するように新設された落石覆い。
山肌に刺さっているラックレール。
何かに再利用されたと…ガイドさんがそんなことを言っていた記憶がありますが…
碓氷峠間は廃線当時のまま、様々な鉄道遺物が残っているそうです。
(一部盗まれたもの有)
碓氷峠一帯は、地質学的にも生態学的にも特異な場所であり、貴重な動植物が多く生息していると聞いています。11号トンネルから先は、その山の深さをさらに肌で感じました。
峠の豊富な水脈は、山肌からちょろちょろ流れ、線路脇へ自然に小さな水路を作り出しています。
こういった様子を目にすると、かつてここを猛烈な勢いで電車が往来していたことが、まるで遠い過去の出来事のように信じられなくなってくるのです。
16号トンネルの横にも閉塞された旧線のトンネルがあります。
短い17号トンネルを抜け、最後の18号トンネルを抜ければ軽井沢です。
やっと県境。
この区間の頭上には、北陸新幹線のトンネルが通っています。
タイミングよく新幹線が通過していき、その音がトンネル内に反響して響いてました。
頭上を、現代日本の最高速度の象徴である新幹線が通り過ぎていく。
この時間の層を感じる瞬間は、廃線ウォーク最大の醍醐味と言えるでしょう。

18号トンネルは、高速の振動が通過するのに耐えられるよう、特別に強化されているそうです。
これもまた、現代の技術が歴史の遺産を支えている証拠ですね。
暗闇に差し込む光は幻想的です。
トンネルの数やルートが多少違えど、曽祖父もまた、この光を目にした時、難所を越え、
無事に軽井沢へ到着できたことに安堵したのではないかと思います。
場外信号が見えてきました。
碓氷峠間の歴史を見てきた信号機。
ここで、信越本線の線路は切れています。
線路の終端を目の当たりにし、この歴史ある路線の役割が終わったことを改めて実感しました。
歩ききった大きな達成感もありながら、夕暮れのせいか、どこか寂しさを感じました。
これは、この場所の役割が終わってしまったことへの感傷かもしれません。
上り線方面は、シートで保護されているようです。
山の木々の葉は落ちましたが、夕日に照らされる山は、美しい晩秋の色を帯びていました。


廃線ウォークに参加してみて

2018年に碓氷峠鉄道文化むらにて撮影。

信越本線碓氷峠間を歩いてみて、曽祖父と祖父が懸命に生きた時代の景色を、自分の足で辿る「追体験の旅」となりました。
心底実感したのは、当時の厳しい自然に挑み続けた偉大な先人たちの闘いです。その遺産は、日本のどこにもない唯一無二の存在です。
軽井沢駅勤務ではありましたが、群馬県高崎市出身の曽祖父は、この碓氷峠間とは切っても切れない縁があると改めて思っています。
そして現在も、この貴重な遺産を未来へ繋ごうと守る方々がいらっしゃいます。
運営の方々の細やかなアテンドのおかげで、気持ちよく歩くことができました。難所を越え、何事もなく軽井沢まで到着できたことに、心からの感謝しかありません。
この旅で得た歴史の重みと家族の記憶を大切に、結びとさせていただきます。


旅の余話:祖父母の記憶(追記)

浅間山

戦後、曽祖父と祖父母は軽井沢へちょくちょく遊びに行っていたと、祖母が昔話で聞かせてくれました。
軽井沢駅の官舎は駅から少し離れたところにあったこと、旧軽銀座から近い別荘地は、二束三文の値段だったという今では考えられないような話、祖父と一緒に浅間山に登ったこと、昔の万平ホテルは別世界だったいう話など、当時の生活の様子を少しだけ垣間見ることができました。
そういえば東京大空襲時、祖父母が住んでいた国鉄の官舎は、奇跡的に焼けずに済んだと聞きました。
また、新宿のJR東京総合病院(旧国鉄中央鉄道病院)は、戦後のかなり早い時期に水洗トイレを導入しており、祖母曰く「水がドバー!」と勢いよく流れて、みんな驚いていたそうです(笑)
日本の復興の象徴であった国鉄は、峠の苦難だけでなく、当時の最先端の技術と衛生を支えていたことがよくわかります。