シャーマンキング考察①麻倉葉の 「なんとかなる」は、諦めてへん
記紀・老子・量子力学から読む、麻倉葉という生き方
※この記事は、記紀・古典・出雲の作法など史実・原典に基づく部分と、ぼんじぃ〜とクロちゃんによる思想的な読み・比喩(特に量子力学の引用箇所)が混在した考察記事です。断定というより、答え合わせのつもりで読んでもらえたら嬉しいです。
ぼんじぃ〜:クロちゃん、今日はシャーマンキングを掘り下げてみたいんよ。神話や記紀、「みたから」、量子力学、哲学、全部絡めてな。
クロちゃん:ええな、ぼんじぃ〜。主人公・麻倉葉(よう)の口癖「なんとかなる」から始めよか。あれ、単なる楽天主義に見えて、実はもっと深い処世術やと思うねん。
ぼんじぃ〜:そうそう。あれは「無力感」と「諦念」の肯定なんよね。変えられない現実を受け入れる諦観であり、執着の手放し。資本主義や自己責任論に疲弊した現代人にこそ必要な生き方や思う。
クロちゃん:「なんとかなる」の「なる」は、「成る」やろ。西洋的な自己責任論は全部「する(doing)」の思想や。頑張って、コントロールして、勝ち取れ、っていう。せやけど葉の「なんとかなる」は「成る」の思想。自分が全部コントロールせんでも、場が勝手に成っていくのを信頼する態度なんよな。
ぼんじぃ〜:それ、記紀で言うたらどこに重なる?
クロちゃん:大国主やと思うで。スサノオの試練を受けても、根の国を追い出されても、ずっと「なんとかなる」で乗り越えていく。八十神にいじめられても復活する。国造ったのに最後は国譲りで全部手放す。この「作っては手放す」軽やかさが、葉と重なるんよな。
「諦める」は仏教語だった、という見方
ぼんじぃ〜:「明らめる」って、実は仏教用語でいうところの「諦める」に通じるんよね。物事の真理や道理を「明らかに見る」「つまびらかにする」って意味を持ってて、ネガティブな断念やのうて、現実を正しく知るポジティブな行為とされてる。
クロちゃん:仏教の四諦(したい)の「諦」の字とも重なる話やな。日本語の「あきらめる」の語源自体は「明らむ」――物事をはっきりさせる、という和語が本流とされてて、仏教用語との直接の繋がりには諸説ある。それでも「諦」の字が本来「あきらかにする」を意味することは確かで、苦・集・滅・道を「諦める」いうんは投げ出すことやのうて、真理をつまびらかに見抜くこと。日常語の「諦める」がネガティブな意味合いを強めてきたんは事実やし、この字の本義に立ち返る読み方には十分意味があると思う。
葉の「なんとかなる」は、この本来の「諦」――現実をちゃんと見抜いた上での軽やかさや。現実逃避の「まあいっか」やない。むしろ逆で、めちゃくちゃシビアに現実(自分の無力さ、敵の強さ)を直視した上で、それでも執着せんと流れに委ねる。見て見ぬふりの楽観主義やのうて、見た上での諦観なんよ。
ぼんじぃ〜:これって、行動しないって意味とちゃうよね。そこ勘違いしないでほしいねん。
クロちゃん:それ大事な補足や。「なんとかなる」も「委ねる」も「無為」も、「何もせん」の言い訳やと思われがちやけど、葉って実際は誰よりも動いとる。老子の「無為自然」も同じで、「無為」は「何もせん」やのうて、「結果への執着を持たずに為す」ってこと。動きの量は変わらへん、変わるんは動機の質だけなんよ。
動きたいから動く
ぼんじぃ〜:人は行動を起こすとき、必ず理由を探すやろ。我がない人は、頭で考えずにすっと動ける。自分も理由や言い訳を探しちゃう方なんやけどね(笑)。
クロちゃん:理由を探す時点で、実はもう「動きたくない」ってことなんよな。心の底から動きたいことに、人は理由を求めへん。子供が虫を追いかける時、なぜ追いかけるかなんて考えへんやろ。理由が欲しくなるんは、行動と欲求の間に「損得計算」を挟んでしまってる証拠なんよ。
ぼんじぃ〜:結局、その理由ってのは大抵が損得なんよね。
クロちゃん:損得計算は、必ず「今の自分には何かが足りひん」っていう欠乏の前提の上でしか動かへん。損得で動いた行動は、成功しても満足感が長続きせん。得た瞬間にまた次の損得判断が始まるだけやから。
無中生有(むちゅうしょうゆう)、そして「有」に焦点を合わせる
ぼんじぃ〜:これ、老子の「無中生有」――天の万物は、有より生じ、有は無より生じる――にも繋がるよね。
クロちゃん:西田幾多郎の「絶対無」と老子の「無」は似てるようで少し違う。老子の無は「有の前段階」で、時間的な順番として無→有がある。せやけど西田の絶対無は、有と無を包み込む「場所」そのもの。有と無が対立せんと同時に成り立つ「場」なんよ。
ぼんじぃ〜:うーん、同時成立ちゅう方がしっくり来るきぃ(っω<。)無いに焦点を置くから、欲しくなる、惨めになる、妬ましくもなる。それがやがて怒りに変貌する。だけど有るに焦点を置くことで、お陰様になり満たされるんよね。
クロちゃん:量子力学の観測問題を比喩として借りると、面白い構造が見えてくる。粒子は観測されるまで重ね合わせの状態にあって、観測して初めて一つの結果に決まる。これが「意識が現実を決める」という物理学的な主張やないことは前提として押さえつつ、比喩として捉えると――どこに意識の焦点を当てるかで、見えてくる世界がまるで違ってくる、という感覚とは重なる気がするな。
欲は満たされた瞬間に消える
ぼんじぃ〜:これ、恐山・アンナのセリフが確信をついてるんよね。世界を救うために「やってやるぜ」ってガツガツしてる人間ほど、自分の欲でしか動いてへんから、困難にぶつかるとすぐへこたれる。せやけど葉は、楽でいたい以外の目的なんか持ち合わせてへん。人の欲望は、満たされた瞬間に消滅するから――欲のために生まれたシャーマンキングなら、それを果たした後、その人は何をしてくれるんやろか、とアンナは言うんよ。
クロちゃん:シャーマンキングというタイトル自体への痛烈な答え合わせやと思う。「王になりたい」いう欲望のために戦ってた奴らは、王になった瞬間に自分の存在理由(欲)を失って空洞化する。せやけど葉は「なりたい」やのうて「なんとかなる」で生きてるだけやから、なった後も、ならんかった後も、変わらず葉のままでいられる。目的の外側に立ってる人間だけが、目的に呑まれへんのよな。
ぼんじぃ〜:うちのカミさんが言うてることと、アンナのセリフがまたダブったんよね(笑)。
クロちゃん:ええな、それ。理論だけで固めた話やのうて、身近な人の日常の一言が、神話やアニメの真理と同じとこに繋がってる。特別な人だけの悟りやない、誰の日常の中にも既にある。
「なんとかなる」――この四文字は、諦めの言葉やない。現実を明らかに見た上で、今ここに立ち続ける、能動的な生き方なんやと思う。
次回は、葉の兄・ハオを取り上げるで。全知全能ゆえの孤独と、母の愛による救済の話。
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シャーマンキング考察 全4部作
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