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「漫画の神様の神様」詩人・小熊秀雄―時代と闘い続けた39年の生涯―


序章 池袋モンパルナスの夜

 「池袋モンパルナスに夜が来た 学生、無頼漢、芸術家が 街にでてくる 彼女のために 神経をつかへ あまり、太くもなく 細くもない 在り合せの神経を――」。昭和13年(1938年)、『サンデー毎日』に掲載された詩の一節です。戦前の池袋西側、現在の豊島区長崎と千早あたりに、まだ何者でもない若い芸術家たちが集い、創作し、酒とコーヒーを飲み、議論し、恋をし、時に喧嘩もしました。そのカオスな空間を「池袋モンパルナス」と名付けたのが、詩人・小熊秀雄でした。
 パリのモンパルナスといえば、1910年代から30年代にかけて、モディリアーニやシャガール、日本人では藤田嗣治といったエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれる外国人芸術家たちがアトリエを構えた芸術の街です。小熊は、東京の片隅に生まれた貧しくも情熱的な芸術家たちの集落を、その名高い芸術の聖地になぞらえたのです。
 小熊秀雄――わずか39年の生涯でした。しかし、その短い人生において、彼は詩人として、画家として、童話作家として、漫画原作者として、そして何より時代と対峙し続ける表現者として、激しく、熱く、生き抜きました。


第一章 北国の少年時代 ― 肉体労働と文学への目覚め

 明治34年(1901年)9月9日、小熊秀雄は北海道小樽市稲穂町に生まれました。父は洋服仕立職人の三木清次郎、母は小熊マツでした。しかし、3歳の時に母マツが亡くなり、この時になって初めて秀雄はマツの私生子として入籍されました。後年、徴兵検査の際にこの事実を知った秀雄は、大きなショックを受けたといいます。
 幼少期は稚内、秋田、そして樺太(現在のサハリン)で過ごしました。泊居高等小学校を卒業後、学業を続ける道は閉ざされ、様々な肉体労働に従事することになります。鰊・いか釣り漁師の手伝い、養鶏場の番人、炭焼きの手伝い、農夫など、まさに転々とした職業生活でした。
 この時期の過酷な労働体験は、後の小熊の詩作に大きな影響を与えることになります。民衆の苦しみ、労働者の悲哀、そして社会の底辺で生きる人々への共感――それらはすべて、この若き日の体験から生まれたものでした。
 しかし、どんなに過酷な労働の日々の中でも、秀雄の心には文学への憧れが芽生えていました。樺太の厳しい自然の中で、ロシア文学に触れる機会があったのかもしれません。特に、後年愛読することになるプーシキンの作品との出会いは、彼の人生を大きく変えることになります。プーシキンのように、強権的な時代にあっても柔軟かつ不屈な姿勢を貫き、民衆の声を代弁する詩人になりたい――そんな夢が、北国の青年の心に宿り始めていたのです。

第二章 旭川新聞社時代 ― ジャーナリストから詩人へ

 大正11年(1922年)、21歳の小熊秀雄に転機が訪れます。姉の世話により、旭川新聞社に見習い記者として入社することができたのです。間もなく社会部記者となり、さらに文才を認められて文芸欄も担当することになりました。
 この頃から本格的な文芸活動が始まります。大正12年(1923年)、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載されました。この時期から、小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろさんご)といったペンネームを使用し、作品や取材記事を書いていました。
 大正13年(1924年)、画家の高橋北修と共に初めて上京し、詩を売り歩きました。しかし、一編も売れず挫折し、旭川に帰ることになります。この最初の上京の失敗は、秀雄にとって大きな打撃でした。しかし、彼はあきらめませんでした。
 大正14年(1925年)2月、崎本ツネ子と結婚します。4月には夫人とともに再び上京しますが、やはり志を遂げることができず、7月には旭川に帰省することになりました。上京中、『愛国夫人』8月号に童話「焼かれた魚」を発表するなど、わずかながらも成果はありました。
 大正15年(1926年)1月、長男の焔(ほむら)が生まれました。この名前には、秀雄の熱い思いが込められていたのでしょう。三度、旭川新聞社に復職し、生活の安定を図りました。
 昭和2年(1927年)には、詩友の今野力、鈴木政輝らと詩誌『円筒帽』を創刊しました(2号で廃刊)。この頃、旭川新聞文芸欄に詩、小説等を旺盛に発表していました。地方都市での文学活動には限界がありましたが、秀雄は着実に詩人としての力を蓄えていったのです。

第三章 東京への移住 ― 貧困と創作の狭間で

 昭和3年(1928年)、父の死去を機に、小熊秀雄は旭川新聞社を退職し、妻子を伴って三度目の上京を果たしました。今度こそは東京に定住し、文学で身を立てる決意でした。
 しかし、現実は厳しいものでした。国本社の編集手伝いの後、神田方面にあった業界紙「麻船具」「実業新報」の編集に従事しながら、かろうじて生活を支えていました。この頃、詩人の遠地輝武、伊賀上茂らと知り合い、文学的な交流が始まります。
 昭和5年(1930年)になると、『裸』『先駆』『祖国』『民謡音楽』等に詩や民謡を発表し始めました。しかし、生活は一向に楽になりません。家賃の滞納、長男の入院治療費の未納など、都会の飢餓に苦しむ日々が続きました。妻のツネ子も病身となり、秀雄自身も喘息発作に苦しむようになります。
 この極度の貧困の中でも、秀雄の創作意欲は衰えることがありませんでした。むしろ、苦しみの中からこそ、真実の詩が生まれると信じていたのかもしれません。「闇が暗ければ、星は光るんだ、君はその星の光りを見落としてはならない」――後に彼が残した言葉には、この時期の苦闘が反映されています。

第四章 プロレタリア詩人会への参加 ― 社会派詩人としての覚醒

 昭和6年(1931年)、遠地輝武の紹介で、小熊秀雄はプロレタリア詩人会に入会しました。これは彼の詩人としての活動に大きな転機をもたらすことになります。『プロレタリア詩』に「スパイは幾万ありとても」を発表し、プロレタリア文学運動の一翼を担うようになりました。
 昭和7年(1932年)、プロレタリア詩人会が日本プロレタリア作家同盟(ナップ)と発展的に解消することになり、小熊も参加しました。昭和8年(1933年)には、ナップ反戦詩集『鮮烈』に「母親は息子の手を」を発表し、反戦詩人としての立場を鮮明にしました。
 しかし、当時の日本は急速に軍国主義化が進んでいました。プロレタリア文学運動への弾圧も激しくなり、多くの作家たちが転向を余儀なくされていきました。小熊もまた、この困難な時代の中で、いかに表現の自由を守り、民衆の声を代弁し続けるかという課題に直面することになります。 
 昭和9年(1934年)、遠地輝武らと詩誌『詩精神』を創刊しました。この雑誌は、プロレタリア文学運動が弾圧される中で、詩人たちの表現の場を確保する重要な役割を果たしました。小熊はここで長編詩、叙事詩を多く発表し、独自の詩風を確立していきます。

第五章 詩集の刊行と池袋モンパルナス ― 芸術家たちとの交流

 昭和10年(1935年)は、小熊秀雄にとって記念すべき年となりました。最初の詩集『小熊秀雄詩集』と長編叙事詩集『飛ぶ橇』を相次いで刊行し、詩人としての地位を確立したのです。
 『小熊秀雄詩集』には、「蹄鉄屋の歌」をはじめとする代表作が収められていました。「泣くな、驚ろくな、わが馬よ。私は蹄鉄屋。私はお前の蹄から生々しい煙をたてる」――この詩には、労働者への共感と、苦しみの中でも希望を失わない強い意志が込められています。
 同年、風刺雑誌『太鼓』に加入し、「しゃべりまくり、歌いまくる」饒舌な風刺詩を発表し始めました。弾圧の激しい暗い時代にあって、民衆の肉体からにじみ出る抵抗の姿勢を示し続けたのです。
 この頃から、小熊は豊島区長崎町(現在の豊島区千早、長崎、南長崎あたり)に居を構え、そこに集まる画家たちと深い交流を持つようになりました。寺田政明、靉光、松本竣介、麻生三郎、古沢岩美、井上長三郎など、後に日本美術史に名を残す画家たちとの出会いは、小熊に新たな創作の刺激を与えました。
 特に、最初の詩集『小熊秀雄詩集』の装幀を手がけた寺田政明との友情は深く、彼らの交流を通じて、小熊自身も絵筆を執るようになりました。「夕陽の立教大学」「長崎アトリエ村」など、池袋モンパルナスの風景を描いた作品を残しています。
 30歳を過ぎてから始めた絵画でしたが、その素朴で力強いタッチは、詩と同じように、生活者の視点から世界を捉えようとする小熊の姿勢を表していました。

第六章 戦時下の抵抗 ― 風刺と諧謔の詩学

 昭和12年(1937年)から昭和14年(1939年)にかけて、小熊秀雄は都新聞(現在の東京新聞)に「大波小波」という時評を連載しました。日中戦争が始まり、言論統制が厳しくなる中で、彼は巧みに風刺と諧謔を用いて、時代への批判を続けました。
 この時期の小熊の詩には、独特の「しゃべりまくる」文体が確立されています。まるで民衆の井戸端会議のような饒舌体で、一見とりとめのない話の中に、鋭い社会批判を忍ばせました。検閲を逃れるための苦肉の策でしたが、結果として独自の詩風を生み出すことになったのです。「国民の臍を代表して」「日本的精神」「作家トコロテン氏に贈る」など、この時期の風刺詩は、戦時下の息苦しい空気の中で、かすかな風穴を開けようとする試みでした。
 プーシキンなどのロシア文学を愛読していた小熊は、専制政治下でも屈しない精神を学んでいました。プーシキンが検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発しながらも創作を続けたように、小熊もまた、どんなに困難な状況でも筆を折ることはありませんでした。

第七章 漫画原作者として ― SF漫画の先駆者

 昭和15年(1940年)、小熊秀雄は意外な分野で才能を発揮することになります。漫画出版社・中村書店の編集顧問となり、旭太郎の名義で漫画の原作を手がけ始めたのです。
 その代表作が『火星探険』でした。この作品は、日本のSF漫画の先駆的傑作とされ、後に手塚治虫、小松左京、筒井康隆、松本零士らに大きな影響を与えることになります。大城のぼるが作画を担当したこの作品は、宇宙への夢と冒険心に満ちた物語でした。
 戦時下の暗い時代に、宇宙という無限の可能性を描いた『火星探険』は、子どもたちに夢と希望を与える作品でした。詩人としての想像力が、新しいメディアである漫画と出会い、独創的な世界を生み出したのです。
 他にも『コドモ海洋丸』(渡辺加三作画)、『火打箱・しっかり者の錫の兵隊―アンデルセン漫画物語』(渡辺加三作画)、『コドモ新聞社』(渡辺太刀雄作画)など、多くの漫画原作を手がけました。これらの作品は、2005年から2006年にかけて『小熊秀雄漫画傑作集』全4巻として復刻され、再評価されています。

第八章 最期の日々 ― 肺結核との闘い

 昭和15年(1940年)、小熊秀雄の体調は急速に悪化していきました。長年の貧困生活と過労、そして持病の喘息に加えて、当時の不治の病であった肺結核に冒されていたのです。
 しかし、病床にあっても、小熊は創作を止めませんでした。検閲のため戦時下には刊行できなかった詩集『流民詩集』の原稿を書き続けていました。この詩集には、戦争への抵抗と、流浪する民衆への共感が込められていました。「人間は心を洗う手はもたないが 心を洗う心はおたがいにもっている筈だ」――『流民詩集』に収められたこの言葉は、死を前にした詩人が人間への信頼を失わなかったことを示しています。
 11月20日、東京市豊島区千早町30番地(現在の東京都豊島区千早)の東荘で、小熊秀雄は39歳の短い生涯を閉じました。最期まで妻のツネ子と、14歳になった長男の焔に看取られての死でした。戒名は「徹禅秀学信士」。その名の通り、最期まで学び、表現し続けた人生でした。
 悲しいことに、長男の焔も戦争末期の昭和20年(1945年)8月25日、19歳の若さで夭折してしまいます。父の「焔」という名前に込められた情熱を受け継ぐことなく、戦争の犠牲となったのです。

第九章 死後の評価 ― 再発見される詩人

 小熊秀雄の死後、その作品は長く忘れられていました。しかし、戦後になって、彼の詩は新たな光を浴びることになります。昭和22年(1947年)、戦時下には刊行できなかった『流民詩集』が三一書房から出版されました。戦争への抵抗を歌ったこの詩集は、敗戦後の日本で大きな反響を呼びました。プロレタリア文学運動が弾圧された時代にあって、転向することなく抵抗の姿勢を貫いた詩人として、小熊は再評価されたのです。
 昭和40年(1965年)には『小熊秀雄全詩集』が思潮社から刊行され、昭和52年(1977年)から53年(1978年)にかけては『小熊秀雄全集』全5巻が創樹社から出版されました。これらの全集の刊行により、詩だけでなく、童話、小説、美術評論、漫画原作など、小熊の多彩な才能が明らかになりました。
 特に注目されたのは、小熊の美術評論と絵画作品でした。『小熊秀雄 詩と絵と画論』(1974年)の刊行により、池袋モンパルナスの画家たちとの交流や、30歳を過ぎてから始めた絵画制作の意味が明らかになりました。
 平成16年(2004年)から17年(2005年)にかけて、「池袋モンパルナス 小熊秀雄と画家たちの青春」展が練馬区立美術館をはじめ各地で開催され、詩人・画家としての小熊の全体像が一般に広く知られるようになりました。

第十章 小熊秀雄賞の創設 ― 現代に生きる精神

 昭和42年(1967年)、小熊秀雄の業績を顕彰し、優れた現代詩の才能に賞を贈るため、「小熊秀雄賞」が創設されました。現在は旭川市を中心とした「小熊秀雄賞市民実行委員会」によって運営されています。
 この賞は、毎年過去1年以内に刊行された詩集を対象とし、日本文学の発展に寄与することを目的としています。受賞者には、世界に1脚しかない「詩人の椅子」が贈られます。これは、家具の街・旭川を象徴する賞として、地元の彫刻家・板津邦夫がデザインし、旭川を代表する家具メーカー・カンディハウスが製作したものです。
 小熊秀雄賞の選考委員には、アーサー・ビナードなど、現代を代表する詩人たちが名を連ねています。この賞を通じて、小熊の精神――困難な時代にあっても表現の自由を守り、民衆の声を代弁し続ける精神――は、現代の詩人たちに受け継がれています。

終章 永遠の池袋モンパルナス

 小熊秀雄が命名した「池袋モンパルナス」は、今や東京の文化史を語る上で欠かせない言葉となりました。平成9年(1997年)には劇団銅鑼が舞台『池袋モンパルナス』を上演し、池袋演劇祭大賞を受賞しました。この公演をきっかけに「池袋モンパルナスの会」が結成され、現在も活動を続けています。
 豊島区には「熊谷守一美術館」や「アトリエ村資料室」が開設され、新たな芸術観光スポットとして注目されています。かつてアトリエ村があった要町や千早の住宅地を歩けば、今でも当時の面影を偲ぶことができます。
 小熊秀雄の詩は、時代を超えて読み継がれています。「しゃべりまくる」饒舌体の詩は、現代のラップやスポークンワードにも通じる表現です。貧困と格差が広がる現代社会において、民衆の立場から発言し続けた小熊の詩は、むしろ今こそ必要とされているのかもしれません。
「僕は訴訟狂のやうに 民衆に訴へてゐる 純粋な快楽は 権利を主張する瞬間にある」――小熊が残したこの言葉は、表現することの意味を私たちに問いかけています。
 戦前の暗い時代、貧困と病苦の中でも、決して希望を失わず、表現し続けた詩人がいました。仲間たちと語り合い、恋をし、絵を描き、詩を書き、漫画の原作まで手がけた多才な表現者。わずか39年の生涯でしたが、その炎のような情熱は、今も私たちの心を照らし続けています。
 池袋の夜は今日も更けていきます。かつて小熊秀雄が歩いた街には、新しい世代の表現者たちが集い、創作を続けています。「池袋モンパルナスに夜が来た」――この詩句は、永遠に繰り返される創造の賛歌として、これからも歌い継がれていくことでしょう。

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