読書ノート 「探求Ⅱ」 柄谷行人
そういや『探求Ⅰ』は本棚にありました。
『探求Ⅱ』『探求Ⅲ』も読んでいきましょ。
ここで取り上げて読むのはフロイトに関する部分。
『モーゼと一神教』を精読する際の参考にしていくという意図があります。第三章「世界宗教をめぐって」の1「内在性と超越性」、2「ユダヤ的なもの」を中心に読みます。また、柄谷行人はフロイトを自身の理論の鍵とする場面があり、それはどの場面でどのような側面を取り上げるのか、などという疑問を抱いています。人間のこころに寄り添い、全人格を賭けて探求し続けたフロイトの思想は、こんな世知がない世の中でもきっと思考を始めるスタートラインになるでしょう。そんなわけでフラグメントを集めます。
ちなみに目次です。
1 固有名をめぐって
1.単独性と特殊性
2.固有名と歴史
3.名と言語
4.可能性と現実性
5.関係の偶然性
2 超越論的動機をめぐって
1.精神の場所
2.神の証明
3.観念と表象
4.スピノザの幾何学
5.無限と歴史
6.受動性と意志
7.自然権
8.超越論的自己
9.超越論的動機
3 世界宗教をめぐって
1.内在性と超越性
2.ユダヤ的なもの
3.思想の外部性
4.精神分析の他者
5.交通空間
6.無限と無限定
7.贈与と交換
【内在性と超越性】
「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。
「他者」の概念:たとえば、人類学者あるいは民俗学者も、共同体の外部に在る他者(異者)について語っている。しかし、そのような異者は、共同体の同一性・反復のために要求される存在であり、共同体の装置の内部にある。共同体は、スケープゴートとしてそのような異者を排除するし、またそれを「聖なるもの」として迎えいれる。共同体の外部とみえるものが、それ自体共同体の構造に属しているのである。
異者は超越者であったり、おぞましい(アブジェクトな)ものであったりする。
異者と他者の違いは、他者が単独性において見られているのに対して、異者が一般性(類型)において見られていることである。
フロイトは、ストレインジなもの、あるいは不気味なもの(unheimlich)は、親密なもの(heimlich)だといっている。それは、異者はもともと内在的であって、それが〝疎外〟されたものだということを意味している。共同体の内部の者と、異者は、本来同質的であるといってよい。異者がどんなに超越的に見えようと、それは内在的なのである。
フォイエルバッハは、神の超越性を否定する。だが、それは超越性を人間(個々人)に内在させることでしかない。いいかえると、この種の思考は、類-個(一般性-特殊性)という回路の中にある。ここでは、超越的なものは「類」なのである。
これに対して、たとえばルネ・ジラールは、個々人が誰か一人をスケープゴートとして選び全員一致でそれを殺害または放逐するというプロセスを考える。排除されたその者は神あるいは超越的な存在となる。これが共同体のメカニズムであり、またこれが周期的に反復されるのが祭式である。しかし、これも基本的にフロイトが『トーテムとタブー』でいったことと違っていない。超越的な異者はもともと内なる異者であるというのだから。いいかえれば、それは手の込んだ「自己疎外論」である。
キルケゴールのいう「天才」と「使徒」の違い。「天才」は異者であるが「内在的」なのに対し、「使徒」は内在化されることはない。「使徒」は「他者の言葉」(バフチン)であり、「超越性の領域」なのだ。
スピノザは、神は超越的ではなく内在的であるという。…スピノザがいうのは、絶対的・超越的他者への信仰というものが、概して自己の絶対化・超越化にほかならないということ、つまり相対的な他者への関係において非倫理的であるということである。
偶像崇拝とは、神に働きかけてこの世界(自然)を変えようとすることである。そのことの禁止は、この世界を超越しようとすることの禁止にほかならない。
エリアーデは宗教の本質は「聖なるもの」にあり、「聖なるものの定義は、まずそれが俗なるものの対照をなすということに始まる」といっている。
(柄谷は)「宗教」を二つに分ける。一つは共同体の宗教であり、もう一つは世界宗教である。世界宗教とは、スピノザのいう意味での「世界」観念を(表象として)提示するものだと考えてよい。…世界宗教の「世界性」は、その「世界」観念にしかない。そして、「宗教の本質」がエリアーデのいうようなものだとしたら、世界宗教は本質的に「宗教批判」としてあらわれたということができる。…「聖なるものと俗なるもの」の区別が存在しえない「超越的領域」こそが「世界宗教」における「世界」なのである。
ハイデッガーの実存概念はエクスタシーである。それは本来的な「共同存在」への回帰である。そこに排除されているのは、相対的な「他者」との関係性である。同じことが西田幾多郎についてもいえる。彼は「自覚」の根底に「私と汝」の関係を見いだす。むろん彼のいう「汝」とは、相対的な「汝」ではなく、「絶対無」のことである。
西田の「私と汝」における「汝」は、相対的な他者ではなく、無としての絶対者でしかない。こういう外面的関係の消去は、彼の哲学から「歴史」を奪う。それは「他者」を消すことと同義である。歴史とはまさに他者性としての事実性だからである。西田のいう「場所的弁証法」とは歴史性=事実性を消去するものだ。
【ユダヤ的なもの】
フロイトの『人間モーゼと一神教』は謎めいた書物である。ナチスによるユダヤ人排除が鮮明化した一九三〇年代に、彼がこのように意図が不透明な作品、しかも彼自身が「歴史小説」とことわらなければならないほどに学問的な証拠を書いた本を書くことに固執した理由がよくわからないのだ。だからまた、この作品は、フロイトの著作のなかでも際立っている。すくなくとも、この本は、宗教的な出来事を精神分析的に解釈してみせるといったようなものではない。つまり、精神分析の単なる〝応用〟ではない。それどころか、これは精神分析の出自そのものを問いなおすような仕事なのである。
政治的なメッセージとしてみるならば、この本は、モーゼがユダヤ人ではなくエジプト人であるということによって、反ユダヤ主義を緩和させようとしているようにみえる。それは、モーゼやイエスがユダヤ民族から出てきた事実に対するキリスト教徒の嫉妬をなくし、他方でシオニズムにみられるようなユダヤ人の選民(共同体)意識を無効化する。
要するに、フロイトは、ユダヤ人であろうと、ゲルマン人であろうと、彼らから共同体の宗教を奪ったのが「モーゼの一神教」だというのだ。そして、一方で、彼はそれを集団神経症として解体しようとする。だが、他方で、彼はそれを肯定しようとする。
モーゼは彼にとってアンビヴァレントな存在である。彼が見いだすのは、ユダヤ人に宗教的アイデンティティを与え、民族としての共同性を確立したモーゼと、その反対に、ユダヤ人から共同体の宗教やアイデンティティを徹底的に奪おうとしそのため殺されてしまったモーゼである。彼は後者のモーゼ、すなわち「ユダヤ的であること」の起源としてのモーゼを取り出そうとするが、そのときユダヤ教やユダヤ民族の共同体の元祖としてのモーゼに直面しなければならない。逆に、そのようなモーゼを批判しようとすれば、その批判自体を可能にするものとしてやはりモーゼに行き着くほかない。こうしたモーゼの両義性とそれに対するフロイトの葛藤が、『人間モーゼと一神教』という作品を両義的なものとしている。そして、それは運動としての「精神分析」にもつきまとうのである。
フロイトにとって、宗教は集団神経症にすぎない。
しかし『人間モーゼと一神教』におけるフロイトは、すべての宗教を集団神経症とみるだけでなく、さらに、そのようにみる彼自身の、あるいは精神分析の立場そのものがどこからきたのかを問うている。いいかえれば、「ユダヤ的であること」がどこからきたかを問うている。フロイトの考えでは、いうまでもなく、それは偶像崇拝を禁止した人間モーゼからきたのだ。
事実フロイトは、精神分析をたんに治療法としてでなく世界的な思想運動とみなしている。ある意味で、彼はモーゼのように運動を創始しモーゼのようにふるまったのである。
この後に 『モーゼと一神教』『快感原則の彼岸』を読んでいきます。
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