読書ノート 「ゼロから始めるジャック・ラカン」 片岡一竹
旧タイトルは『疾風怒涛精神分析入門』。
解説で向井雅明がこの著者について、ジャック=アラン・ミレールを引き合いにして多大な期待をかけている。確かにこの1994年生まれの著者がこの本を書いたとき、彼は若干まだ20代の早稲田大学生であった。ほんますごい。田辺聖子なら「ちゃんと文章かけてるやん、変なとこないで」とでも言いそうである。
向井が言うように、片岡の特色は、臨床経験がないながら、この歳で哲学的側面からラカンを理解していること、そしてその後にきちんと自ら精神分析を受けていることである。文章は読みやすく、勘所は太字で表記されるなど、ド素人でも理解しやすい内容である。ここではその太字部分を抽出して理解を進めてみよう。
第Ⅰ部 精神分析とはどのような営みか
第一章 それでも、精神分析が必要な人のために──精神分析は何のためにあるのか
精神分析は臨床実践である
精神分析とは一つの独立した臨床実践なのです。
言葉を用いる臨床実践
自由連想
精神分析の特徴はあくまでも自由連想を臨床の主軸に置く
無意識について
自分はそう自分のことが分かっていません。自分を真に動かしているのは、自分が知らない力や動機なのです。
ラカンは臨床家である
ラカンは主にフランス現代思想の論客として研究されており、臨床家としてのラカンが長らく顧みられていなかった
精神分析は時代遅れなのか
精神分析にはコストがかかりすぎる
①時間(分析の終了まで平均して十年以上)
②お金(保険が適用されない)
③心理的負担(抑圧されたものを白日の下に晒す行為)
効率化のイデオロギー
精神医療や心理臨床だけが「心の治療」のすべてではないこと、そして、精神分析が、これらの治療とは全く別の目的に向かっていること
治療の世界においても、効率化の至上主義が席巻しはじめているわけです。
つまり治療において効率化ばかりが「善い」とされている現状も、一度疑ってみなければならないのです。
表面的な症状がすべてではない
表面的な症状の背後に、その人自身気づいていないような無意識的な問題があるのです。
治療の〈修理〉化
〈修理〉的な治療(特に向精神薬の開発など)において問題になるのは、精神障碍が生まれる器質的なメカニズムだけ
原因と結果の関係が逆転してしまっている
科学的イデオロギーが唯一ではない
科学そのものではなく、科学的イデオロギー
精神障碍の管理社会
資本のシステムが円滑に動くために病者を操作し管理すること
本書では基本的に「精神医学」の実践を「精神医療」、「臨床心理学」の実践を「心理臨床」と呼んでいます。
病気を治すこと
(「精神を病む人々」が抽出され)一つの〈病気〉のカテゴリーとして医学的な治療・診断の対象とされるようになった
現在は投薬治療が中心
心理学というのは、人間の心のメカニズムを知るための学問全般を指します。…臨床心理学とは、心理的なトラブルを扱い、臨床実践を行う分野を指します。…臨床心理学が目的とするのは、〈患者〉の〈治療〉ではなく、〈クライエント〉の〈援助〉なのです。
精神科医と臨床心理士
精神分析には「健康」の概念がない
精神分析が目指すのは、精神障碍に陥った患者の〈治療〉でも、心理問題の解決の〈援助〉でもありません。
すべての人は神経症者、精神病者、倒錯者(+自閉症者)のどれかに分類されます。「健常者」というカテゴリーは存在しません。
これらの疾病分類は治療のための分類というよりも、人間の〈生き方〉の構造と捉えるべきです。
人間の生き方としては、健康よりも狂気が本源的です。むしろ健康のほうが作られた状態なのです。
「健康」から「納得」へ
〈理想〉に苦しめられないこと
「こうあるべき人間像」に患者を同一化させるようなことは、精神分析のすることではないのです。
精神分析の主体は患者である
患者自身が、自分自身や自分の人生を捉えなおすことで、悩みや生きづらさに主体的に向き合っていくこと
精神分析は無意識を扱う
ポジティヴな〈開き直り〉に向けて
「自分は自分の望む生き方をしている」という自信
なぜフロイトに帰らなければならないのか
ラカンは、当時の精神分析では経験を超えた原理的な問いが問いなおされなくなり、既存の精神医学や心理学と変わらなくなっている、と厳しく批判していました。
まとめ─効率化とは別の仕方で生きること
「精神分析は精神医学とも臨床心理学とも異なった独自の臨床実践です。それは心の異常の改善ではなく、それぞれの患者が納得のできる生き方を見つけることを目指します。効率至上主義の現代において精神分析は力を失っていますが、それは効率とは全く別のものを目指す営みです。時代に別のもの(オルタナティヴ)を差し出す営みとして、精神分析には依然価値があるはずです」
第二章 自分を救えるのは自分しかいない──精神分析が目指すもの
意味のあるものは解釈ではない
他人の精神を分析することはできない
患者は分析家によって自分の思考や行為の無意識的な意味を知るのではありません。
分析室の風景①─自由連想とは何か
唯一やってはならないのは、言うことを選ぶことです。
分析室の風景②─解釈とは何か
しかしながら、分析家は基本的に何も言ってくれないでしょう。
分析をするのは誰なのか
つまりだれが精神分析をするのかと言えば、患者自身なのです。
もし患者の話に意味づけしてしまえば、患者を支配することになってしまいます。
他人を理解することはできない
(他人の心がわかった➡)①一般論を当てはめているだけか、②自分の心理と他人の心理を混同しているだけ
私たちはみな決して他者とは共有できない部分をもっているはずです。それは特異性と呼ばれます。
患者を理解してはいけない
精神分析が目指すものは、患者の理解ではありません。
精神分析が目指すもの、それは患者の特異性に他なりません。
それでは理論は何のためにあるのか①
〈知らない〉と〈忘れる〉は違う
自分自身の無意識を働かせながら聞くべき
それでは理論は何のためにあるのか②
特異性と一般性とをあえて衝突させ、この衝突を通じて特異性が姿を現すように分析を方向付けるべきです。
精神分析の目標は〈新しいもの〉を生み出すことです。
新しい〈生き方〉
〈新しいもの〉を発言させる
症例を構築
患者の特異性をもとに一つの新たな普遍性を作ること
決して共感しないような他者がいること
こうした意味での他者になること、それが分析家の役割です。
解釈とは〈思いもよらなかった新しいこと〉を言うよう、患者を促すためのものです。
分析家の解釈は大抵の場合突飛で、面食らわせるようなものです。
変動時間制セッションについて
患者が話している途中で突然セッションを切り上げる
セッションの切り上げとは、まさに〈切る〉ことに他ならない
無意識の発言(パロール)
自我と主体の区別─自我心理学との違い
自我─客体化(対象化)された自分
精神分析にとって主体とは何か
主体とは自我の抑圧を超えて姿を現すような無意識の主体
精神分析でいう主体には「能動的なもの」「統御するもの」「理性的なもの」「意識的なもの」という性格が全くない
主体には実体がない
主体は〈生じる〉ものである
主体は〈存在するもの〉というよりも、〈生じるもの〉である
失錯行為
フロイトは、哲学者や物理学者が「空間」や「時間」といった概念を想定するのと同じように、無意識という仮説を想定した
自分の父を理想と思っていたはずの彼の中には、しかし「父のようにはなりたくない」という隠れた〈本音〉が存在していました。
「女性的なもの」への恐怖
女性性の拒絶
彼が「ああはなりたくない」と思っていた父のイメージとは、「女みたいな」ものとしての父でした。
その反動として彼は、柔和で寛容な人という自己イメージ(自我像)を作り上げていたのです。
〈もう一つの自分〉に気づくこと
自分が知らぬ間に構築してきた自己イメージ(自我)に反する、無意識の主体が姿を見せる
自分でそう思っている自分とは別の〈自分〉が、そこで作用してきたことに気づくのです。
主体は一瞬のうちに逃げ去る
すでに無意識に対する新たな抑圧が働いてしまっている
主体とはつねに〈もっと他のもの〉でしかありません。
主体とは二重性そのもの
特異性と一般性の相克
(特異性が重要な理由は)「特異性が排除されることによって、無意識の主体が生まれるから」
この根本的な居心地の悪さがあるからこそ、無意識の主体が生まれる
精神分析が最終的に目指すのは、特異的なものが一般性の世界を食い破って出現することです。
そもそも無意識的な症状の苦しみは、一般性の世界で特殊性が排除されるという、根源的な不満に基づくもの
こうした懊悩は、特異性と一般性の間の相克によって生まれるものです。
特異性を〈うまくやっていく〉こと
特異性と一般性との間の相克は、どちらかの勝利によって終わるものではありません。それは構造的に不可能です。
特異性との上手い付き合い方
get along(仲良くする、うまくやっていく)
個性と特異性─精神分析から見たゆとり教育
ゆとり教育で言われている「個性」なるものは、学校や社会という一般的なシステムに適合する限りで認められるものでしかない
個性というものは、「一般論」によって一つの視点から扱われるものでしかありません。他方、特異性というのは、あらゆる一般論からはみ出す過剰な何かのことを言います。
「個性が一般的な基準に立脚して考えられている以上、それは必ず、この基準を司っている権力にとって都合のよいものとして扱われます。権力は社会の中で、何を「個性」として認め、何を「反社会的なもの」として排除するかという境界線を画定することによって、その支配力を発揮するのです。それに対して、特異性とは本質的に反権力的なものです」
個性には他者の支えが必要である
こうして他者に支えられた自我の個性が、私たちの縁となる
特異性を引き受ける勇気
まとめ─症状は不幸ではない
「一般的な心の治療では、患者は受動的なものとされています。患者はなんらかの事故(アクシデント)によって精神的な障碍を負ってしまった可哀想な人と考えられています。だから治療者は往々にして、苦しい症状を一刻も早く取り除いてあげたいと思うでしょう。
しかし精神分析では症状の裏に主体的なものを見出します。症状は苦しいものであっても、必ずしも不幸ではなく、無意識の主体が現れようとしている兆しであり、患者が無意識と向き合うための好機なのです。そして精神分析の中で主体的なものが露わになることを経験して、それまでは思ってもみなかったような欲望や思想が自分の中にあることが分かるかもしれません。自分や世界を新たな目で見ることが可能になるかもしれません。しかし保証はありませんそれを行えるかどうかは、分析主体に委ねられているのです」
アンコール1 人はどのようにして精神分析家になるのか
本来、精神分析家の資格認定制度などあってはなりません。
国際精神分析協会(IPA)
「訓練分析」は「教育分析」とも呼ばれ、分析家の志望者がまず患者の立場で精神分析を受けることを指します。
ラカン派には分析家の資格を認可する制度がありません。
分析家の条件は分析家の欲望にある
精神分析が目指すのは特異性であるということ
分析家になる唯一の条件、それは特異的なものを目指す欲望を手にしていることです。この欲望は「分析家の欲望」と呼ばれます。
ラカン的精神分析において「分析家」とは、あくまで自分自身のみに拠って立つ存在でしかないのです。
「パス」について
パスとは、簡潔に言えば、「その人が自身の(訓練)分析において、分析主体から分析家への移行(パッサージュ)を果たしているか」を判断する審査過程のようなもの
パスの審査の中で問われるべき問題は、志願者が精神分析の中で、自分の特異性に基づく新たな普遍性を生み出すことができたかである
学派分析家
フロイトの大義学派
世界精神分析連合

純粋な精神分析は訓練分析である
分析を終えた主体はみな特異的なものを生み出しているはずであり、つまりは精神分析家であるということになります。
すべての分析は本来訓練分析である
精神分析が特異性を目指すということ、それは精神分析が新たな分析家の誕生を目指すということと同義なのです。
分析の目的は分析の内部になければならない
第Ⅱ部 精神分析とはどのような理論か
第三章 国境を越えると世界が変わってしまうのはなぜか──想像界・象徴界・現実界について
想像界、象徴界、現実界
心的次元の区分
あくまで人間の心の領域の区分に過ぎません。
ただし三つの領域は重なり合っており、すべてのものが三界のどこか一つに位置付けられるというわけではありません
ジャック・ラカンの理論的変遷
精神分析理論は、どれだけ精巧で普遍的に見えても、必然的に不完全な理論であり続ける
理論的変遷が意味するのは、理論が単純に発展し、改善されていくという単線的なプロセスではありません。

「想像界はイメージの領域、象徴界は言語構造の領域、そして現実界は、そのどちらでもない領域を指す概念です。
私たちが持つ身体はイメージによって作られたものであり、それらはもろもろの器官を一つのイメージの下に統一する機能を持っています。
象徴界が指し示す言語構造はシニフィアンによって構成されています。シニフィアンは記号と違って、物質的な指示対象と対応せず、単体では意味をなしません。シニフィアンが意味作用を持つためには、他のシニフィアンと連接されることが必要です。象徴界は物質世界と独立した独自の言語的世界を形成します。それは〈法〉によって統御されており、そこから文化的なものも生み出されます。また象徴界は、想像界を統御する機能を持っています。
現実界は、初めは物質化を指すものとして、後には不可能なもの一般を指すものとして用いられました」
第四章 私とはひとりの他者である──鏡像段階からシニフィアンへ
鏡像段階の真理を言い当てる自由律ジョーク
「人を見た目で判断しそうな顔しやがって」
「暴力を振るうようなやつは殴ってやる」
「俺は差別と黒人が嫌いだ」
鏡像段階の復習
寸断された身体 生まれたばかりの幼児は寸断された身体しかもっておらず、統一された身体は後に作られる
自我が成立して寸断された肉体が統一されるためには、自分を対象化する契機が必要。ラカンはその契機を、赤ちゃんが鏡に自分の姿を映すという体験の中に見出した。
鏡像は真実ではない
そもそも鏡像の中に見出される像自体が自分そのものではない
鏡像とは一人の他者である
自我は他者があってこそ成立するものなのです。
「鏡像」という概念が意味するのは、自我のイメージ(像)を与えてくれる他者一般を指しています。
鏡像段階は自我を生み出すと同時に、ある根本的な不調和をも生み出す
それは鏡像をめぐる自分と他者との間の闘争と言えます。
鏡像段階の愛憎
鏡像段階における双数=決闘の関係
それまで自分固有のものとして抱いていたイメージ(自我)が、自分ではなく彼(鏡の他者)のものになってしまうという恐怖
鏡像段階においては、自分と他者の間に、愛憎が分かち難く入り乱れた関係が生まれます。一方において鏡像は、自分の似姿として愛の対象になります(これは自己愛ナルシシズムと言えます)。しかし他方においては、まさにそれが自分の似姿であるがゆえに、激しい憎悪の対象にもなるのです。
鏡像段階においては、自我の敵意(愛)が他者に投影され、反転して、他者が自我に向ける敵意(愛)と感じられてしまうのです。
自我が確立されるためには鏡像だけでは足りません。鏡像だけでは、双数=決闘的な関係の泥沼に陥ったままになってしまいます。それが平定されるためには、更なる《他者》の存在が必要になるのです。
他者から《他者》へ
小文字の他者(autre)と大文字の他者(Autre)
小文字の他者…自分とは異なる存在であるものの、イメージの水準で自分と入れ替わってしまう可能性がある存在(友人、兄弟、同僚など)
大文字の他者…絶対的な《他なるもの》。親や先生、王や神。《他者》そのものは人間を超えたものであり、小文字の他者同士の関係性を統御するための〈法〉をもたらす存在を指す。
大文字の他者は象徴的なもの、小文字の他者は創造的なもの
言語の世界の中で生きるようになることは、根源的な《他者》の経験
はじめに《他者》ありき
人間はまずイメージの世界で生き、その後で言語の世界に入るのではありません。人間は最初から言語の世界に生み落とされるのです。
子供は生まれる前から象徴界(《他者》の世界)の中での位置を規定されている
《他者》なくして鏡像はなし
幼児は象徴的な《他者》の働きを創造的なイメージの水準でしか把握することができない
ここで言う《他者》とは親のこと
親という大文字の《他者》が保証してくれるおかげで、鏡像という小文字の他者が機能する
《他者》の不穏さ
幼児の養育者という意味での〈親〉は、私たちが最初に出会う「《他》なる存在」に他なりません。…というのも親は言語を話す存在だからです。
つまり人間は「何を考えているか分からない異質な存在(=《他者》)に生殺与奪の権を握られている」という、根源的に不穏な状況に生まれ落ちざるをえないのです。
人間の本質には何か不穏なものがあるということ
シニフィアンと無意識の起源
《他者》なくしては無意識というものを考えることはできない
人間は本能の壊れた動物
人間は自然に対して本質的に過剰なものによって構成されている
言語の世界は、まさに自然に対する過剰によって構成された世界
だから無意識は言語的なものであると考えなければならない
主体の誕生
無意識の主体は、言語の世界への参入によって誕生する
「《他者》がなければ主体はない、しかし主体は《他者》ではない」
無意識は《他者》のシニフィアンの集積である
「無意識は《他者》のディスクール(語らい)である」(ラカン)
無意識はシニフィアンの〈法〉に従って動かされている
精神分析の目的は、イメージの背後で作用する無意識の〈法〉を明らかにするように患者を導くこと
シニフィアンの戯れ
分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的な性質が現れることが目指されます。
抑圧されたシニフィアンの回帰
抑圧されたシニフィアンには「揚力」のようなものがあり、再び意識の領域に浮かび上がって来ようとするということ➡変装する➡別のシニフィアンに姿を変える➡抑圧されたものの回帰
無意識の形成物─夢解釈について
精神分析において目指されるのは、無意識の形成物を手掛かりにして、形成物が表現するものと抑圧されたシニフィアンとの間の結びつきを回復させること
ヒステリー 夢 夢の思考 夢作業
〈法〉に関する主体的な変化
「抑圧されたシニフィアンが発話によって認められることで、無意識の〈法〉との関係が変化する」
精神分析の臨床の中で抑圧されたシニフィアンが患者の口に出されると、シニフィアンは自らの役割を果たします。このことによって無意識の〈法〉に関する変化が生じ、このシニフィアンにまつわる悩みは消えてくれるわけです。
発話が治療手段になる
精神分析の治療手段は、患者が抑圧されたものを発話することそのものです。
患者は抑圧された真理を話すことそれ自体によって治るのであって、無意識的なものを意識化することによって治るのではありません。
シェーマLについて

※主体から自我へ直接には線が伸びていないことに注意。自我は他者のイメージがなければ成立しない。 自我は大文字の他者(Autre)からの矢印にも接しているが、これは自我が他者だけでなく《他者》にも支えられていることを示している。
他者➡自我の軸は想像的関係(relation imaginaire)を指す。 想像的関係とは、まさに鏡像段階によって成立する。しかしこの軸はA➡Sの軸に割り込んでいる。そのため、《他者》Aからの無意識(inconscient)のメッセージが主体Sに届いていない(破線になっている)。 これは、想像的関係に囚われると象徴的な無意識が覆い隠される(抑圧されたままになる)ということを意味する。したがって、精神分析が目指すのはAからのメッセージがSに届くこと。そのことによって無意識のシニフィアンは目的を遂げ、〈法〉との新たな関係が生まれてくるだろう。
アンコール2 手紙は必ず宛先に届く
シニフィアンの〈法〉は、自らの規則を闇雲に貫徹しようとするもので、時に不条理にすら見える何かです。
「手紙=文字はつねに宛先に届く」
象徴界の徹底した一貫性
反復脅迫
象徴界には現実界という穴が開いており、「手紙が必ず届く」ようなものとは言えなくなる
第五章 〈父〉はなぜ死んでいなければならないのか──エディプス・コンプレクスと欲望
エディプス・コンプレクス「患者が自分の両親(特に父親)に対して抱く複雑な観念・感情の複合体」
主体は《他者》の世界の中で生み出されるものであり、親は最初に出会う《他者》の代表者
他者の中での主体の形成
分析の中でエディプス・コンプレクスがテーマとなる際に患者が語る(またフロイトもそのまま用いている)「父親」「母親」「ペニス」などの観念は《他者》の世界における主体形成過程をイマジナリーな仕方で説明するもの
想像的な仕方で象徴界を理解
エディプス・コンプレクスの物語は《他者》の世界の構造を反映している
エディプス・コンプレクスは主体の欲望の形成に直接的に関わる
精神分析にとって〈父母〉とは何か
〈母〉の定義とは、「子供が出会う最初の《他者》」であり、それは子供を保護・養育する存在全般を指します。
〈父〉が指すのは、〈法〉を司り、去勢の責任者となる存在のことです。
要請なくして生はなし
寄る辺なさ
要請
欲求は要請として言語化されない限り満たされない
「要請」のシーンの中で、〈母〉の応答によって幼児の中に言語が刻みつけられる
〈欲求の満足のための要請〉から〈愛の要請〉へ
欲求と要請の間にはつねにギャップが存在する(要請が象徴的なものであるため)
「要請のための要請」が生まれてくる。それは「愛の要請」
《他者》の不在に対する根源的な懸念
愛はこの根源的な懸念への解決となる
愛が求めるのは欲求を満足させるなんらかの対象ではありません。そうではなく、「あなたがそこにいること」そのものです。幼児にとって愛の要請は《他者》の現前そのものの要請なのです。
「愛とは持っていないものを与えることである」(ラカン)
持っているものとは手放すことができるもの
持っていないものとはその人存在自体から切り離せない何か
欲望は他のものを目指す
要請は必然的に二重のもの(欲求の満足の要請と愛の要請)となる
欲望は主体が《他者》の世界で生きるということそのものから生まれる不満足に由来して生じる
欲望は不満足そのものによって定義され、欲望の対象は〈欠如しているもの〉です。
欲望はつねに〈他のもの〉を目指します
〈欠けたもの〉とは、《他者》に依存しない主体の固有の存在ー存在欠如
欲望は要請の狭間に

多くの人間は欲望の問題を要請の問題とすり替えており、欲望が満たされないのは《他者》が愛の要請に答えてくれないからだと信じている
エディプス・コンプレクスとは、主体が真の意味での欲望を身につけていく過程
不満という「満たされなさ」
欲望は主体が《他者》の世界で生きることの不満足そのものから生まれてきますが、人は初めからこの不満足を「欲望」という形で把握するわけではありません。
実際には《他者》がいなくなることもある
不満(期待通りにうまくいかないこと)
「欲求の不満」と「愛の不満」
不満とは要請の満たされなさによって生まれるもの
万能の《他者》の愛という贈与
不満の特徴は《他者》を万能の存在と思っていること
しかし、万能の 〈母〉が、幼児の要請しているものを与えてくれないことがある➡不満を感じる
不満とは贈与の拒絶に対する不満足です。
〈母〉の法に従属している主体
〈母〉の現前と不在の中に〈母〉の愛という法則が導入され始める
〈母の法〉とはほんとうの意味での〈法〉ではなく、〈母〉の恣意によって成り立っているものに過ぎない
〈父の名〉の導入
〈母〉と〈父〉という二種類の《他者》を区別する
〈法〉を司る存在としての〈父〉。この〈法〉は《他者》の世界に共通する普遍的な〈法〉
象徴的な父
〈父の名〉
超越的な立場から〈法〉を通じて子供を導く存在
Appendix──《他者》と「《他者》の《他者》」
「〈父の名〉とは《他者》の《他者》である」(ラカン)
〈父〉はなぜ死んでいなければならないのか
〈父〉は、〈母〉が〈父〉と認める存在であるからこそ〈父〉になります。
〈父〉は〈母〉の言葉の中に見え隠れする何か超越的な存在であり、〈母〉がそれに従う何かのことです。
《父の名》は〈母〉という一人の《他者》が世界のすべてではないことを子供に示すような言葉
「象徴的父とは死んだ父である」(ラカン)
原父は〈父〉ではない
父は死んで初めて〈法〉の保証者になる
エディプス・コンプレクスの導入
「子供は生まれるやいなや《他者》の世界に参入しますが、初めのうちそこには〈法〉がなく、〈母〉という一人の《他者》に依拠した〈母の法〉しか機能していません。子供は万能の存在としての〈母〉に依存・従属したままであり、〈母〉への要請の中で常に愛の渇き(フラストレーション)を感じています。しかしそこに〈父〉(象徴的父ないし《父の名》)が介入し、〈法〉を機能させるようになることで、子供はある意味で「独り立ち」し、真の〈法〉の中で生きていくようになります」
エディプス・コンプレクスを具体的に言うと、
男の子の場合「憎いお父さんを排除して、愛するお母さんを自分のものにしたい。けれどもそうするとお父さんからお仕置きを受けて、自分の大事なもの(ペニス)を奪い取られるかもしれない」
女の子の場合「お母さんはどんなものでも与えてくれると思っていたけれど、本当に大事なもの(ペニス)は与えてくれない。だからそれを愛するお父さんから与えてもらいたい」
「欲望する存在」としての〈母〉
「前エディプス期」「エディプス第一の時」実際は第ゼロ期
母の欲望が見えてくる(子供はまだそれを「欲望」とは認めていないが)
「欲望は《他者》の欲望である」(ラカン)
〈母〉に欲望があるということは、〈母〉に欠如があるということ
欠如がある以上、〈母〉は万能で完璧な存在ではないということ
幼児が〈母〉の欲望に出会うと、自分の方でも〈母〉に何かを与えることが必要なのではと思うようになる
➡自分が〈母〉の欲望の対象になろうとします。自分自身を欲望の対象として〈母〉に与えようとするのです。
言い換えれば〈母〉の愛の要請の中に欲望の次元のものが介入しはじめるのです。
自我は「〈母〉のための自我」である──「鏡像段階」再考
鏡の前での「これが君だよ」という言葉の裏に「これが君であってほしい」という〈母〉の欲望を見てとります。そして〈母〉の欲望の対象になることを望めばこそ、〈母〉が指し示す鏡像に同一化しようとするのです。
鏡像段階とは〈母〉の欲望の対象への同一化の段階と解釈することができます。
ファルスとは何か
「欲望の究極的対象」
一見、ファルスとは「象徴化されたペニス」だと言えそうです。しかし、実はこの考えは間違っています。ラカンは「ペニスが特別な象徴的意味をもったものがファルスである」とは考えません。反対に「ファルスという欲望のシニフィアンがあり、人類はそれをペニスと混同していた」と考えます。
ファルスというシニフィアンが表すのは純粋な欠如であり、ファルスは欲望のシニフィアンであると同時に欲望の究極的な対象を意味します。
象徴的なシニフィアンであるファルスを想像化(イメージ化)する
物神 物神崇拝 フェティシズム
欠如は「あるべきものがない」ということを意味しており、それは「あるべきものがある」という他のシニフィアンとのペアの中でしか成立しない概念
ペニスはフェティッシュ化されたファルスなのです。
想像的ファルス≠(象徴的)ファルス
〈母〉という《他者》の欲望に触れるようになっても、子供はまだ欲望の何たるかを把握できていない
エディプス・コンプレクスの途上で見出される「〈母〉の欲望」は「将来〈母〉の欲望として認められることになるもの」でしかない
子供はまだ「万能の存在としての〈母〉」というイメージを手放さない
想像的ファルス=子供が自身のイメージ世界(想像界)の中で〈母〉の欠如を埋め合わせるための依り代
〈母〉の万能性信仰
欲望がつねに〈他のもの〉に向かう以上、子供は「〈母〉が自分以外に欲望するもの」を目にせずにはいられない➡それが〈父〉
不満から剥奪へ──剥奪者としての想像的父
想像的父とは、子供にとって、〈母〉の創造的ファルス(つまり〈母〉の万能のしるし)を剥奪するものとして映るすべての存在です。
剥奪者としての創造的父が登場する契機をラカンは「エディプス第二の時」と呼びます。
子供は〈母〉の中に「自分ではどうすることもできない欠如」を認めざるをえなくなる。
剥奪から去勢へ①──「ぜんぶあいつのせいだ」
子供は邪魔者(剥奪者)である想像的父を排除することで〈母〉の万能性を取り戻せると思う
想像的父による剥奪が行われる前は想像的ファルスが存在していたという新たな教説
「新しく登場したもののせいですべてが駄目になった」という信仰
万能の存在としての〈母〉などどこにもいなかったのです。
《他者》には初めから欠如があり、万能の存在ではなかった
〈母〉の欠如の問題は自分自身の欠如の問題でもあります。
剥奪から去勢へ②──〈母〉は初めから去勢されていた
新しい答えを見つけられるだけの主体性がある
「〈母〉は万能ではないので、すべてを与えられるわけではない。〈母〉は一番大事なものを与えてくれない(拒絶)のではなく、与えられない(不可能)のだ」
子供が〈母〉の根本的な欠如をついに受け入れる契機がラカンの言う「エディプス第三の時」
「エディプス・コンプレクスの終焉」(フロイト)
ファルスは「〈母〉の万能のしるし」(想像的ファルス)から「〈母〉の欠如のシニフィアン」になります。
「欠如そのものを示す欲望のシニフィアンとしてのファルス」=象徴的ファルス
子供は〈母〉が欲望する存在であることを真に受け入れ、ファルスを欲望の水準で捉えるようになります。
ついにここで子供が受け入れる〈母〉の本質的な欠如を去勢と呼びます。去勢は「初めからない」ことを意味します。この意味で、欠如そのものを示す象徴的ファルスとは去勢を内在化したファルスだということもできます。
ラカンにおいて、去勢はつねにすでに行われてしまっていることです。
ラカンにおいて問題となる去勢はつねに〈母〉の去勢です。
剥奪から去勢へ③──現実的父の登場と《父の名》の導入
現実的父は子供にとって、どのように〈母〉の去勢(〈母〉の欲望)に対処していくかの指標を与えます。
〈父〉は単に想像的ファルスを奪う存在から、象徴的ファルスを与える存在になります。
子供は〈母の法〉の中で生きていくことをやめ、普遍的な〈法〉の中で、〈母〉と共に生きていくようになるわけです。〈父〉は現実的父としてファルスという欲望のシニフィアンを与えるだけでなく、同時に、象徴的父として〈法〉も与えるのです。
分岐点──エディプス脱出と性別化
〈母〉の去勢を受け、欲望にどう対処していくかという選択に関して、二つの道が存在しています。
主体の性別化 つまりエディプス・コンプレクスの解決としてどちらのルートを選んだかによって、その主体が〈男〉であるか〈女〉であるかが規定されるというわけです。
(精神分析にとって)〈男〉や(女〉という性別はあくまでシニフィアン的なものであり、人間固有の象徴的世界の中で決定されるものです。
人は自分の性別を主体として選択する
ルート1:存在(ある)から所有(もつ)へ──〈男〉の場合
「ファルスを持つ存在としての〈父〉に同一化する(もつ)」ことを、このルートの子どもたちは選ぶのです。
〈存在〉(ファルスである)から〈所有〉(ファルスを持つ)への移行が、エディプス・コンプレクスから抜け出す一つの道となります。
それまで〈母〉という《他者》のものでしかなかった欲望を自分の欲望として身につけるようになる
そして主体は自分の欠如を埋めてくれる対象を他所に探すようになる
「自分は何を望んでいるのか」という欲望の謎が現れざるをえない
主体の欲望は「疑い」という形をとる〈謎〉の中でこそ機能する
ルート2:仮装(マスカレード)によるファルスへの同一化──〈女〉の場合①
「〈母〉の去勢を認めたうえで、やはり《他者》のファルスであろうとする」道
主体は〈母〉のファルスであろうとするのをやめ、〈父〉のファルスになろうとする。
ここで主体が同一化するファルスはもはやそれまでのような想像的ファルスではなく、象徴的ファルスです。
去勢の契機を経て欲望の何たるかを会得した主体は、欲望の対象としての欠如そのものに同一化し、相手に自分を欲望してもらうこと自体を欲望します。主体の欲望は《他者》の欲望そのものに向かうのです。それは相手の〈欲望という欠如〉に自分の〈欲望という欠如〉を与えること、つまり「欠如を欠如で満たす」という逆説です。
象徴的ファルスへの同一化のために主体がとる手段が「仮装」です。仮装とは、文字通り「仮面を付けること」です。(象徴的)ファルスは欠如そのものなので、主体は仮装というヴェールの裏に「何か」があることを仄めかすという仕方で、間接的に自分がファルスであることを示すのです。
ルート2:〈謎〉としての欲望──〈女〉の場合②
相手の中に〈謎〉をひきおこす おとり
《他者》の欲望という《謎》を自分の欲望のために利用できるようになるのです。
エディプス・コンプレクスとは、子供が《他者 》の欲望を自分の欲望として身につけていく過程です。
まとめ──エディプス・コンプレクスの二本柱
「1 人間は生理的欲求を《他者》への要請という形でしか満たすことができません。要請は二重化されて愛の要請が生まれますが、そこには満たされないものが残ります。それが欲望であり、欲望は主体と《他者》との間の分裂そのものから生じる主体の存在欠如を目指します。それゆえ欲望の究極的な対象は欠如そのものです。
2 しかし人は初めから欲望を持っているわけではありません。子供がエディプス・コンプレクスを通うじて《他者》の欲望へ向き合うことによって、初めて人は欲望の何たるかを知ります。
このエディプス・コンプレクスには大きく分けて二つの柱があります。つまり《父の名》(象徴的父)とファルスです。
2-1 《父の名》の観点から言えば、エディプス第一の時において、子供は〈母〉という一人の《他者》に左右される〈母の法〉の中に生きています。エディプス第二の時に〈父〉が介入して〈法〉を示しますが、子供は〈母の法〉の世界の中に留まることを選び、想像的父に抵抗します。しかしエディプス第三の時に子供は象徴的父の〈法〉の中で生きることを受け入れます。
2-2 ファルスの観点から言えば、不満(フラストレーション)の契機において、子供ははじめ〈母〉を万能の存在と思い、一方的に〈母〉の愛を要請します。しかし次第に〈母〉が欲望する(欠如を持つ)存在であることが明らかになります。それでも子供には欲望の何たるかが分からず、〈母〉の万能を維持するために、想像的ファルスに同一化して、母の欠如をなかったことにしようとします。
剥奪の契機において〈父〉が介入します。しかし子供は〈父〉を「想像的ファルスの剥奪者」とみなして嫉妬を向け、想像的父による剥奪が行われる以前には〈母〉が想像的ファルスを持つ万能の存在であったと信じます。
しかし去勢の契機において、子供は〈母〉が初めから去勢されていること(万能の存在ではなく欠如を孕んでいること)を受け入れ、〈母〉の欠如の象徴である象徴的ファルスを現実的父から与えてもらおうとします。
ここで主体は二つのルートのどちらかを選択します。
①〈男〉ルート:現実的父に同一化し、現実的父のように象徴的ファルスを持とうとする(存在から所有へ)。
②〈女〉ルート:象徴的ファルスに同一化し、ファルスを持つ現実的父に欲望されようとする。
どちらのルートも、欲望を欠如として認めたうえで、《他者》からやってきた欲望を自分の欲望とするための解決案です。エディプス・コンプレクスの出口を経ることで、幼児は初めて「欲望の主体」として形成されるのです」
自分の欲望の隠れた歴史
アンコール3 エディプス・コンプレクスは、今日?
エディプス・コンプレクスと父権制
ラカンは、「父親」や「母親」の既成概念を概念化・抽象化することで、普遍的で強固なものとして通用させようとしているのではないか
「古名の戦略」(ジャック・デリダ)
性別化にはうまくいかないものもある
ラカンはファルスによる性別化にはつねに欠陥があると考えていた
性別化はファルスという唯一の(男性的)シニフィアンによって行われ、象徴界には女性性を表す固有のシニフィアンが欠けている
ラカンはフロイトを超えて、エディプス・コンプレクスの外部にある〈女〉なるものを捉えようとしました。
エディプス神話を越えて
ラカンはエディプス神話の真理を《他者》の構造の中に求めた
社会が変わり、欲望の形も変われば、精神分析にとってエディプス・コンプレクスは必ずしも必要ではなくなります。…それでも、きっと変わらないものがあります。それは、人間の幼児が寄る辺ない存在であり、保護者・養育者としての《他者》を必要とすること、そして《他者》が欠如を孕んだ、欲望する存在であるということです。エディプス・コンプレクスがなくなっても、欲望の〈謎〉は残るのです。
第六章 不可能なものに賭ければよいと思ったら大間違いである──現実界について
ここまでの議論は、単純計算でラカン理論のわずか三分の一に過ぎない
ラカンが次に向かうべき場所は、もはやシニフィアン理論がそのまま通用しないような、象徴界の埒外だった
現実界とは、イメージ(想像界)でも言語(象徴界)でも捉えられない純粋に不可能な領域。現実界はもはや「物質世界」のような実体を持ったものではなくなり、象徴界の穴そのものとして捉えられるようになった
象徴的無意識と現実的無意識
無意識は象徴的無意識と呼ばれる。無意識がシニフィアンから成り立っており、言語的な構造を持っているからです。しかし60年代に入ると、言語という視点だけでは無意識の全てを捉えられないと考えられるようになります。つまり無意識は言語だけではなく、後述する享楽や対象aなどの非言語的なものとも関わっているのです。こういった領域に関わる無意識は言語的(象徴的)ではなく、かといってイメージ的(想像的)にも捉えられないので、現実的無意識と呼ばれます。
現実界に向き合う私達の態度は、言語を介して変えられる
想像界と象徴界は「見せかけ」(サンブラン)の名のもと一つにまとめられます。
60年代のラカン理論の中心となるのは、見せかけと現実界の対立なのです。
欲動と欲望の違い
欲望…ファルスというシニフィアンにとって統御されており、象徴界の〈法〉に従っている
欲動…〈法〉をはみ出すような過剰なもの
欲動…「肉体と精神の狭間で、人間を満足へ向かって駆り立てる根源的な力動」
欲動の満足は享楽と呼ばれる
欲動は本来現実界から生まれるものであり、象徴的な〈法〉は現実的なものをコントロールできない
死の欲動
欲動の目標は死そのもの
生きながらにして死に接することはこの上なく魅力的で、崇高ですらあるのです。
享楽とは緊張を高めることの気持ちよさ、快と不快が入り交じる両義的な気持ちよさ
死の欲動に対する主体の防衛
生と死の拮抗そのもの
「人は享楽を得ようとする一方で、危険を避けるために〈法〉に従いもする」(ラカン)
象徴界の〈法〉には、現実界の享楽から主体を防衛する役割があります。
《もの》の体験 原初的な満足体験 最初の授乳体験
反復行為は原初的満足を百パーセント取り戻すことはできない
最初の授乳のような《もの》の体験は、快とも不快とも言えない、生の安全保障とも死の危険ともつかない、わけのわからない(がなにか凄い)ものでしかありません。だからこそそれは快原理を超えた体験になるのです。
《もの》は失われて初めて《もの》になる
享楽もつねに《失われたもの》としてしか発見されません。
禁止から不可能へ──エディプス・コンプレクスと享楽
「〈母〉が完璧な存在であれば、自分にまた享楽を与えてくれる」
「想像的父が享楽を禁止した」
剥奪の契機にいる子供は、享楽は「不可能なもの」ではなく「禁止されたもの」にすぎない
子供は〈父〉の禁止の向こう側に享楽の可能性を確保しておく
〈父〉は「享楽の不可能性を教えてくれる存在」
享楽の禁止から不可能への移行
禁を破ればよいというものではない
多くの人は「禁止を破れば享楽を得ることができる」と思い込んでいる
享楽は全く取り返せないのか
日常生活の中の現実的なもの
〈プチ死の欲動の満足〉 現実的なものの断片との出会い
《もの》から対象aへ
「断片的な形で現れる現実的なもの」=対象a
対象aという用語は象徴界と現実界の同盟関係を語るために用いられます。
欲望は《もの》を目指す
対象aが「欲望の原因となる対象」を指す
対象aの概念は一部ファルスと重なるところがあります。しかしファルスはあくまで「欲望のシニフィアン」という象徴的なものであり、象徴界の範囲内で欲望を考えるために用いられていました。それに対して対象aは現実界との関係で欲望を考えるために用いられます。
ラカンは主体が対象aと結びついて出来上がるものをファンタスム(幻想)と呼び、ファンタスムこそが主体の欲望を根底的に規定する公式になると主張しました。
ある対象の性質(例えばそれが魅力的であるとか)それ自体が欲望を惹きつけるのではなく、対象がファンタスムの中で欲望の対象の場所に位置づけられることで、初めて主体はその対象を欲望するようになるのです。そしてファンタスムが選ぶいろいろな(見せかけの)対象を裏で規定している、究極的な欲望の対象が対象aです。
「欲望とは《もの》の享楽を取り戻すことの欲望だ」(ラカン)
欲望の目標は欲動の満足である
ファルスというシニフィアンが指し示していた「欲望の究極的対象としての欠如」の背後には《もの》の喪失という事実があると考えられるようになるのです。
欲望は《もの》から逸れてしまうこともある
欲望は騙されることがある
人は自分の欲望と本当に向き合っていないので、欲望の偽の対象に騙される
「《もの》を求める欲望に関して譲歩してはならない」(ラカン)
➡表面的な満足で欲望を誤魔化してはならない、欲望が根本的なところで《もの》を求めているという事実から逃げてはならない
欲望の真の対象、それは欲望の〈法〉の根幹にある《もの》と繋がるような対象。それこそが対象aです。
ファンタスムのの機能①──欲望の指標
欲望が象徴界の中で機能しながら、同時に《もの》という現実的なものを目指すためには、象徴界と現実界の間に何らかの結びつきが成立していることが必要です。この結びつきを与え、《もの》を欲望の対象として把握することを可能にするのが対象aです。
象徴界の中に生きる主体が対象aを見出し、現実界との(間接的な)結びつきを得ることを通じて、ファンタスムが成立します。このファンタスムの枠組みの中で欲望は《もの》を目指すのです。
ラカンは対象aを「主体が《他者》の世界に参入した際に象徴化されきらなかった残余」と定義しています。
ファンタスムの機能②──享楽の規定
対象aによって主体と《もの》の間にある種の結びつきができたことで、一定の享楽が得られるようになるということです。 その汲み取り方の形式を決めるものがファンタスムなのです。
ファンタスムは、①未来への期待(《もの》の再発見の欲望)を生み出すとともに、②現在の満足(対象aの享楽)をも生み出します。ファンタスムは欲望と欲動の両者に関わり、両者を共に成り立たせる機能を持っています。そしてファンタスムの中で機能する対象aは、いわば欲望と欲動の結節点です。
人性の指標としてのファンタスム①──いかに享楽するか
ファンタスムは私たちがどう生きていくかの指標となる
「いかに気持ちよくなるか」
享楽こそが人生の意味の支えになるのです。
人性の指標としてのファンタスム②──いかに〈余白〉を持つか
享楽は両義的であって、人生を破壊する危険なものでもある。享楽が破壊的になりすぎないためには、つねに〈余裕〉がなければなりません。それは「まだ最高の〈気持ちよさ〉には至っていない」という余地のことです。そうした空白部分があるからこそ、私たちは〈他のもの〉を求め、いろいろな新しいことにチャレンジできるのです。
もっとも強大なファンタスムは宗教でしょう。
ファンタスムは万能ではない
つまり人が生きるための指標は、本来幻想でしかない
ファンタスムは構築された見せかけのものに過ぎないので、それは解体することもできます。このことは精神分析の臨床において大きな可能性となります。
精神分析では、それぞれの分析主体が自らの隠れたファンタスムを露呈させ、新たなファンタスムを構築しなおすことが促されます。これをファンタスムの横断と言います。
ファンタスムを横断するということは、自分の生き方を根底から変えることを意味します。
理想から脱却すること
ファンタスムの横断…それは対象aと〈理想〉の癒着を引き剥がすことです。
「そうした〈理想〉を見出すことで、自分が本当は何を求めていたか」
自我理想から離れる
まとめ
「本章ではまず、現実界の導入によってラカン理論の対立軸が〈想像界vs.象徴界〉から〈見せかけ(サンブラン)(象徴界+想像界)vs.現実界〉に変わったことを確認しました。次に享楽という死の欲動の満足を紹介した後、その起源となる《もの》の体験、およびこの体験の中での《もの》の喪失について解説しました。
後半以降は、《もの》の享楽を一部取り戻す対象aの享楽について語り、対象aを軸とした現実界と象徴界(および想像界)のつながりとしてのファンタスムの姿を明らかにしました。そしてファンタスムの横断により、〈理想〉に覆われていない、欲望の対象としての対象aを露わにし、新たな〈生き方〉を見出していくことが精神分析の目標であるという結論に至りました。
ファンタスムを横断したところで、《もの》が取り戻せるとか、不可能なものがなくなるわけではありません絶対的に不可能なものは、最後まで不可能なままです。あくまで変わるのは、いかにして不可能と付き合っていくかという姿勢(スタンス)です。
だから重要なのは、不可能なものがあるということを認めること、しかし性急にそれを求めようとせず、うまい付き合い方を見出していくことです。
それは一朝一夕ではできないことでしょう。それゆえ時に人は焦燥に駆られ、不可能なものに賭けて自滅の道を辿ってしまいます。しかし、不可能なものの否認が幸せをもたらすことはまずありません。
結局、私たちは一歩一歩進んでいくしかないのでしょう。精神分析も、いたずらに早期の治療をもたらそうとする精神療法とは違い、気の遠くなるような期間、地味な自由連想を続けていきます。それは、人生そのものの歩みと一緒です。
***
人生の終わりは死という形でやってきます。それでは、精神分析の終わりは、いかにしてやってくるのでしょうか。換言すれば、ファンタスムの横断の果てに、私たちが辿り着く場所はどこなのでしょうか」
アンコール4 神経症・精神病・倒錯
ここまでの議論はじつはみな神経症者にのみあてはまるものでしかありません。
神経症者、精神病者、倒錯者は、それぞれ異なった「生き方」の構造を持っている
人生の構造を規定している根本的なファクター(要因)
神経症者は「〈父〉がいる」ことに苦しみ、
精神病者は「〈父〉が何かわからない」ことに苦しみ、
倒錯者は「〈父〉が馬鹿にしか思えない」ことに苦しむ
精神病的な苦しみは《父の名》が機能しないことで生まれる
精神病を特徴づけるのは《父の名》の排除
精神病:スキゾフレニーとパラノイア
精神病者の世界はつねに、あらゆる〈法〉が崩壊し、無秩序に陥ってしまう危険を孕んでいる
精神病者は反復の不在に苦しんでいる
精神病者にとって、《もの》や享楽は〈法〉の向こう側にある失われた「憧れ」ではなく、つねに自分の近くにある恐ろしい何かであり、世界は享楽という無定形の危険に満ちている
スキゾフレニー:危険な《もの》に圧倒され、無秩序の中で自分を失ってしまう状態
➡自分で世界の〈法〉を作り出し、維持しなければならない
➡結果できあがるのが「妄想」
パラノイア:強固で一貫した妄想体系を構築している精神病者
精神病者の「妄想」は、神経症者のエディプス神話(およびそれに基づくファンタスム)と相容れないため、共有不可能➡「異様」で「病的」なものに映る。
分析家の役割は、決して妄想を消失させることではなく、精神病者の妄想を持続可能なものにすること
精神病者の妄想は想像的なもので脆い。《他者》による補助が必要になる
分析家は精神病の分析主体に対し、自身の妄想体験を言語化することによって再構成するよう求め、妄想にシニフィアン的な支えを与えたり、《他者》の代表者としてそれを補強したりする
倒錯について(この場合の「倒錯者」とは性的倒錯者のこと)
倒錯者は〈父〉の存在を知ってはいますが、〈父〉という権威やその機能を認めてはいません。
倒錯者は基本的に分析や分析家を馬鹿にしているため、滅多に分析の場に現れません。だからよく分かっていないのです。
構造的には倒錯者でなくとも、倒錯的な享楽自体は誰にでも存在している
一般化された倒錯(コレット・ソレールの用語)
かつては「神経症者はあくまでファンタスムの中で倒錯的な享楽に憧れるに過ぎないのに対して、倒錯者はそれを実現する」と区別を設けておけばよかったかもしれませんが、現代社会ではそこまで享楽が禁止されているわけではない(むしろ資本主義システムと合致する対象aの享楽を強制されている)ので、この区別も曖昧になります。
終章 すべてうまくはいかなくても──分析の終結について
精神分析が目指すのは、患者の〈生き方〉を根本的に変えること
無意識の探求の末、主体がたどり着く終点はどこにあるか
自分自身で終点を見つける 特異性
分析の終結は特異的な判断によってもたらされるものなのです。
《他者》の世界に産み落とされること
なぜそこまで特異性が重要なのか
もろもろの苦しみは結局、人がみな《他者》の世界の中で生きなければならないということに起因します。 主体の苦しみは《他者》の世界の構造に起因しているのです。
「《他者》に裏切られた!」
〈至福〉に関して《他者》は無力なのです。 残念ながら、《他者》の無力について、《他者》が責任を取ることはできません。救いを与えられる誰かはいないのです。
こうした行き詰まりから抜け出すために、道は一つしかありません。それは《他者》の中の〈至福〉に依拠しないような自分固有の「幸せ」を見つけ出すことです。
そう、それこそ「特異性」という言葉が表わすものです。
ここでの「幸せ」は、幸せがないことをそのまま肯定するような〈生き方〉を指します。
《他者》の世界で認められた幸せを掴んだところで、それはつねに〈至福〉には至らない
〈至福〉の迷宮からの脱出を語ることは、直接的に分析の終結にまつわる問題
《他者》の承認に依存しない〈特異な幸福〉とは
〈理想〉から特異性へ
〈理想〉とは別の場所で「幸福」を見出すこと
〈理想〉は結局《他者》の世界のもの
〈特異な幸福〉は《他者》が何を言おうと関係のないもの
すべてはうまくいかなくても、
それでも、
新しい日々に踏み出したい
人のために
精神分析はあります。
ラカンはフロイトを読み替えて、彼自身の物語を構築した。ある意味でこれは彼の「倒錯」である。フロイトを「父の名」としたラカンは、父を馬鹿にはしていないが、「父って下手くそだなあ」ぐらいは思っていたのではないか。
気付きとしては、「主体の形成」の通過儀礼であるエディプス・コンプレクスの進む道を把握できたこと。主体が進む二つのルートについて、なるほどと感慨深く思うとともに、様々な疑問や空想が浮かぶ。これって本当に「男」と「女」に分類される(多分されない)?男系思想の分類では?(ラカンはそうした批判も受けている)
そしてこの元型(急にユング)を背景にもっている様々なストーリーが世の中にはあり、この元型が世界を操作・支配・ドライブしているイメージが湧く。この二つの道をテーマにした小説を意識的に描いてみるのもありだと思うのだ。
我が本棚に鎮座している向井雅明『ラカン入門』(旧タイトル『ラカン対ラカン』)が呼んでいる。「おーい、いつになったらちゃんと読むんだよ!」
ここから先は
よろしければサポートお願いいたします!更に質の高い内容をアップできるよう書籍購入費などに使わせていただきます。精進いたします!
