被爆者のおばあちゃんの話①~ヒロシマのあの日~
この記事では私のおばあちゃんの被爆体験について書いてみます。先に了承しておいてほしいのが、もう80年前の話なので、おばあちゃんも正確な記憶がない部分があって、間違ってるところもあるかもしれません。それでもおばちゃんの話してくれた言葉を大切にして、話してくれたそのままをお届けします。
読むのがつらくなっちゃったり、痛くなったら、読むの一旦やめてもいいし、ご自身のペースに任せます👍
おはようございます、こんにちは、こんばんは、ごゆっくりどうぞ~
被爆前の生活

被爆前、おばあちゃんは矢賀のちょっと山の方で暮らしていたそう。父、母、弟とおばあちゃんの4人暮らし。幸い、当時の食糧難の時代にも関わらず、安芸中野の畑と舟越の米農家のおばあちゃんのおかげでごはんに困ることはそんなになかった。ひもじい思いをしなくてすんだのは本当に恵まれていたと語ってくれた。小学校にあがる時、どういう理由でかはわからないが矢賀の近い小学校ではなく、府中の遠い小学校に親に入れられたそう。矢賀から府中まで歩くだけで結構距離があるので大変だったのを覚えているそう。
このころの日本の戦況は負け模様。報道ではずっと「勝ってるぞ!!」と言われていたが、小学校のみぎりでも日本が負けていることはなんとなくわかっていた。
「そもそも真珠湾で勝ったぞ!!って言うとったけど、そりゃ当り前じゃいね。不意打ちなんじゃから。日本が悪いよ。」と言っていました。沖縄が陥落した時点で広島もなんか来るかもしれない、防空壕に入るたびに早く戦争やめてくれと思っていたそう。
そんなおばあちゃんが10歳、小5のとき。1945年8月6日午前8時15分17秒。あの瞬間が襲い掛かってきた。
被爆直後

8月6日(夏休み前で小学校は1学期)ももちろん、いつも通り矢賀から府中の小学校に向かっていました。芸備線に沿ってキリンビールの工場あたりを歩いていたそう。ちなみにちょうど今のイオンモールあたりらしいです、詳しくは地図参照。
急に目の前がピカっと光って、すぐに爆風がものすっごい勢いで吹き付けた。おばあちゃん曰く、ピカっというのが怖かったという被爆者さんはたくさんいらっしゃると思うが、自分の体感的にはそのあとに吹き付ける爆風の方が怖かったそう。ガチャガチャガチャとすごい音を立ててガラスやら何かの破片やらがいっぱい飛んできた音が怖かったらしい。
幸い、けがも火傷も何もしなかった。爆風が落ち着いてやっと起き上がった時、(これは広島駅に爆弾が落ちたんだ…)と直感的に思ったおばあちゃんは矢賀の自宅に帰らず、府中のおばあちゃんちに避難。この日以降、矢賀の自宅に戻っていないため、今でも自宅がどうなっていたのかは知らないらしい。(なお、全壊という旨だけ、後日聞いたとのこと)
道中、女学生たちがボロボロになって歩いてくるところ。見るに堪えなかった。府中の土手の死体の山。自分は目をそらしたけど、家族や知人が話したり噂するところから想像し恐怖。
府中のおばあちゃんちに着くと、後から家族も集まってきた。自分は無傷だったけど、母と弟はガラスが痛々しく突き刺さっていた。父に関してはJTB支店長で駅(広島駅?矢賀駅?わからない…)に向かって歩いていた時に被爆。ちょうど体の真半分に大火傷を負って帰ってきた。
やってあげられる手当も薬もない中、赤本をめくった。ちょうどハンカチを半分に折ったくらいのサイズ感の本。おばあちゃん曰く、一家に一冊あったらしい。
(正式名称は「家庭における実際的看護の秘訣」。当時の本はほとんどないけど、現代語訳版なら楽天で買えます。)
(ちなみにこの築田多吉さんという著者について。残念ながら有力な文献がWikiぐらいしかなかったので、不正確な可能性があるが…日露戦争での看護特務大尉の経験を活かし、広島にて民間療法の中で実践的に有効だったものをこの本にまとめたそう。)
(興味あればこちらも参考までに。)
パラパラめくると、「塩水につけて絞ったタオルで火傷した箇所をふく」という旨が書いてあった。薬も病院もないので、この一文に頼って吹き続けたそう。どんなに痛いか、どんなに染みることか。想像したくもないね…
でもこの甲斐あってか、父の顔や体の皮膚は被爆前のように元通りに戻ったそう。おばあちゃんは「ケロイドとか痛々しい傷が残った人もいっぱいおるじゃろう。じゃから、こうやったらええんよ、治るんよって伝えてあげたかったねぇ…」って遠くを見ながら教えてくれた。
終わりに + 予告
いかがでしたでしょうか。個人的にはこの記事を書きながら、ようやくおばあちゃんが話してくれた内容が自分の中に落とし込め始めている気がします。
この記事では時系列順に整頓して記載していますが、おばあちゃんが話してくれた順番は結構バラバラだったので、整理するのがちょびっと大変…それでも勇気を出して今回こうして初めて当時の話をしてくれたおばあちゃんには感謝しかないし、これを今聞くことができて大変恵まれていると思います。
次の記事では、被爆後の生活や今に至るまでのストーリー、今の暮らしなどをシェアできたらと思っています。皆さんの発見や知るきっかけにつながっていれば幸いです。
それではまた!
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