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被爆者のおばあちゃんの話②~ヒロシマのあの日~


 前回の記事の続きです。これを読んでからこの記事を読んでくれると理解深まります。
 この記事では私のおばあちゃんの被爆体験について書いてみます。先に了承しておいてほしいのが、もう80年前の話なので、おばあちゃんも正確な記憶がない部分があって、間違ってるところもあるかもしれません。それでもおばちゃんの話してくれた言葉を大切にして、話してくれたそのままをお届けします。
 読むのがつらくなっちゃったり、痛くなったら、読むの一旦やめてもいいし、ご自身のペースに任せます👍

 おはようございます、こんにちは、こんばんは、ごゆっくりどうぞ~



被爆後の生活①

 8月6日のあとの記憶はあんまり残っていないとのこと。でも府中の家から、さらに安芸中野のおばあちゃんち(父方か母方かわかんない…)に移って、そっちの小学校に転校し、2学期(9月~)を始めたそう。
 このころ、昭和の三大台風、枕崎台風が襲い掛かった。何日も続くような台風ではなく、割とすぐ過ぎ去ったけど、あの風の音から爆風が思い出されてとても怖かったらしい。爆風からは大丈夫だった家も、建て直しかけていた家も、山陽本線も全部川に流されていった。80年経った今でも人生で一番ひどい台風だったらしい。
 「原爆、台風も…なんでこんなにも悪いことが立て続けに起こるんじゃろう…」と苛まれていたそう。

 ちなみに、府中と安芸中野の違いでよく覚えているのは、つくしとよもぎだそう。
 「府中はね、なんでも人差し指くらいしか(サイズが)ないわけ。でもね、安芸中野はこーんなに大きい(15~20cmくらい)のが何本もよう育っとったねぇ」
 田舎だから誰も採る人はいなかったそうだが、おばあちゃんはつくしのはかまを除いて炒めて食べていたらしい。それでもお腹がすくときは、へびいちごとかを山に採りに行っておやつ代わりに。へびいちごは田植え頃によく生えてたらしい。(このころは安芸中野のおばあちゃんちに住まわせてもらっていたので、おばあちゃんは料理担当で食料が少ないから、いつも似たようなおかずを作っていたみたい。)(ちなみにこの後、どのタイミングでかはわからないけど、舟越に引っ越したらしい。)
 男の子とかは蜂の巣なんかをいぶして蜂を追い出して蜂蜜を食べていた子も。おばあちゃんは勇気ないからやらなかったらしいけど笑。
 こんな風にごはんに困ることは少なかったおばあちゃん。それでもたまーに知らない人が家にやってきて「白いご飯を分けてくれんか?」と尋ねたそう。白いご飯とちょっとのおかず(つくしとか残り物とかを満足ではない分量だけ)を分けてあげたそう。田舎だから比較的食料にも余裕があったらしい。


被爆後の生活~番外編~

 おばあちゃんはひもじい生活をしてなかったけど、もう今は亡き被爆者のおじいちゃんはちょびっとひもじかったそう。
 おじいちゃんは当時、舟越に住んでたけど、温品の馬木の寺に疎開していたそう(おじいちゃんは多分入市被爆者…?)。
 食料には本当に困ったようで、鉄道草(線路のとこに生える草)を集めて団子にして食べたりしたらしい。(えばだんごとも言う…?)
(「この世界の片隅に」にも出てるみたい。参考までに。)


 私におじいちゃんは一回も原爆の記憶を語ってくれることはなかった。でもひもじい思いをしたし、ひもじくてしんでいった人のことをずっと考えてしまうんだろう。一回もご飯を残しているのは見たことがない。どんなにお腹いっぱいでも絶対に全部食べきる。
 そんなおじいちゃんが一回だけ、ちょっと話してくれた時があって、その時の私の記憶が正しければ…
 おじいちゃんは被爆当時(もしくは戦争中)、友達か兄弟と一緒に山やら道端やらの食べられる雑草を集めてきて一か所にまとめて、みんなで「頂きます」を告げた瞬間からみんなでその食料を取り合って食べたらしい。この方法だと自分が集めてきた量より多く食べられることも、少なくなってしまうこともある。それでも誰も文句は言わない。なぜならそれが「戦争がまねいた食の形」だから。


終わりに + 予告

 いかがでしたでしょうか。今回の記事は結構食にフォーカスしたものになりましたが、それだけ人間は食べないと生きていけないと教えてくれる被爆者の声だな…と思いました。味気ない、栄養もない、彩りもないご飯を作る人の気持ち。それを食べさせるしかない人の気持ち。必要なご飯は全部自分で調達するしかない人の気持ち。「戦争がまねいた食の形」・「戦争がまねいた食卓」は痛々しいですね…もう誰にもこんな思いしてほしくない。
 次回は小学校を卒業してから今に至るまでの生活をお届けします。

 それではまた!


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20歳、核軍縮はじめました 20歳にコーヒー缶1本おごってください(^ω^)