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与えることに囚われていた頃の私へ──アンパンマンからルフィへ

「与えること」を神格化していた時期が長い。それを絶対善としていたし、与えられないことへの不満すらあった。

今は「現象に関わることで、何かしらの変容を興したい。火がついたら、嬉しい」みたいな感覚がある。

その軌跡を振り返りながら、アンパンマンとルフィをメタファーに、ゆらぎを記してみる。



はじめにー「与えることは美しい」そう信じていた

「与えよ、さらば与えられん」
「自分が我慢すれば、誰かが救われる」
「自己犠牲こそ、美しい」

そんな言葉を、私は疑いもなく信じていた。
むしろ、心からそれを美しいことだと思っていた。
誰かのために、自分を削る。気づいてもらえなくても、それでもいい。
それが「与える人」だと。それが、私の強さだと。

誰かの役に立てることが、私の自己肯定感の源だった。困っている人をみつけ、その困りごとを解決すること。そして、「ありがとう」といわれること。それこそが生きがいだ!そう信じていたんだろう。それが叶えば、自分は必要とされていると感じられた。引っ込み思案で、自分の欲を表に出すのが怖かった私は、「与えること」でしか、自分を肯定できなかったのかもしれない。

今ふり返れば、それは優しさの皮をかぶった、自己肯定のための戦略だった。誰かのために見えて、それは自分のためだったんだろう。
でも当時の私は、それにどっぷりと浸かっていた。
与えることこそ、正義だと。疑うことすら、していなかった。


2. 他者依存のギバー精神

与えることが善だと信じていた私は、その実、他者の反応に心を支配されていた。

「ありがとう」と言ってもらえるか。「助かった」と喜んでもらえるか。「ねぇねぇ、どうだった?」と直接訊かないまでも、反応を欲していた。
それが、自分の価値の測り方になっていた。

あのときの私は、与えていたのではなく、与えることで評価されようとしていたのだと思う。つまり、「見返りを求めない」と言いながら、心の奥では「見返りを期待していた」。「求められている自分」に酔っていた。

たとえば、何かしてあげた相手から連絡が来ないとき、お礼すらないとき、「なぜ?」と苛立ち、悲しくなっていた。相手からしたら、「そんなんしらん」であるが、当時の私は勝手に凹んでいた。「役に立てなかったんだ」と。

今でも覚えているが、研修講師をほぼ毎日していたころ、受講者はすでに理解していたにも関わらず、反応が鈍かったためか、言葉を重ねた。「これでもか、これでもか、これでも、反応しないのか!」と。
返ってきた反応は「理解したんで、次行ってください」だった。

今ならわかる。あれは愛ではなく、依存だったと。


成人発達理論で言えば、あの頃の私は「第3段階:他者依存型」にいた。特徴を以下に挙げる。

◎意味づけの構造

  • 自分のアイデンティティが、他者の期待・価値観・所属集団の規範に大きく依存している。

  • 親、会社、上司、文化、宗教など「自分の外」にあるものを“内面化”して自己を形成。

◎具体的な行動傾向

  • 「いい人でありたい」「組織の期待に応えたい」と思い、協調的・従順・忠実にふるまう。

  • 自分の価値観というより、「周囲がどう思うか?」が判断基準。

  • フィードバックに強く反応し、承認されないと不安定になりがち。

  • 上司やパートナーなど「大切な他者」との関係性の中で自己を定義。

◎強み

  • 組織やチームの規範に従い、安定的な行動ができる。

  • 他者への共感や協力が得意。

  • 集団の秩序や関係性を重視するため、組織にとっては“都合がいい”存在。

◎限界

  • 他者の期待に応え続けることが疲弊につながる。

  • 対立する価値観に挟まれると混乱しやすい(例:会社と家庭、上司と部下)。

  • 自分の内面から湧き出る問い(「私は何者か?」「本当にやりたいことは?」)には答えられない。


改めて特徴を読んでみると、当時の私は教科書通り、どっぷり浸かっていた。他者の期待に応えることを絶対善とし、自分を他者の視線でつくり上げ、評価されることによってしか、自分の存在を感じられなかった。

一般的に「ギバー」という言葉は、世の中では“良い人”の代名詞のように扱われている。与える人。優しい人。利他的な人。だからこそ、その生き方を疑うことができなかったのだと思う。むしろ「与えない人」になることの方が、怖かった。

けれど今思えば、それは他者に認められたいという渇望を、“良い人”という仮面で覆っていたにすぎなかったのかもしれない。


アドラーでいう「課題の分離」も当時の私はできていなかった。誰かの課題も私の課題。それを解決すれば、きっとその人は喜んでくれる!!
今考えれば、余計なお世話でしかない。

誰かが救われるかどうかは、その人の課題。私は、それを自分の課題として背負いこみ、「なんとかしてあげなきゃ」と肩に力を入れていた。
頼まれてもいないのに、勝手に一緒に悩んでいた。

一部の人からは「親身になって話を聴いてくれてありがとう」といわれたが、まぁ、そういうしかないのだろう。だって、そうでもいわないと、離れないんだから。


3. ギバーの歪み:目的化された“与える”の危うさ

当時の私は、自分を「ギバー」だと思っていた。誰かのために動く自分。損を引き受ける自分。“良い人”であることを誇りにもしていた。

でもあるとき気づいてしまった。

「あれ、自分が“ギブ”してるのって、ギブのためのギブなのか?」
「本当に他者のためにギブしているのか?」

信頼されたい。
好かれたい。
嫌われたくない。
輪から外されたくない。

そんな感情を埋めるために、私は“与えていた”。

ギバーといえば、アダム・グラントの分類がある。
ギバー、テイカー、マッチャー。

私はずっと、ギバーが最も「徳の高い」存在だと思っていた。しかし、成果が低い、評価されない人の特徴の一つもギバーなのだ。「評価は後からついてくる」と思っていたものの、ギバーを装ったテイカーになっていた。

見返りなんて求めてない——そう思っていたはずなのに、相手が応じてくれないとき、心の奥で「損した」と感じてしまう。これは、“与えること”が目的ではなく、手段になっていた証拠だった。

「応じてくれることを目的にギブする」と、与える行為は一気にいびつになる。それは与えているのではなく、“獲りにいっている”のだ。

反応を一切気にしないわけにもいかないが、一つのリアクションに過ぎないわけで、フィードバック情報の一つでしかない。にも拘わらず、そこに依存していた。


4. 自己主導への変化(成人発達理論・第4段階)

「なんのために与えてるんだっけ?」
ふと、そう思った瞬間があった。

それまで私は、「与える自分」にアイデンティティのすべてを預けていた。
でも、そこに他者の評価がなかったら、自分は何者なんだろう?
そんな問いが、じわじわと心に侵入してきた。

そしてようやく、自分の内側を見つめるようになった。
「で、私は何がやりたいんだっけ?」と。他者の目、他者の評価を抜きにして、自分がやりたいことが何かを答えることに戸惑っていた。他者の期待に応えることがやりたいことだと錯覚していたからだ。

その問いに正直に向き合っていく中で、少しずつ「与える」という行為の主語が、他者から自分へと移っていった。

それまでは、「誰かが困ってるなら、助けなきゃ」と無条件に動いていた。
でも今は、「私はそれをしたいかどうか」で判断するようになった。
それは冷たさではなく、主体性だった。

成人発達理論でいえば、第4段階。
今それができているかどうかはまだまだ自覚できないが、「他者評価を気にしすぎている自分」を自覚できるようにはなっている。つまり、自分でブレーキは踏めている。ようやく私は、自分の価値観や信念で、自分自身を運転し始めたといえるのだろう。

そして不思議なことに、他者の反応へのこだわりを手放したことで、「ありがとう」と言われることに、以前より素直に嬉しさを感じられるようになった。「あー、伝わったんだぁ」と。


5. アンパンマンからルフィへ:ギバー像のアップデート

かつての私は、アンパンマンのようだったと思う。
困っている人がいれば、顔をちぎってでも差し出す。顔が濡れて力が出なくなったら、きっと誰かが気づいて、自分をなぐさめてくれるだろう・・・と。
それが“正しい”と思っていたし、それができる自分を誇ってもいた。

「自分がすり減ることで、誰かが満たされるならそれでいい」
そう本気で思っていた。でも気づけば、自分の顔がなくなっても、誰も助けてくれなかった

人はたいして他者に興味がない。自分に興味がある。
これが一つの真理なんだろう。


そんなときにふと、「ONE PIECE」の作者・尾田栄一郎さんのことを思い出した。

ONE PIECE 64巻(SBS)

尾田っちの正義を教えてください。
に対する回答が「アンパンマン大好き」

この発言の意図は、こちらの通りだそうです。

やなせ:ぼくは先の戦争に兵隊として参加していて「これは正義の戦いだ」と言って送り出されたんですが、敗戦を迎えると一転、今度はぼくらが悪者になってしまったんですね。
その時に「国が唱える正義っていうのは、信じがたい」と感じさせられて。
ケンカに勝った方が正義だから、どちらが本当に正しいのかは判断できない。
そこで、揺るぎのない正義があるならどんなものだろうと考えたら「飢えている人を助ける」ことなんじゃないかと思い至ったんです。
戦争中、何が一番辛かったかと言えば食べるものがないことだったし、飢えた人を助けるのが正しいのはどこでも逆転しない。

尾田栄一郎画集 COLOR WARK 4 EAGLE

ルフィが作中でも語っている理想の社会は、「腹いっぱいメシ食える国」

1049話

ルフィに目を移そう。

彼は、「自分を犠牲にしてまで他者を助ける」タイプではない。
むしろ、自分の意志にまっすぐで、それに共鳴する人たちが“自らの足で立つこと”を手助けする存在だ。

与えるんじゃない。奪い返すんでもない。相手を勇気づけ、奮い立たせつつ、「共に在る」ことによって、食べられるような世界をつくっていく。
ルフィは、場をつくる人。信じて見守る人。力を貸す人。誰かのヒーローになるのではなく、世界を変えようと戦っている。

尾田先生が生み出した、ルフィからインスパイアを受けて、

今の時代に必要なのは、「顔をちぎるヒーロー」ではなく、
「共に食べられる場をつくる仲間」なのではないか、と。

もちろん現実には、敵を倒す必要なんてない。
でも、構造の中にある“独善”や“格差”は、無自覚なアンパンマン型ギバーが増えることで、かえって固定化されてしまうことだってある。

その日暮らしのご飯を上げたところで、今月の食費の足しになる給付金をもらったところで、社会が豊かにならなければ、何の解決にもならない。

それなら私は、ルフィのようにありたい。

誰かに何かを与える前に、「一緒に生きていける世界を、どうつくるか?」を問いながら動ける人でいたい。


6. いまの私:自己と世界をつなぐギバーとして

いまの私は、もう「与えなきゃ」とは思っていない。
誰かを救おうとも、導こうとも、思わなくなった。むしろ、自分のあり方を整えること、自分を誠実に扱うことに意識を向けている。それは自分勝手とは違う。

結果として、それが誰かにとって何かになるなら、それはそれで“ラッキー”。副産物として、誰かが笑顔になってくれたら、それは嬉しい。
でも、それが起きなくても、私は私で在り続ける。


「犠牲なき献身こそ真の奉仕」

ナイチンゲール

自己犠牲を強いる奉仕ではなく、持続可能な奉仕こそが真の価値を持つ、とナイチンゲールは語った。本当にその通りだと今は思える。


与えることに、もう重たい意味はのせない。
その行為が届いたとしても、届かなかったとしても、そこに何かを期待することは、もうやめた。

このnote自体、誰かに何かを届けるために書いているのではない。私が私であるために書き続けているものだ。でも、誰かに何かが届いたら、それはそれでとっても嬉しい。

「与えること」は、かつては私の“しがみつき”だったけれど、いまではただの“ふるまい”になった。
意図しないところで、勝手に誰かに届いているかもしれない。
届かないかもしれない。どちらでも、いい。

私は、私のままで。私を変えることで、何かが変わっていくとしたら、それはバタフライエフェクトのように、知らないところで起きた、小さな変化なのだと思う。


愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気が付けばそこにある物

Mr.Children「名もなき詩」

色々振り返ってみて、この感覚がようやくわかってきたということかもしれない。
はは、桜井さん、やっぱすげぇや。



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frank(furuya koji) 読んでいただきありがとうございます。 noteで出会えた奇跡に感謝します✨ サポートいただけましたら、大人の自由研究に使います。