見出し画像

どこの山本

高校時代からの友人が結婚した。動悸が激しい。混乱している。自他ともに結婚しないと思っていた女が突然結婚した。結婚相手は「山本」という男らしい。

その日は湯船に浸かりながら何を見るでもなくスマートフォンを眺めていた。そろそろ上がろうかと考えていた所へその知らせは稲妻のように落ちた。「山本になります」「スタンダードな苗字からスタンダードな苗字へ変わるよ」わたしは光の速さで返事を打ち込み気付けば送信していた。

「どこの山本!?!?!?!?!?」

改めてやりとりを読み返すと、わたしはひどく動揺しながらもなけなしの余裕を絞り出して感嘆符と疑問符を十個も連ねていた。

すでに充分温まっていた体をもう一度湯船に沈めた。山本、やまもと。馴染みのない漢字の並びと彼女の顔を交互に思い浮かべる。額から流れた汗が鼻先を伝わり、ぼたぼたと落ちた。返信が来るまでの数分間、死の間際でもないのに彼女と一緒に過ごした情景が走馬灯のように駆け巡った。散々使い古された表現ながら、走馬灯が一体何なのか知らなかったのでこの機会に調べた。ウィキペディアによると走馬灯とは「内外二十の枠を持ち、影絵が回転しながら写るように細工された灯籠の一種」らしい。画像を検索すると、お盆の時期に祖父母の家の仏間でよく見た灯籠の姿がそこにあったので「なんだおまえだったのか」と思った。夏の季語でもあるらしい。わたしは彼女と知り合った、もっと正しく言うならば彼女に捕まった日のことを思い出していた。


わたしが在学していた高校は学年十クラスの大所帯だった。顔も名前も知らないまま卒業する同級生が大半だったが、わたしは入学当初から彼女を知っていた。名前こそ知らなかったが見たことがあった。派手だったのだ。小柄な体には少し余る大きめのカーディガン、心配になるほど短いスカート、原則化粧は禁止だったがいつでも綺麗に伸びた真っ黒な睫毛。絵に描いたような「正しい女子高生」だった。ドラマや漫画でしか正しい女子高生を見たことがなかったわたしは彼女を初めて見た時に万博へ行った時のような気持ちになった。万博へ行ったことはないので想像である。「きっと自分の人生とは交わらない人だ」無意識にそう思いながら彼女を視界の端に映していた。

ところがニ年生になりわたしたちは同じクラスになった。皆どこかぎこちない作り笑いを顔に貼り付けて互いを探り合うような、クラス替え直後に漂うあの空気に喉の奥が締まる思いだったことを覚えている。

授業と授業の合間だった。「次の教室ってあっちだよね?一緒に行こー!」そう言って彼女はまるで昔からの友人に話しかけるようにわたしへ近寄りわたしの腕を引いた。捕まったと思った。なんなら捕まってしまったとすら思った。派手なギャルに腕を引かれ、内心「これは大変なことになったぞ」と大汗をかいていたが、わたしはまだクラスのどの派閥にも属していなかったこともあり、ビビりつつそのまま場の空気に身を委ねた。

結果的にわたしたちはすぐに仲良くなった。学校祭を一緒に回るために待っていると「荷物があると邪魔だから」と言って、ハイブランドのモノグラムがびっしり敷き詰められた長財布に真っ青なスズランテープを通して斜めがけにして現れた時は天才だと思った。あんたは最高だと褒めちぎると一体何がそんなに嬉しいのかわからないという顔をした。進学コースに在籍していたにも関わらずわたしたちは信じられないほど勉強をしなかった。勉強しなかった報いなのか呪いなのかはわからないが、彼女は卒業ギリギリまで受験先を求めて渡り鳥のように海を越え、わたしはインフルエンザと胃腸炎と激しい寝違えという不調トライアスロンに見舞われ、二人して卒業式を欠席した。心根が似ていたので今となっては誰よりも古い友人になったのだから人生何が起こるかわからない。


水滴の落ちた画面に返信の通知が赤く光る。コロナ禍を経てしばらく会えていなかったわたしたちは一年半ぶりに会う約束をした。彼女が結婚する山本は南の方に住む山本だということがわかった。

彼女に限らず友人に会うこと自体が一年半ぶりだったので、彼女と約束をしてから実際に会うまでの約ニ週間は少し緊張しながら過ごした。何の心配だよと我ながら思うが、わたしはいくら仲の良い友人でもしばらく会わずにいると少し緊張してしまう。

つまらなくなってしまっていたらどうしよう。「つまらなくなること」が一体どういうことなのか言葉でうまく説明できないくせに、わたしは自分がつまらなくなってしまうことに怯えている。相手のことが大好きだからこそ、おもしろい自分でいられるだろうかと謎の責任感が生まれる。己のおもしろさに愚直すぎて己の首を絞めていることがある。全くおもしろくない。ただ今回の緊張の理由はそれだけではなかった。

彼女が、つまらない女になってしまっていたらどうしよう。彼女が、彼女自身のためだけに大切に育ててきたおもしろさを、結婚によって失ってしまったらどうしよう。わたしは彼女が山本になると知った日から靄のような不安を抱えていた。

結婚によって得られる自由と幸せが確実に存在すると知っている。それと同時に、結婚によって奪われる自由と個性が確実に存在することも知っていた。祖父母、そして両親を見ていて結婚という制度を根っから信用しなくなったわたしにとって、結婚は危機でしかなかった。それでも誰かが結婚する時、まっさらな気持ちで「おめでとう」「良かったね」と心の底から思った。幸せを願う気持ちに一滴の嘘もない。その反面、大切な人であればあるほど「なんで結婚するんだよ」という気持ちが船の錨のように腹の奥底へ深く沈んだ。不遜にもほどがある。黙って幸せを祈っていればそれで良い。それなのにわたしは友人が結婚するたびに、なんで結婚しちゃうんだよと駄々をこねて泣きたくなった。わたしと比べればポッと出のくせに、おまえにあの子の良さが本当にわかるんか?え?なんとか言ってみろと心の中で友人の夫にメンチを切ってしまうのである。

約束の前日、友人から「ミートソース食べられる?」と連絡が来た。「食べられる、大好きだよ」「よかった!明日ミートソース用意しておくから昼はパスタにしよう!」家事や料理が特別好きな印象はなかったのにわたしに手料理を振る舞ってくれるという。その後しばらくわたしは「ミートソース」という言葉を頭に思い浮かべたり、スーパーのレトルトコーナーでミートソースのパウチを見るだけで天を仰ぎ見るおかしな人間になった。

一方的に少し緊張したまま当日を迎え実際にそれが出てきた時はさすがに涙をこらえた。他人が見たらただの「泣くほどミートソースパスタが好きな女」である。おいしいおいしいとパスタを食べながら、わたしは彼女にどうして結婚しようと思ったのと聞いた。すると彼女は笑いながら言った。

「することなくなったから結婚するか〜、それだけ!」

完全に想定外の球種が飛んできてそのまま場外へ消え去った。驚くわたしを気にも留めず「夫婦別姓が許されるなら本当はそうしたいよ」「わたしは地元から出ないし実家のそばから離れる気もないから、転勤する時は一人だよって言ってあるんだ」とまた笑う。あまりにも普通に話すので涙が引っ込んだ。砂粒ほどの甘さの欠片もない。それでも今彼女がとても幸せだということだけは、彼女の笑った顔を見てわかった。

自分のことを聞かれたので今のところ結婚も出産もしないと思うと返す。「いよいよ周りがうるさくなったら頭丸めて出家でもしようかなぁ」と微塵も思っていないことが不意に口をついて出た。わたしはわたしのままで大丈夫なのだと思いながら生きているのに、わたしは髪の長い自分が好きなのに。なぜかわたしは彼女の前で、質も悪ければおもしろくもない自虐をした。言葉が体を離れた瞬間に耳の中で誰かが囁いた。「おまえはつまらない女だ」

けらけら笑っていた彼女がまっすぐにわたしを見て言う。

「世の中のためにあなたが頭丸める必要も出家する必要もないでしょ」

そうでしょ?紙の上をインクが滲むように目蓋の縁が熱を持つのを感じながら、そうだね、と返す。そうだよ、とまた彼女が笑う。あの目の覚めるように真っ青なスズランテープを思う。もうわたしに囁く誰かはいなかった。

帰り際にまだ見ぬ山本( 夫 )( 予定 )へ「幸せにしてくれよお〜」と声に出して念を送ると、彼女は「大丈夫、あたしは自力で幸せを掴み取るから」などと格好良いことを言うので痺れた。そうだ、だからわたしはこの子とずっと一緒にいたのだ。

これからもわたしは友人が結婚するたびにきっと不遜な錨を腹の奥底に沈めるだろう。それならわたしはあなたがふと自分自身に帰りたくなった時、いつでも抱きしめられるように、ずっとここに錨を沈めて船をとどめていよう。妻でも母でもない、そのままのあなたのかわいいところ、強いところ、そしておもしろいところをわたしはたくさん知っている。

あの日彼女がわたしに声をかけた理由をわたしはまだ知らない。今度会えたら、どうしてわたしを捕まえたのか聞いてみたい。


いいなと思ったら応援しよう!