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あらしをかけ抜けて

 あらしをかけ抜けて

              かねつぐ司



 木々の枝葉がざわつき始めた。風がいつもより暴れている。地面に落ちた人の遺した作り物が、それぞれに散らばりだし、転がって坂を降っていった。まるで少しの命でももちあわせているかのように。

 雨が叩きつけていた。旅人は傘の手前を手で強く掴むようにして引き下ろし、少しでも顔へ雨つぶが当たらないように無駄な努力をしている。脚は早めているつもりだ。しかし、歩の速度は思うように上がっていなかった。旅人は猫だった。「キジシロの三座」という名の猫だ。
 三座は急いでいた。仲間へ、そして食べ物を毎日のようにくれる人間のオマチへ急報を知らせたくて、急いでいた。

 三座は昨日まで岬の当番であった。当番には岬の切っ先で海上の平穏を監視するという役目がある。平穏の当番は楽だ。いつもぐうと寝ていて仕事がつとまる。だが昨日の昼過ぎから空も海も様子が変わった。荒れ始めた。三座は考えを駆け巡らせた。この嵐の知らせを村へすぐ知らせるべきか。オマチへもこれを伝えるべきか。やにわ、雨が降り出した。強くなるばかりの雨だ。三座が今まで経験した以上の不安を持った。傘とカッパを身につけて三座は岬を後にした。
 林を抜け、森に入ったところで風雨はさらに増して来た。これ以上強くなるか? と三座は天を一度見た。そしてまたカッパを被りなおす。「見たまま伝えねば、とにかくつたえねば」の三座であった。

 森を抜けるのはかえって楽だった、風雨の勢いは変わらず強いものの、森の樹々の守りで三座はずぶ濡れながらも、はや回りの恩恵にあずかれた。森を出るとすぐに六角溜まりの裏口へと飛び込める。六角溜まりは三座ら猫の楽園ともいえる集落だ。多くの猫の群れがそこで住み暮らしている。裏木戸の様に三本の朽木を横に、閉め門のかたちとしている隙間を駆け抜けた三座であった。

 黒くて今まで見たことのない大きな四隻の外国船だと。村おさの長ヤが蝋燭の前奥で三座の報告に険しい顔をした。
 「三座。おまえとりつかれたのだ。雨、風などこのところ来ておらん。まして昨晩などは良い月夜の晩で、皆で広場で輪になって踊っておったわい」と長ヤ。
 「え!」と三座。おまえ、じぶんの姿をみてみろ、毛並みも乾き艶やかに輝いておる。傘もカッパも傷んでおらんではないか、と長ヤが三座の傍に置かれているそれらを指さした。
 あ、なんと…と、驚いて三座はカッパを撫でまわし、傘を持ち上げた。
 おかしい、確かにすべて元のままだ。三座は顔を長ヤへ向け直した。
 「ともあれ、一大事だ。その外国船を見たものはみなお前と同じ経験をするのさ」と長ヤ。
 あれらの大船は昔からたびたび来ては消えていく。なので岬にこうして見張りを立てているのだ。ワシが村おさの座に就いてから思いなおしてもこたびで三度目だ。ワシが若い衆のころをさかのぼっても五度は現れている。ワシらに関係はない。人間の世界の理だろう、と長ヤ。
 「しかし、その人間にとっては大変じゃないですか。大船らは引き返すそぶりはありませんでしたよ」
 「うむ。食べ物をくれるオマチへはなんとかしてつたえてやらねばならぬのう」
 長ヤは腕ぐみをして黙り込んだ。

 次の日、六角溜まりの門前に、オマチはいつもの様にたらいを抱えて夕刻前に現れた。二十、三十を越える数の猫達がオマチの周りをクルクル回ってはオマチの足に頭を擦り付けたり、くうくうと鳴いたり、と様々な甘え方をして歓迎した。オマチの持つたらいにはオマチの住む村の人々から毎日集めたさまざまな食べ物が入っていて、それをオマチが役目として、こうして六角溜まりへと持って来る。オマチの村、神奈川村はその頃まではただの寒村であったが、何百年も前の昔から猫をこうして大切にしていた。昔の争いのおり、この村が大きないくさに巻き込まれそうになった時、村の猫たちが何日も前から鳴き、騒いだことに、人々は怯えを察して、住人のほとんどが他村に避難をしたのだという。神奈川村自体はいくさで焼けたが、暮らしていた人間だけは他村で生き残った。以来この村では代々こうして、猫を祀る様に大事にして生きて来たのだ。
 オマチはたらいから安物の皿に猫たちのご飯を取り分けて、あちこちへ供した。猫たちがそれぞれ塊になってそれを食べはじめた。一匹の猫が、食事に興味を示さずにオマチの目の前で毛を逆立てた。
 「おや、おまえ三座じゃあないの」と言ってオマチはそれへ手を伸ばそうとしたが、逆だった毛の勢いに気圧されて「どうしたんだい、ご飯食べないのかい」と言った。三座は喉を鳴らして、それが怒りの逆毛ではないことを必死に表した。 
 猫たちは食事を終えるとにゃあにゃあ言いながら思い思いにオマチのもとを離れていった。残ったのは三座だけであった。オマチが不審に思い、三座と対したとき、ドーン、ドーンと聞いたことのない轟音が轟いた。オマチは驚き空を見上げたが、三座はオマチの周りを駆け巡って、最初から伝えたかったのはこれだと言いたげに飛び跳ねた。「ごめん、三座、あたし戻るね」とオマチが振り返って走って村の方へと消えていった。

 三座も踵を返して逆方向へと駆けた。六角溜まりの広場まで。

 漁師で一番若い仁助が村役場へ走り飛び込んで来たのは、オマチと入れ違いだった。
 「お化け船が四隻だ」と、慌てていた。役場で休息をとっていた五、六人に囲まれて、仁助は見て来たことを話した。「真っ直ぐにやって来るつもりだぞ」と仁助。親父らは一度港へ着いてまた海へ出た。「今もまだお化け船を観察している」だった。
 三十分ほどして仁助の次に伝令が役場へ入って来た。浦賀からの早打ち伝令で、届け先は江戸城だという。駅伝えにあと二時間でこれを幕府が知るという。伝令はとにかく腹を満たしたく、「どうせ知られることとなる」、突如出現した武装西洋船のことを役場の衆へ包み隠すことなく語った。それほどに異例の事態だったのである。腹に食べ物を詰め込むと伝令は「川崎宿まで最後の一駆けだ」と言った。
 江戸表の役人、武官たちがこれを御上の場へ伝え切ったのは、神奈川宿の伝令が午後三時に食事を済ませて、そこを経ってのち六時間後の夜半九時頃であったという。急報であった。老中阿部正弘は直ちに幕府閣僚を城に集めて徹夜の協議を行い、緊急行動の全容を決断した。各々の方面の部下、配下へその指示が行き渡り翌日の夕刻には幕府目付、役人、武官が総出で浦賀へ到達した。
 後に『黒船』と称されることとなるその威容を各代表たちは、はっきりと確認した。破裂してしまいそうな「驚愕」を抱きながら。
 然し、果たして黒船側にしてもその緊張感は日本陣営と同様であった。目の前に広大に広がる江戸湾の異様。狭い背後の浦賀水道を日本人達に塞がれてしまえば四隻のお化け船など、すぐに飲み込まれてしまい、それはまさに鯨の胃の中に落ちる様な恐怖に陥るだろうからであった。
 風が海上をふいている。潮香も鼻をつく。人間たちはそれぞれに遭遇の震えに取り巻かれている。みやこどりが飛び交いオウ、オウと鳴いている。

 猫たちはもうただ寝そべって、目の前の出来事を眺めているだけだった。

 あらしをかけ抜けて 了

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