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#いまあなたに伝えたいこと|心のドアストッパー ー 扉が閉まりそうな夜、見つけてくれたあなたへ ー

拝啓

あの日、私を見つけてくれた恩人さんへ。

今年もまた、春がやってきました。
初めて出会った日から、もう十数年が経ちますね。

景色が移り変わっても、心はずっと、あの日の続きを歩いています。
会いたくなるたび、今でも空を見上げています。

どうしても伝えたいことがあって、このnoteを書きました。
物語に託した想いが、どうか届きますように。

敬具 
瑞葉 水琴


 すみません、と声がした。

 私はゆっくりと顔を上げた。

 そこには、女性が立っていた。

 見知らぬ人だった。
 五十代くらいにも見えるのに、
 目の奥には年齢だけでは測れない静けさがあった。

 淡い藍色の羽織を着た人。
 なぜか、その人がいる場だけ空気が少しやわらかく見える。

『この近くで、あったかいものが飲める場所、ある?』
 女性は、そう声をかけてくれた。

 考え事で、いっぱいいっぱいになっていた社会人2年目の私は
 すぐには返事ができなかった。
 質問の意味を頭の中でほどくのに、
 少しだけ時間がかかったから。

 あったかいもの。
 飲める場所。
 この近く。

『……あります』

 やっと出た声は、自分でも驚くほど細かった。

 その人は、ほんの少しだけ微笑んだ。

「……橋を渡って、右に……行くと、あります」
『ありがとう』

 それで終わると思った。
 でも、その人はその場から動かなかった。

『そこまで、一緒に行ってもらえたりする?』
「……どうしてですか」

『今日は、人に教えてもらった方が安心する日やけん』
「……スマホ、あるのに」

『うん。ある。
 でもね、…今日はたぶん、地図より人の方がいい日なんよ。』

 変わった人だな、と思った。

 でも、その“今日は”という言葉が、なぜか少しだけ引っかかった。

 急かさない声だった。
 返事を待つ沈黙まで、やわらかかった。

「……ご案内しますね。」

 私がそう言うと、その人は安心したみたいに笑った。

『うん。ありがとうね』

 私は欄干から手を離した。
 橋から一歩下がる。
 そのことに、自分で少し驚いていた。

 たった一歩なのに、
 ずいぶん遠くから、この世界に戻ってきたみたいだった。

* * *

 ここです、と案内して立ち去ろうとした私に、
「ちょっと一杯飲もう」とその人は誘ってくれた。

 ほんの少し迷った。
 けれどなぜか居心地がよく感じて、このままでいたいとふと思ってしまった自分がいた。

 小さく頷いた私は、古びたカフェの扉を開ける。

 木のテーブルと、やわらかい照明。
 窓際の席からは、少し遠くに観覧車が見えた。
 白っぽい午後の空の向こうで、静かにゆっくり回っている。

 その人は向かいに座って、私にメニューを差し出した。

『何か飲めそう?』
「……なんでも」

『じゃあ、なんでもの中から、あったかいやつにしよう』
「……はい」

『食べものは?』
「いらない、です」

『そっか』
 否定はしなかった。
 ただ少しだけ首を傾げて、やさしく言った。

『ほんとは、いらないというより、選ぶ元気がない感じかな』

「……」

『おばちゃんが言ったの、違ったらごめんね』

「……いえ。ちょっと、元気がないのかもしれないです。」

 本音を零したその瞬間、喉の奥が少しだけ熱くなった。

 わかったような顔をされるのは苦手なのに、
 その人の言い方は、決めつけじゃなくて、
 そっと心に触れるようだった。

 店員さんを呼ぶと、ブレンドを二つ、
 それからナポリタンを一つ頼んでくれた。

 私は小さく顔を上げる。

「……私、お金。今、あんまり……」
『知っとるよ』

「……」
『だから頼んだと。今日はそういう日でいいと。』

 “今日は、そういう日でいい”

 その言葉が、…思っていた以上に胸にしみた。

 このところ私はずっと、そういう日を許されていなかった気がする。

 ちゃんとしなきゃ。
 迷惑をかけちゃだめ。
 頼っちゃだめ。
 自分でなんとかしなきゃ。

 頭の中には、そういう言葉ばかりあったから。

「……知らない人なのに。どうして…?」
『あんたが、あったかいもん飲んだ方がいい顔しとったけん』

 それがあまりに自然で、私は目を伏せた。

 コーヒーが運ばれてくる。
 湯気が立っている。
 カップを持つと、指先がじんわり温まった。

 それだけで少し泣きそうになった。

「……変ですよね」
『何が?』

「こんな、初対面で急に泣いてしまう私。」
『ううん、全然変じゃないよ』

 その人は静かにカップを置いた。

『人って、思っとるより簡単に冷えるけんね。体だけじゃなくて、心も。』

 私は少しだけ、口元をゆるめた。
 その人はそれに気づいたはずなのに、何も言わなかった。

 ナポリタンが運ばれてくる。
 懐かしい匂いがした。

 その人はフォークを私の方に少し寄せた。

『食べられそう?』
「……少しなら」
『うん。少しでよかよ。』

 ひとくち食べる。
 熱くて、少し酸味があって、ちゃんとおいしかった。

 空っぽだった体のどこかに、
 少しだけ“戻る場所”ができる感じがした。

「……おいしい」
『よかった』

 本当にそれだけ、その人は言った。

 大げさに喜ぶわけでもなく、得意がるわけでもなく、
 ただ心から、自分のことのように安心したというふうに。

 そのやわらかさに背中を押されるみたいに、
 私は少しずつ話し始めていた。

「最近、私 だめで」
『うん』

「何もかも遅いって言われちゃって。」
『うんうん』

「ちゃんとしたいのに…..質問しようと話しかけるんですけど、
 コソコソ話しながら二人組になってどこかに行っちゃうんです。
 だから教えてもらえなくて…。」

『それはひどいよ…』

「この間 明細見たら給料が下がってたんです。
他の人はどうしてるんだろうってSNS見ても、みんな普通に生きてるみたいに見えて….わたしだけなのかな、って。」

『しんどいよね』

「……はい」

『よう、ここまで来たね』

その言葉に、私は顔を上げた。

「……来れてないです」
『ううん。橋からここまで来たやん』

 その人は静かに言った。

『それ、すごいことよ』

「……」

『今のあんたには、簡単じゃなかったやろう?』

 私は言葉を失った。

 そんなふうに言われたのは、久しぶりだった。

 何もできていないと思っていた自分に、
 “ここまで来た”という言葉が与えられるなんて。

 しばらく沈黙があった。

 それから、私はぽつりとこぼした。

「……私なんて、誰の役にも立ってないのに」

 声はまだ弱かった。
 でも、最初よりは少し、自分の言葉になっていた。

 その人はすぐには返さなかった。
 その間が、ありがたかった。

 やがて窓の外の観覧車を見ながら、その人は言った。

『観覧車、見えるね』
「……はい」

『ああいうの、好き?』
「昔は……ちょっと」

『今は?』
「……今は、止まりそうに見えます」

 その人は笑わなかった。
 ただ、うん、と頷いた。

『心って、観覧車に似とるなあって思うことがあるんよ』
「……観覧車」

『うん。真ん中に、静かな中心があるやろう?』
「軸、みたいな……?」
『そう。いちばん大事で、いちばん繊細なところ』

 私は窓の外を見る。
 観覧車はゆっくり回っていた。

『そこから、いろんな支えが伸びとる。
家族やったり、
友達やったり、昔もらった優しい言葉やったり』

『好きな景色とか、あったかい食事とか、
会うと少し呼吸が楽になる人とか』

「そんなのも……?」

『うん。そういうのも』

その人は、カップに手を添えたまま静かに続けた。

『一本ぐらつくと、止まりそうになる日がある』
「……今、そんな感じです」

『うん』
「……わかるんですね」

『目を見とったらぜんぶわかるよ』
「……」
『橋の上のあんた、すごく静かやったけん』

 胸が少し縮こまる。
 でもその人は、そこを責めるようには触れなかった。

『だから今日は、無理に元気にならんでよか』
「……」
『ぐるぐる回らんでもよか』
「……」
『まず、今苦しめられてる場所から逃げよう。
人生が止まり切らんことだけ考えよう、ねっ?』

 私は思わずその人を見た。

 その人はいつものことみたいに穏やかに、でも少しだけ真剣に言った。

『今日は私が、少し支えるけん』
「……そんな、簡単に…?私、重いですよ…迷惑、かけるかもしれないし」

『それも今日は、ひとまず横に置いとこうか。
重い痛みを持っとる人ってね、
“自分は重いけんだめだ”って思いながら、さらに一人で持とうとするんよ』

「……」
『でもね……それだと余計につぶれてしまう。
ちょっとだけ、信じてみらん?
ひとりぼっちだと思うなら、
おばちゃんが最初の味方になるけん。


 私はフォークを見つめた。

「…頼るの、苦手で。なんか…上手にできなくて」
『上手じゃなくてよかよ』

「……」
『ちょっとこぼすだけでも、十分やけん』

 私は少しだけ息を吐いた。
 最初より、ちゃんと息が出た気がした。

「……こんなの、人に言ったら困らせるだけかなって」
『確かに、受け止めきれん人もおるかもしれん。 
 でもね、そうじゃない人もいる。』

 その人はそこで、少しだけ身を乗り出した。

『私は、受け止めたいんよ。
重たいものを抱え込んだりせずに、幸せになってほしい。

 その言い方が、やさしかった。

 私の中でぐちゃぐちゃに結ばれていたものを、
 ひとつずつほどいてくれるようで。

「誰かを大事に思ったこと、あるやろ」
「……あります」

「守りたい、とか。幸せでいてほしい、とか」
「……それも。」

『じゃあ、その気持ちが生まれる中心は、まだちゃんとここにある』

その人は自分の胸の少し上を、指先でそっと示した。

「今は疲れて、回れんようになりそうなだけ」
「……」
「壊れとるわけやないよ」

 その言葉を聞いた瞬間、
 私は本当に少しだけ、呼吸が楽になった。

 壊れてるわけじゃない。

 それは、すぐ元気になる魔法じゃない。
 でも真っ暗な部屋に、小さな灯りをひとつ置いてもらったみたいだった。

「……なんか さっきより、ちょっと……息できます」
『うんうん、よかった』

 その人は静かに笑った。

『それで十分』
「十分、なんですね」

『今日はね』
「……また“今日は”」

『好きなんよ、この言葉』
「どうしてですか」

『今を小さくできるけん』
「……?」

『一生分ちゃんとせんでよか。今日は、今日の分だけでいい』

 私はその時、はじめて少しだけ笑った。

 久しぶりに、心から。

 その人はそれに気づいたはずなのに、やっぱり何も言わなかった。
 ただ、うれしそうに目を細めただけだった。

* * *

 店を出る頃には、
 私の歩く速さは少しだけ普通に戻っていた。

 さっきまで足元ばかり見ていたのに、
 今はちゃんと前の信号を見ていた。

 駅へ向かう道の途中で、その人は立ち止まった。
 それから、白い封筒を私に差し出した。

『これ、帰ってから開けて』
「……なんですか」

『今日を越えるためのもの』

「いえいえ、そんな申し訳ない…。
話まで聞いてもらったのに、受け取れないです」

そう言うと、私の手をそっと握りしめた。
『道案内のお礼と思って、受け取って』

 穏やかな声だったけれど、
 そこだけは少しだけ、迷いがなかった。

『今のあんた、たぶん“いらない”って言いながら、本当は少し助かりたいって思っとる』
「……」

『それ、悪いことやないよ』
「……返せないかもしれないし…」

『返さんでよか』
「どうして、そんな」

『あんたには、まだ行く先があるやろう? 応援したいんよ。友達として。』

 私は封筒を見つめた。

「友達……」

 受け取ってしまったら、
 何かを認めることになる気がした。

 本当に限界だったこと。
 一人では越えられない夜があること。
 助けが必要だったこと。

 でも、そのどれも、
 もう本当は知っていた。

 私はそっと封筒を受け取った。

「ありがとうございます。
……名前、聞いてもいいですか?」

 その人は少しだけ困ったように笑った。

『今の私にはね、名前がないんよ』

「そしたら……恩人さんって呼んでいいですか?」

 その人はやわらかく目を細めた。

『いいよ。』

「……また、会いたいです」

 その人は少しだけ空を見上げた。
 それから、あたりまえみたいに言った。

『もちろん。
心が閉じそうなときは、空を見るんよ。
そしたらまた逢えるから……
“友達の約束”、ね。』

 その優しい微笑みが、
 胸の奥が詰まるように切なくて、
 どこか懐かしく感じた。

 それからその人は、
 まるで最初からここにいなかったみたいに、
 人の流れの中にするりと溶けていった。

 その後ろ姿に、私はまた 泣きそうになった。

* * *

 家に帰って、私は封筒を机の上に置く。

 しばらくの間、開けられなかった。

 もし本当に助けられてしまったら、
 もう“私は大丈夫です”という顔をしていられなくなる気がしたから。

 でも、結局、私は開けた。

 中には、一万円札が十枚入っていた。

 十万円。

 それから、小さなメモが一枚。

『これは終わりの資金じゃなくて、未来への資金。』

 その下に、さらにもう一行。

『どうか、生き延びるために使って。』

 私は、その場に膝から崩れ落ちた。

 泣こうとしたわけじゃない。
 でも涙が勝手に落ちた。
 張りつめていたものが、胸の奥から音もなくほどけていく感じがした。

 十万円で人生が全部変わるわけじゃない。
 そんなことはわかっていた。

 でも、その時の私には十分すぎた。

 家賃の一部を払える。
 電気を止められずに済む。
 食べものを買える。
 スマホをつなげておける。
 相談先を探す時間ができる。

 それはただの紙じゃなかった。
 今日の先に、明日があると思っていいための、
 具体的で、現実的な橋だった。

 封筒の底には、もう一枚、小さな白い紙が入っていた。
 名刺のようで、名刺ではない。
 連絡先は何もなく、ただ一言だけ。

『心が閉じそうなときは、空を見るんよ。』

 私はその紙を、財布のいちばん見つけやすいところにしまった。

* * *

 翌日、私は少しだけ動いた。

 家賃を払った。
 食べものを買った。
 市の相談窓口を調べた。
 怖かったけれど、電話もした。

 全部が一気によくなったわけじゃない。

 朝は相変わらず重かったし、
 恥ずかしさも消えなかったし、
 “消えたい”に近い気持ちが、完全になくなったわけでもない。

 でも、あの日を境に、
 “終わる”以外の選択肢が、ちゃんと目に入るようになった。

 “また、会えるかもしれない。”

 一週間後、そんな期待を胸に私はあのカフェをもう一度訪れた。

 同じ窓際の席に座って、同じブレンドを頼んだ。
 ナポリタンの匂いがして、少しだけ胸が痛くなる。

 会計の時、店員さんに声をかけた。

「あの……この前、私と一緒にいた人、覚えてますか」

 店員さんは不思議そうに首を傾げた。

「お一人でしたよね?」
「……え」

「窓際で、ずっと外を見てらした方ですよね」
「いえ、女の人が……」

「すみません、見てないです」

 私はそれ以上、何も言えなかった。

 ただ、レジ横に飾られた古い観光パンフレットに、ふと目が止まった。

 近くの寺の特別展示を案内する、小さな紙だった。

 何気なく手に取る。
 表紙には、古い書簡と、尼僧の像が載っていた。

 その寺の名前には見覚えがあった。
 子どもの頃、一度だけ家族で行ったことがある。

 寺は、山の空気をそのまま閉じ込めたみたいに静かだった。

 石段を上がると、町の音が少しずつ遠くなる。
 境内の風はやわらかく、どこか懐かしい匂いがした。

 特別展示は、小さな宝物館の一室で行われていた。
 古い書、旅の記録、当時の信徒にまつわる逸話。
 私は半分ぼんやりしたまま、それらを見ていた。

 けれど、ある展示の前で足が止まった。

 ガラスケースの中に、古びた書き付けがあった。
 墨はかすれ、紙も黄ばんでいる。

 解説文には、こうあった。

困っている旅人に路銀と食を与え、
言葉を残して去ったという尼僧の逸話のひとつ。

 その下に、現代語訳が添えられていた。

“閉ぢむとする心あらば、まず空を見よ”

 指先が冷たくなる。

 財布の中の白い紙と、よく似た言葉だった。

 さらに隣には、橋のたもとで旅人に声をかけている、僧形の女性の絵があった。

 やわらかく細められた目。
 穏やかな微笑み。

 私は、しばらくその絵を見つめた。

 似ている、と思った。
 あの日、カフェで向かいに座っていたあの人に。

 同じだ、と言い切ることはできない。
 でも、目元の静けさが、あまりにもよく似ていた。

 近くにいた係の人が、穏やかに言った。

「不思議なお話でしょう」
「……こういう話、よくあるんですか」

「ええ。ときどきこういう逸話も残っているんです」
「……」
「困っている人の前に、旅の僧や修行者の姿で現れて、食べものや路銀を与えて去った、というようなお話が」

 私はガラスの向こうの文字を見つめた。

 あの日のことを思い出す。
 橋の上で、たしかに閉まりかけていた私。
 説教もせず、正しさも押しつけず、
 ただ言葉と温度と時間を置いていった人。

 名前がない、とあの人は言った。

 けれど本当に名前がなかったのではなく、
 あの日の私に必要なかたちで、
 ただそこに現れてくれただけなのかもしれない。

 そう思った時、
 私は少しだけ泣きそうになった。


 帰り道、境内の石段で私は一度立ち止まった。

 空が、少しだけ近く感じた。
 青くて、少しだけまぶしい。

 あの日も、こんなふうに空を見ればよかったのだろうか。
 いや、きっと一人では見られなかった。

 橋の上の私は、もうずいぶん閉じかけていたから。

 閉まり切りそうな扉に、挟んでくれた「命綱」。

 それは、その日だけ効くものじゃなかった。

 あとから ふとした時に思い浮かんで、
 何度も私を、少しずつ”生きる側”へと引き戻してゆく。

 それから数か月が過ぎた。

 私はまだ、完全に元気になったわけじゃない。
 朝が重い日もある。
 まだ心の扉が、静かに閉まりかける夜もある。

 でも、あの日とは違う。

 閉まりかけた時、私は知っている。
 そのままにしない方法があることを。

 あたたかいものを飲むこと。
 誰かに少しだけ気持ちを打ち明けること。
 窓を開けて、空を見ること。
 今日は今日の分だけでいいと思うこと。

 夕方の駅前で、私は観覧車を見上げる。

 中心は静かで、繊細。
 けれど 支えがあるから、回っていられる。

 家族。
 友達。
 昔の言葉。
 あたたかい食事。
 財布の中の白い紙。
 そして、たった一度の、不思議な出逢い。

 あの人は、たぶん大きな奇跡を起こしに来たんじゃない。
 そんな顔はしなかった。

 ただ、“ここで終わりにしなくていい”と、
 そう思えるだけのものを残してくれた。

 まるで、心のドアストッパーのように。

 私は観覧車を見上げながら、小さく息を吐く。

 一生分ちゃんとしなくていい。
 今日は、今日の分だけでいい。

 その言葉を胸の中でなぞると、
 少しだけ呼吸が深くなる。

 そして、思うのだ。

 いつか誰かの心が止まりそうな時、
 今度は私が、その人にとっての小さな支えになれたらいいな、と。

ただ、命の灯火が消える、その前に。

 あたたかい飲みものでも、
 やわらかい言葉でも、
 今日を越えるための何かを、そっと渡せる人になれたら。

 スプリングコートの裾が、ふっと揺れた。
 柔らかな、包む風が吹く。

 誰かがすぐそばを通り過ぎた気がして、
 私はふいに振り返った。

 そこには誰もいなかった。

 ただ、足元に白い紙が一枚落ちていた。

 見覚えのある、飾り気のない小さな紙。
 手に取ると、墨で書かれた文字が浮かんだ。

 「大丈夫。いい方に進んでいるよ。
 私はいつも、あんたの心のなかにおるけんね。」


 私はしばらく、その言葉を見つめた。

 それから、空を見上げる。

 恩人さんが私の心に残したものは、記憶の中の光だけじゃない。

 一度触れた場所を、
 その後の人生ごと、静かに書き換えてゆく回路だったのだと気付いた。

 ギイ、と音を立てて観覧車が静かに回り始める。

 ”今日も、生きよう。”

 昇り始める光と沈んでいく影のあわいで、私はそう呟いた。

 また逢えるその日まで。

 そして、「幸せになれました」と心から言えるその日まで。

作者のあとがき


この物語には、私が本当に救われた日の記憶が宿っています。

心の傷という言葉すら知らなかったあの頃。

初対面なのに、あの真っ直ぐな瞳で
「いま、この子はすごく辛い目に遭っている」と痛みを見抜いてくれた人がいました。

その女性は、相談に来た多くの人を救っていました。

その暖かさと真剣に助けようとする姿を見つめながら、
「味方でいること、一人にしないこと」が、人を救うのだということを学びました。

本当は、たくさん たくさん話したかった。

力強く背中を押してくれて、
私に、思うように未来を描いていいと教えてくれたその方に、
いつか、必ず恩返ししたかった。

ずっとそう思っていました。

今でも時折、思い出すと涙が出る時があります。

けれど、あの日もらった"言葉のお守り"は、
今もずっと私の中に残っています。

今度は、私もその方のように、誰かを少しでも癒せる言葉を紡ぎたくて。

そして、「私は今 すごく幸せです」と"恩人さん"に伝えたくて。

今日、この「#いまあなたに伝えたいこと」という企画の場を借りて物語を書きました。

お読みいただき、本当にありがとうございます。

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瑞葉 水琴|居場所を紡ぎ、運命を哲学する心界ファンタジー作家 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます😊 これからも物語や絵本を紡ぎ続けるために、サポートしていただけたらとても嬉しいです🌿 いただいたチップは創作費として大切に使わせていただきます☺️

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