【この季節の残りを、君と】#2 第一話 明日も、同じ席
「動くと、曲がっちゃう」
母に言われて、私は膝の上で両手を重ねた。
朝の台所は、焼いたパンの匂いがしていた。背中のところで、母が髪を二つに分けている。櫛が耳に触れるたびにくすぐったくて、じっとしていようとするほど、肩が上がってしまう。
「はい、片っぽできた。痛くない?」
「こっち、きつい」
「こっちって、右?」
私は左耳を押さえた。
「あ、そっちね」
母は笑って、結んだばかりの髪をほどいた。
向かいの席で、父が食パンを口にくわえたまま新聞を畳んでいる。テーブルに肘をぶつけ、コップの牛乳が少しこぼれた。
「あーあ」
私が言うと、父はパンを手に持ち直した。
「今のは、お父さんが悪かった」
母がこちらを見ないまま、台拭きのある場所を指さした。
父は立ち上がり、冷蔵庫と椅子のあいだを横向きになって通った。背中のシャツが少し出ている。私は教えてあげようと思ったけれど、母の指がまた髪を引いたので、そちらが先になった。
「いたい」
「ごめん、ごめん。もうちょっと」
五歳の朝は、こんなふうに忙しかった。
髪を結んでもらって、牛乳を飲んで、忘れていた上履きの袋を玄関まで取りに戻る。昨日まで履けた靴が窮屈だと言うと、母がしゃがんで中を確かめた。つま先に、丸めた靴下が入っていた。
「どうしてここに?」
「おうち」
「誰のおうち?」
「くま」
寝る前、ぬいぐるみをそこに寝かせたことを思い出した。
母は一度唇を結んで、それから吹き出した。靴下を抜いてくれたので、靴はちゃんと履けた。
玄関の床は、茶色いタイルだった。
私はその上で足踏みをした。
右、左。右。
靴の裏が、こつ、こつと鳴る。
それとは別に、足のもっと下で、何かが静かに動いている気がした。
顔を上げても家はどこにも進んでいない。傘立ても、壁の鏡も、昨日と同じところにある。それなのに、目を閉じると、自分の立つ場所だけが遠くへ運ばれていく。
その感覚は、いつもあった。
絵本を読んでもらうあいだも、お風呂で十まで数えるあいだも、眠ってしまう寸前にも。
けれど、その朝は、母が手を差し出すと忘れた。
「行こうか」
私は頷いて、その手を握った。
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