【この季節の残りを、君と】#10 第九章 名前を呼ぶまで
次の日、少年は図書室に来なかった。
昼休みが半分過ぎても、入口の脇は空いていた。
透明な手すりは、昨日と同じ場所を流れている。
内側へ曲がった縁も変わらない。
私は植物図鑑を開き、桜の頁を探した。
筆箱の中には、返してもらった種が入っている。
頁の上へ置くと、写真の種より少し小さかった。
『発芽には、冬の寒さを経験することが必要』
小さな文字を二度読んだ。
寒さを知らなければ、芽を出せない種がある。
そんな決まりにも、理由は書かれていた。
廊下から足音が近づくたび、私は本へ顔を寄せた。
待っているように見られたくなかった。
予鈴が鳴る直前まで、少年は来なかった。
*
二日目も来なかった。
三日目、私は図書室へ行かず、教室で折り紙をして過ごした。
ゆいちゃんが、赤い紙で苺を折る方法を教えてくれた。
私は一つ作った。
へたの部分が曲がった。
「前より上手だね」
ゆいちゃんが笑った。
嬉しいと思うより先に、その笑顔がいつまで続くか考えた。
私は完成した苺を机の奥へしまった。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、廊下の向こうに少年が見えた。
白いマスクをしている。
先生から紙を受け取り、何度も頭を下げていた。
私に気づくと、片手を少し上げた。
私は胸の奥で息を吐いた。
ああ、休んでいただけだった。
いなくなったわけじゃ、なかったんだ。
その違いを、私はいつも同じにしてしまう。
手を振り返す前に、少年は先生と階段を上がっていった。
*
翌日の昼休み、彼は図書室の窓際に座っていた。
方眼ノートではなく、一冊の本を読んでいる。
透明な手すりからいちばん遠い机だった。
私が近づくと、本の表紙を見せた。
『木の実と種の図鑑』
「昨日、図書室に返したって聞いたから」
誰に聞いたの、と尋ねかけてやめた。
机の上に、私が探していた桜の頁が開いている。
「風邪だったの」
「うん。熱は一日だけ」
「そう」
帰ってきてよかった、とは言えなかった。
代わりに、筆箱から種を出した。
「これ、桜じゃないかもしれない」
少年は種と図鑑を見比べた。
「測ってもいい?」
私が頷くと、彼は定規を出した。
勝手に触らず、私が掌を開くのを待った。
種の長さは、六ミリだった。
図鑑の写真の横へ、鉛筆で数字を書こうとして手を止める。
「本に書いたら駄目だ」
「それは、どうして?」
私が聞くと、少年は目を丸くした。
「次に読む人のものでもあるから」
理由はすぐに出てきた。
私は少し笑った。
笑ったことに自分で驚き、すぐ口元を隠した。
少年は何も言わなかった。
方眼ノートを開き、新しい頁へ六ミリと書いた。
*
図鑑の貸出票には、いくつもの名前が並んでいた。
同じ本を読んだ人たちの名前。
もう卒業した人もいる。
知らない名前ばかりなのに、その人たちが頁をめくった時間だけは紙に残っている。
少年が自分の図書カードを机に置いた。
『佇月 芹璃』
四文字を、心の中で読もうとした。
最初の二文字も、最後の二文字も、読み方が分からない。
視線に気づいた彼が、胸の名札を指した。
「芹璃。せりって読む」
「変わった名前」
「よく言われる」
嫌そうではなかった。
「芹っていう草があるんだって。璃は、きれいな石の字」
「自分の名前、好き?」
「うん。君は?」
私は自分の名札を手で隠した。
伯母が毎朝、置き手紙へ書く名前。
母が、熱のある私をそっと撫でながら呼んでくれた名前。
父が靴屋で、少し離れたところから呼んだ名前。
この名前は、愛された証なのは、わかってる。
でも、大切だからこそ、
呼んだ人の声が、残ってしまう。
残るから、いなくなったあとも消えてくれない。
「自分の名前、好きじゃないんだ」
ううん、ほんとは、嘘。
誰かとまた名前を呼び合ったら、見えない糸が生まれてしまう気がした。
けれど歩道は、容赦なく進む。
繋がった糸は、いつか千切れてしまう。
太くなればなるほどに、引き裂かれる時の痛みは強くなっていく。
今ですら苦しいのに、これ以上千切れてしまったら、私は、もうーー。
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