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【この季節の残りを、君と】#10 第九章 名前を呼ぶまで

次の日、少年は図書室に来なかった。

昼休みが半分過ぎても、入口の脇は空いていた。

透明な手すりは、昨日と同じ場所を流れている。

内側へ曲がった縁も変わらない。

私は植物図鑑を開き、桜の頁を探した。

筆箱の中には、返してもらった種が入っている。

頁の上へ置くと、写真の種より少し小さかった。

『発芽には、冬の寒さを経験することが必要』

小さな文字を二度読んだ。

寒さを知らなければ、芽を出せない種がある。

そんな決まりにも、理由は書かれていた。

廊下から足音が近づくたび、私は本へ顔を寄せた。

待っているように見られたくなかった。

予鈴が鳴る直前まで、少年は来なかった。

二日目も来なかった。

三日目、私は図書室へ行かず、教室で折り紙をして過ごした。

ゆいちゃんが、赤い紙で苺を折る方法を教えてくれた。

私は一つ作った。

へたの部分が曲がった。

「前より上手だね」

ゆいちゃんが笑った。

嬉しいと思うより先に、その笑顔がいつまで続くか考えた。

私は完成した苺を机の奥へしまった。

放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、廊下の向こうに少年が見えた。

白いマスクをしている。

先生から紙を受け取り、何度も頭を下げていた。

私に気づくと、片手を少し上げた。

私は胸の奥で息を吐いた。

ああ、休んでいただけだった。

いなくなったわけじゃ、なかったんだ。

その違いを、私はいつも同じにしてしまう。

手を振り返す前に、少年は先生と階段を上がっていった。

翌日の昼休み、彼は図書室の窓際に座っていた。

方眼ノートではなく、一冊の本を読んでいる。

透明な手すりからいちばん遠い机だった。

私が近づくと、本の表紙を見せた。

『木の実と種の図鑑』

「昨日、図書室に返したって聞いたから」

誰に聞いたの、と尋ねかけてやめた。

机の上に、私が探していた桜の頁が開いている。

「風邪だったの」

「うん。熱は一日だけ」

「そう」

帰ってきてよかった、とは言えなかった。

代わりに、筆箱から種を出した。

「これ、桜じゃないかもしれない」

少年は種と図鑑を見比べた。

「測ってもいい?」

私が頷くと、彼は定規を出した。

勝手に触らず、私が掌を開くのを待った。

種の長さは、六ミリだった。

図鑑の写真の横へ、鉛筆で数字を書こうとして手を止める。

「本に書いたら駄目だ」

「それは、どうして?」

私が聞くと、少年は目を丸くした。

「次に読む人のものでもあるから」

理由はすぐに出てきた。

私は少し笑った。

笑ったことに自分で驚き、すぐ口元を隠した。

少年は何も言わなかった。

方眼ノートを開き、新しい頁へ六ミリと書いた。

図鑑の貸出票には、いくつもの名前が並んでいた。

同じ本を読んだ人たちの名前。

もう卒業した人もいる。

知らない名前ばかりなのに、その人たちが頁をめくった時間だけは紙に残っている。

少年が自分の図書カードを机に置いた。

『佇月 芹璃』

四文字を、心の中で読もうとした。

最初の二文字も、最後の二文字も、読み方が分からない。

視線に気づいた彼が、胸の名札を指した。

「芹璃。せりって読む」

「変わった名前」

「よく言われる」

嫌そうではなかった。

「芹っていう草があるんだって。璃は、きれいな石の字」

「自分の名前、好き?」

「うん。君は?」

私は自分の名札を手で隠した。

伯母が毎朝、置き手紙へ書く名前。

母が、熱のある私をそっと撫でながら呼んでくれた名前。

父が靴屋で、少し離れたところから呼んだ名前。

この名前は、愛された証なのは、わかってる。

でも、大切だからこそ、

呼んだ人の声が、残ってしまう。

残るから、いなくなったあとも消えてくれない。

「自分の名前、好きじゃないんだ」

ううん、ほんとは、嘘。

誰かとまた名前を呼び合ったら、見えない糸が生まれてしまう気がした。

けれど歩道は、容赦なく進む。

繋がった糸は、いつか千切れてしまう。

太くなればなるほどに、引き裂かれる時の痛みは強くなっていく。

今ですら苦しいのに、これ以上千切れてしまったら、私は、もうーー。

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