見出し画像

【この季節の残りを、君と】#3 第二章 母の歌声

雨は、朝から網戸を細かく叩いていた。

目を開けたとき、天井の白い染みがいつもより遠く見えた。

起きなければ、と思った。

幼稚園へ行く服は、昨日の夜に母が椅子の背へ掛けてくれていた。黄色いシャツと、紺色のスカート。枕元には、さきちゃんからもらった折り紙の指輪が置いてある。

さきちゃんが引っ越してから、もうすぐ一年になる。

赤かった指輪は、窓の光で少し白くなっていた。

私は布団から腕を出した。

指輪へ触れる前に、指先が止まった。

寒い。

六月なのに、身体の中だけ冬みたいだった。

廊下から足音が近づいてきた。

「澪、起きてる?」

返事をしようとすると、喉が貼りついていた。

「おきてる」

自分の声が、自分のものではないみたいに掠れた。

襖が開いて、母が顔を出した。

右手には洗濯籠を抱えている。左の頬に、髪が一本ついていた。

「あれ」

母は籠を床へ置くと、私の額に手を当てた。

冷たい手だった。

気持ちがよくて、私は目を閉じた。

「熱いね」

「さむい」

「そっか。今日はお休みにしよう」

目を開けた。

「いく」

「今日は行かない」

「いける」

起き上がろうとしたけれど、肘に力が入らなかった。身体が布団へ戻り、その拍子に頭の中が大きく揺れた。

母が背中へ腕を差し入れた。

「行きたいのは分かった。でも、行けるかどうかは身体にも聞かないと」

「身体、何も言わないよ」

「しゃべってるよ。今、すごく休みたいって言ってる」

「言ってない」

「じゃあ、お母さんにだけ聞こえるのかな」

母はそう言って、私の鼻の頭を指で押した。

私は笑わなかった。

休めば、みんなと違う一日になる。

昨日まで隣にいた子が、今日も同じ場所にいるとは限らない。そのことを、私はもう知っていた。

「今日、ゆいちゃんがお花の絵、持ってくるって」

「明日見せてもらおう」

「明日もいる?」

母の指が止まった。

「ゆいちゃん?」

私は頷いた。

母はすぐには答えなかった。

窓の外で、車が濡れた道を走っていった。タイヤが水を押し分ける音が、長く尾を引いた。

「たぶん、いると思う」

やがて母は言った。

「たぶん?」

「お母さんには、明日のことを絶対って言う力はないから」

「お父さんは?」

「ないねえ」

「先生は?」

「先生にもないと思う」

「じゃあ、誰ならあるの」

母は少し考えてから、布団の端へ腰を下ろした。

「誰にもないんじゃないかな」

そんな答えは嫌だった。

大人は、子どもの知らないことを知っていると思っていた。電車の乗り方も、焦げた鍋の洗い方も、夜中に怖い夢を見たとき朝までどうすればいいのかも。

明日のことだけ、誰にも分からないなんておかしかった。

「じゃあ、今日いく」

「うん。行きたくなるよね」

母は私を叱らなかった。

それがかえって悲しくて、私は布団を鼻まで引き上げた。

ここから先は

2,561字
この記事のみ ¥ 300
Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

明日をもっと、生きやすく。 ここは、物語とAIと暮らしが交わる、小さな街です🌿 小説の裏話、人物や…

街のリビングプラン

¥500 / 月

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます😊 これからも物語や絵本を紡ぎ続けるために、サポートしていただけたらとても嬉しいです🌿 いただいたチップは創作費として大切に使わせていただきます☺️