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260528 新緑の丹波路、木彫探訪

輪行ポタリング紀行 022


自転車が直ったので、前回の続きを回ることにしました。あれから1か月も経って、石楠花はとっくに終わっています。ただ、あの時、花だけでなく写真展も観に行くつもりでした。こちらは5/24までやっていました。そのことを思い出して、急に行くことにしました。


0800 出発

石生駅

石生いそう駅に降り立ちました。1か月前に来たときと駅は表情を変えません。始発できてもすでに午前8時前。写真展の開館は10時から。それまでに三つの寺を巡ります。早速出発しました。

氷上ひかみ

0830 円通寺

加古川に沿って北上
遠くに見えるのは多分、五台山
市の天然記念物 円通寺大杉
紅葉の名所
今日は青葉がまぶしい
本堂と講堂
中庭を囲うように建っています

円通寺は足利義満が建てた丹波の名刹です。当時、200以上の末寺を従えました。織田信長の先鋒として明智光秀が丹波を攻めた際も、本寺には手出しをしませんでした。光秀が布告した「下馬札」と「禁制」の文書が寺宝として遺されています。ただ、当時の建物は江戸時代、失火により焼失しました。

0920 達身たっしん

円通寺の末寺の一つ
茅葺の素朴な本堂
如来と兜跋とばつ毘沙門
木のなかの仏心は朽ちはてず
毘沙門に囲まれた如来
兜跋毘沙門
脇侍は毘藍婆びらんば尼藍婆にらんば
阿弥陀如来
地蔵
十一面観音菩薩3躯

鎌倉時代の仏師、快慶は「丹波講師こうじ」と名乗ることがありました。東大寺の古文書に記録されています。快慶がそう名乗る以上、当時の丹波は仏像彫刻の重要拠点であったであろうと思われます。ただ、そのような史実を述べた文書は遺っていません。

しかし、達身寺があります。80数躯の仏像が遺されています。兜跋毘沙門だけでも16躯もありました。その多くに腕がありません。中には、荒々しいのみの跡が残っているものもありました。どれも同じ姿勢で、ポッコリとお腹を突き出しています。

どう考えても、同じ様式で量産される途中の仏像だろうと想像するのが自然です。文書は何も残っていませんが、慶派の工房が丹波にあった可能性は大きいと実感します。丹波は山深く、銘木の産地です。この地で日本のルネサンスとも称される写実彫刻の一団が、日夜、木から仏を刻みだしていたのかもしれません

柏原かいばら

1010 大護おおもり神社

拝殿と本殿
脇障子の唐獅子
右下に「本社彫物師 柏原住 中井権次ごんじ正貞まささだ
本殿前の幣殿へいでん天井の龍
右に「皇都彫工 長谷川佐市郎 尹延まさのぶ?
本殿右の木鼻の獏
左下には雀
牡丹の持送もちおく
木鼻はひづめがあるので麒麟?
本殿縁の下の兎

17世紀の初め頃、柏原かいばら八幡宮の三重塔が再建されたそうです。その時、京都から中井道源という宮大工が遣わされました。道源は、伏見城や二条城、江戸城、日光東照宮などの大建築を手がけた初代京都大工頭だいくがしら、中井正清の一派だったと考えられています。三重塔完成後も道源は柏原に留まり、柏原中井家の祖となりました。

以後、柏原中井家は1941年に生まれた11代まで続きます。4代目から彫物師となり、6代目から権次ごんじという名跡を襲名しました。彼らは丹波や但馬、播磨など広い範囲の神社仏閣に300基以上という、おびただしい数の彫刻を残しました。この一家を総称して「中井権次一統」と呼びます。

一統の存在は知っていましたが、作品を間近に見るのは初めてです。大護神社に行ったら、あまりの大盤振る舞いにあっけにとられました。無防備すぎます。手を伸ばせば届くところに、神獣が飛び交い、唸り声をあげ、風雲を逆巻き、花を散らしています。忘れられた神社の小さな本殿全体が、自分だけの彫刻の大宇宙になっていました。

正貞まささだは柏原中井家第6代当主です。初めて「権次」を名乗った方ですから、後代の人が名前を継ぎたくなるぐらいの名人だったのでしょう。兵庫県養父市の関神社、香美町の大乗寺、京都府宮津市の仏性寺など、多くの作品を残しています。

1030 「土門拳の古寺巡礼」展

会場は丹波市植野記念美術館
カメラはジナーのエキスパート4×5
レンズはシュナイダー300mm

ボクの母は土門拳さんが撮影した東大寺戒壇堂の広目天によく似ていました。そう言うと母はいつもさみしそうな顔をしました。でも、だから、ボクは、遠いところをわざわざ観にいくほど土門さんの写真が好きなんですけど。

あるかな?と思って会場に入ると、第2会場にありました!例のドアップがA1版ぐらいに大伸ばしされています。やっぱりいい。広目天は筆を持ち、人間の善悪を巻物に付けています。眉根を寄せていら立つ表情をしながら、目に深い悲しみをたたえているようにも見えます。母は苦労した人でした。

古い仏像というものは、必ず傷んでいるものです。箔やははげ、ひびは入り、細部はかけています。しかし、土門さんの写真では、それらがたまたま生じた傷には見えません。一体一体に欠かすことのできない造形として、仏の尊さと一つになっています。「存在感」とはこういうものかとしみじみ思います。

1140 水分みわか

←瀬戸内海へ(約70㎞)
日本海へ(約70km)→
水分れにある𡶌部いそべ神社

日本列島に降った雨は、蒸発しない限り、いずれ太平洋側(瀬戸内海側)か、日本海側へ注ぎます。その分かれ目になる境界を「中央分水界」と言います。北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで、中央分水界の総延長は5,000km足らずもあります。

その最も高いところは乗鞍岳山頂、標高3,026mの高所です。それに対して、最も低いところはここ、標高はわずか95m。その名も「水分れ」です。昔から神様が水を分ける神聖な場所とされていました。今も静かな、しっとりとした雰囲気があって、いつ行っても落ち着いた気持になります。

1210 柏原八幡宮

羽柴秀吉が建設を命じた本殿
天正131585年竣工
再建された三重塔
文化121815年竣工

柏原の町を見下ろす高台の上にあります。中井権次一統ゆかりの神社だから、さぞ彫刻も素晴らしいだろうと期待していきました。が、彫刻はそれほどでもありませんでした。それにしても、拝殿、本殿の後ろに三重塔が建っていて、その尖塔が見えるんです。しかも、三重塔が少し横を向いているのが絶妙。広い空間を感じさせる伸びやかな神社でした。

3 高見城山麓

1240 新井にい神社

本殿右の猿
口を開いた阿形あぎょう
本殿左の猿
口を閉じた吽形うんぎょう

柏原盆地の南に高見城山という山があります。高見城は「丹波の赤鬼」勇将、赤井直正の兄、赤井家清の居城でした。標高500mほどですが、急峻で裾野が広い。その北斜面と南斜面に行きたい寺社があります。

北斜面のなだらかな山裾には静かな森が広がっています。その中に建つ小さな神社です。創建は6世紀まで遡る式内社です。江戸時代に滋賀県にある日吉神社からの分霊を祀るようになりました。日吉神社では神猿まさる=魔去るを神の使いとして大切にしています。

だから、本殿にも左右にお猿さんの木彫像が飾られています。やはり中井権次橘正貞の手になります。大護神社の神獣たちと同じ作者とはにわかに信じがたい。このひょうきんなおどけた表情はどうでしょうか。これも手で触れられる距離まで近づけます。柏原の人はきっと気前がいい。

1350 石龕せきがん

本堂は安永71778年再建
仁王門右の金剛力士像
阿形
仁王門左の金剛力士像
吽形
名のない地蔵
土門さんの真似w

高見山を西にぐるっと迂回っして、柏原から山南へ下ってきました。本日最後の観光地です。山の中腹の深い谷にあるので、体力が少し心配でしたが、本堂の標高は145m。毎日通う職場の標高より低いので、苦も無く上ることができました。

仁王門の金剛力士像を観に来ました。作者は鎌倉時代、慶派仏師の一人、定慶じょうけいです。2年前に国宝に指定された京都、千本釈迦堂の木造六観音菩薩像の作者として、急に有名になりました。この金剛力士像は仁治31242年、59歳という晩年の作品です。

大きさは2mほどでしょうか。表面に木目が現れていないので、彩色が残っているようです。首から鎖骨にかけて皮膚に浮き上がる筋などの曲線は艶めかしいと言ってもいいほどです。800年近く前に造られた寄木造の仏像とはとても思えません。今にも叫び出しそうな魂魄の迫力がみなぎっていました。

写真をよく見ると、瞳に自分が写り込んでいます。仁王さんに覚えられてしまったような気になっています。

1440 終点

谷川駅

丹波には日本六古窯の一つ、丹波立杭たちくい焼があります。また、日本三大杜氏の一つに挙げられる丹波杜氏も有名です。京都の隣でありながら、中央の文化に染まらない独特な文化圏を形成していたんだと思います。多くの彫刻にその片鱗を見た思いがしました。楽しい初夏の一日でした。