【掌編】ハナウタは聞かれぬままで
水の音が聞こえたから、あぁ、隣に人がいるんだなぁと思った。
当たり前のことに気がついたら、身体が痒くなった。
聞こえるということは、聞こえている。
昨日、わたしが精一杯の裏声で歌った、パペットスンスンのエンディングも聞かれていたかもしれない。
たまにだが、楽しいことがないと自給自足で楽しいことを供給したくなる。今はその、『たまに』を後悔している。
居ても立っても居られなくなり、隣の部屋のインターホンを押した。
「すみません」
「はい」
「隣に住んでる者です」
2文字だけでも若い女性であることがわかった。
そして、その15秒後に玄関が開いた。
膝を見て、わたしと同じくらいの歳だと思った。
「あ、はじめまして。あの、どうかしましたか?」
「いや、昨日、うるさくしちゃったかなと思って」
「あ、いえいえ、何も気になりませんでしたよ」
「本当ですか? それならよかったです」
安堵したまま、玄関を閉めるタイミングを逃した。自分の用が済んですぐ閉めるのは失礼なことだと、ミニマムな正義感が騒いだ。
「恥ずかしながら、歌ってしまって」
「そうだったんですね。何を歌ってたんですか?」
「それは言えないです」
「すみません。余計なこと聞きました」
沈黙が生まれてから、きちんと回答すればよかったと後悔した。
「ここ。壁、薄いですもんね」
「ですよね。だから心配になって」
「こんなタイミングで言うのもなんですけど、逆に明日、お騒がせするかもです」
「曲のリクエストもありですか?」
「あ、歌わないです」
「すみません。早とちりでした」
2回目の沈黙が生まれ、やっぱり玄関のドアを閉めようかと思った。すると隣人が口を開いた。
「ここ引越すんです」
「え」
「引越し業者さんが荷物を運びに出入りするから」
「あ、全然気にしないでください」
「言っても、荷物、まだ全然ダンボールに詰められてないんですけどね」
隣人のあきらかな誘い笑いに、しっかり乗り遅れた。
「あの、手伝いましょうか?」
気づいたら、口から出ていた。
「いや、すみません。そんなつもりじゃ」
「あ、そうですよね。すみません」
「ほら、玄関からでも見えるでしょ? 恥ずかしいくらい散らかってるの」
そんなことないですよ、と言おうとしたが、嘘が言えない性格が災いして、3回目の沈黙が生まれた。
そのまま、ぼんやり部屋の隅を眺めていると、壁にかけている鍵たちの下に、青いモフモフのキーホルダーが見えた。
「わざわざすみませんでした。これから、荷造り頑張ります」
「あ……頑張ってください」
「では。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
もっと早くインターホンを押していれば。
もしかしたら、わたしたちは。
そう思ったころには、別れの挨拶が終わっていた。
部屋に戻ると、隣の部屋からガムテープが引っ張られる音が、微かに聞こえた。
翌日。
予告通り、隣から騒がしい音が聞こえた。
それも、ほんの数時間だった。
ダンボールの中身をなにも知ることないまま、隣の部屋は静かになった。
以下の企画に参加させていただきました。
