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【ピリカ文庫】罪と靴

夕焼けの灯が、透き通った水面の外で揺れている。
17時のチャイムが、泉の奥底の障子にまで鈍く届いた。

「ぼちぼち飯でも食うか」

立て付けの悪い戸を開けようとした途端、外から細かい足音が聞こえた。
そしてプラレールくらいの小さな靴が、水中に落ちてきた。

「なんやねん。間悪いな」

見上げると、ランドセルを背負った子が慌てた表情をしているのが見えた。

渋々、水面まで昇った。

「ぼっちゃんが落としたのは、この金の瞬足かいな? それとも銀の瞬足かいな?」

「いや、ぼくが落としたのは、普通の瞬足です」

「ぼっちゃん、正直でええ子やな。正直者が損する時代にこんな子、珍しいわ。よし、おっちゃんが金と銀の瞬足プレゼントしたる」

ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ぼっちゃんは、防犯ブザーの紐を抜いた。

「待て待て。ちゃうねん。ちゃうねん。おっちゃん、怪しい人ちゃうねん」

ぼっちゃんはアフリカの鳥のような高音の中で、キョトンとした。

「おっちゃんな。泉の精霊やねん。金の斧の話とか知ってるやろ? 女神とか出てくるやつ。それのメンズ版や」

ぼっちゃんは、防犯ブザーをより遠くまで響かせるように、手を高くかざした。

「こら、ガキ。何しとんねん。『普通の瞬足』て言うたん、あれ何やったん。腹たつわぁ」

ぼっちゃんの目が僅かに潤んだ。

「すまん。ガキは言いすぎたわ。あかんな。この間のコンプライアンス研修でも注意されてん」

先日、歳下の講師に怒られたことを思い出し冷静になった。

「なぁ、おっちゃん、怖いか? べつに怖ないやろ? 白の長い服着てるし。これ、ちょっとええやつやねん。見てみ? 胸んとこラルフローレンのロゴあんねん」

ぼっちゃんは、防犯ブザーをラルフローレンの馬に向けた。

「もうええて。馬逃げたらどうすんねん。ただの白い服になるやないか。ほなもう帰れ。普通の瞬足返すから、どっか行け」

強引に靴をぼっちゃんの手に押しつけた。
でも、ぼっちゃんは立ち止まったまま。
そして、ようやく防犯ブザーの紐を戻した。

「なんやねん。まだ耳の中でピーピー鳴ってるわ。ほんで帰らんのかい」

ぼっちゃんは何か言いたげに見つめてきた。

「わかった。なんや? おっちゃんになんか言ってみ?」

ぼっちゃんはようやく小さい口を開いた。

「帰りたくない……」

まだ耳に残る防犯ブザーの余韻でかき消されてしまいそうなほど、か弱い声だった。

「え? それは、なんでなん?」

「靴、濡れてるから……」

「そんなん履いとったらすぐ乾くやないか」

ぼっちゃんはしばらく黙り、またようやく聞こえる声を発した。

「また怒られるから……」

「オカン? なんやねん。それくらいええやんか。怒られてなんぼやろ」

「いや……」

「会話に否定から入んやめい。ぼっちゃんのオカン、別にどついたりとかせえへんやろ?」

ぼっちゃんは目を逸らした。
ぼっちゃんの体が微かに震えていることに気がついた。

「やっぱ、答えんでええわ」

反射的にぼっちゃんの腕や脚を見て、そして、見ていないことにした。

「あいにく、おっちゃんな、金とか銀でモノ作って返すのは得意やねんけど、モノ乾かして返すとかは出来へんねん」

ぼっちゃんは、再び目を見つめてきた。

「ごめんな。無理なもんは無理やねん。おっちゃん、言うたら製造業やねん。金と銀の2色でやっとんねん」

ぼっちゃんの目は、悲しいくらいまっすぐだった。

「今はアレかもやけど、親父のときはそこそこ景気よくてな、もう1色あってん。ピンクゴールド」

ぼっちゃんの大きな瞳孔から、『そんなことはどうでもいいから早くなんとかしてくれ』という圧を感じた。

「あ、ごめんな。ぼっちゃん、久々の客やねん。つい話、長なったわ」

話しながら、細くなった髪を触った。

「あ、せや。ちょっとそこで待っとき」

泉に潜り、障子の戸を開けた。
そして、錆びついたドライヤーを抱えてぼっちゃんの元に戻った。

「ええのあったわ」

靴の中敷きを外し、ドライヤーの熱風を当てた。

「ホンマはあかんねんけど、これも落ちてきたやつやねん。金のドライヤー渡したら喜んどったわ。ほんで元のやつはおっちゃんが使うとんねん」

ドライヤーの音にかき消されないように大きな声で話しかけるも、ぼっちゃんはじっと靴を眺めている。

「まぁなぁ。いろいろあるよなぁ」

靴は概ね乾いたが、電源を切らない方がいい気がした。

「普通の瞬足、オカンが買うてくれたやつか?」

「うん……」

「えらい綺麗やな。最近、買ってもろたやつんか?」

「うん……」

「ぼっちゃんのオカン、不器用なだけやと思うねん」

熱風を空あてしながら、つぶやくように言葉を続けた。

「普通のオカンが、金のオカンやねん。わかるか?」

「いや……」

靴の中敷きを戻した。

「おっちゃんも、自分で何言うてるかわからん。なんやねん、金のオカンて。それより、ぼっちゃん、否定から入るのやめろ言うとんねん。それ癖になっとんで」

ぼっちゃんは、ようやく口角を上げた。
ドライヤーの電源を切った。

「うちの親父も不器用やってん」

自分のまだ痛む腕を撫でた。

「多分、他の家より貧乏やったと思うねん。でも、おっちゃんが恥ずかしい思いせんように、ちょっとだけええもん買ってくれててん」

ラルフローレンの馬と目を合わせた。

「正直、いろいろ思うことはあんねんけど、なんだかんだ、ピンクゴールドの親父やねん」

そう言いながら、ぼっちゃんにカラカラに乾燥した靴を返した。

「ええやん。普通の瞬足、似合っとるやん」

「ありがとう……」

「そこは否定せんのかい」

ぼっちゃんは、照れくさそうに目線を逸らした。

「どうせなら、飯でも食ってくか? ペヤングのデカいの買ってもうてんけどな、おっちゃん、一人じゃ食べきれんねん。こう見えて少食やねん」

ぼっちゃんはまだ嬉しそうに瞬足を眺めていた。

「やっぱ、もう家戻った方がええと思うわ」

ぼっちゃんは、ゆっくりと頷いた。

「まぁなんかあったら、いつでもこっち帰っておいでな。おっちゃんな、すぐ昇って行くで。どうせ暇やしな」

ぼっちゃんのサラサラな髪を撫でた。

「あ、飯のとき以外で頼むで。ほな」

挨拶をそこそこにして、水中へすっと潜った。

途中、振り返ると、夕焼けの灯が水面の外でまだ揺れていた。
それでも、小さい影はすっかり消えていた。

「多分、これでええねん」

夕方になると襲ってくる淋しさが、何回目かのチャイムとともに胸に響いた。
いつもはすぐにエモに変わるしょうもない淋しさが、いまさら浮かんできた罪の意識と、複雑に絡まって呼吸が苦しくなった。

このまま光の届かないとこまで潜りたくなった。
防犯ブザーの余韻が消えるまで沈みたくなった。
それなのに奥まで沈みきらず、気づいたら障子の戸を開けていた。
そして、ペヤングにお湯を注いでいた。
柔らかくなる麺を見つめている自分が、なんだか情けなくなった。

湯切りした麺に、雑にソースをぶっかけぐちゃぐちゃに混ぜながら頬張った。

「なんやねん。全然、食べきれるやないか」

そうボヤきつつ、一口だけ残した。

それをピンクゴールドの仏壇に置いた。

そして手を合わせるついでに、小さい靴がもう濡れないようにと願った。

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