転職組のマーメイド ⑦(最終話)
水族館に入場したのは、有効期限の当日だった。
受付を済ませ、ゲートを潜ると寒色系の色に包まれた空間が広がっていた。家族連れやカップルたちで賑わう中、ひとり人魚が紛れる。
いつも以上に視線が集まる。
入場から間もないのに、すでに三回ほどイルカのショーの時間を聞かれた。
自分が空間に馴染みすぎて、キャストなのか客なのか判別できないのだと思った。
青の照明に照らされた小さい魚たちが群れをなして泳ぐ。こんなに多くの魚が泳いでいるのに、カクレクマノミくらいしか名前を知らない。こんなところで世界の広さを知る。
奥の水槽にはマンタがゆったりと泳いでいた。
親戚の可能性を感じ、小さく会釈をした。
マンタの手前に、水槽のガラスに反射した自分の姿が映る。
あちら側から自分はどのように映っているのだろうか。むしろ、こちらが展示されているように見えたりしているのだろうか。
マンタに聞いてみようとしたが、遠くへ泳いで消えた。
十三時をすぎ、急に人が少なくなったと思ったら、別のエリアでイルカのショーが始まっていた。
後ろの立ち見席がまだ空いていたので、そこから眺める。
三匹のイルカがインストラクターの笛に合わせて、大きな水槽の中を回りながら跳ねた。
前の方の席に水飛沫が飛び、それを見て、会場が一体となって笑う。
会場の反応にインストラクターもどこか誇らしげな表情を浮かべる。
イルカのショーを見終えると、人波に押され売店にきた。
売店を覗くと、この水族館にはいなかったはずのペンギンのグッズまで置いてあり、急に現実に戻された。
結局、何も買わずに売店を出た。
出口が見える。
ポケットの中にある一枚だけ残ったチケットを、売店の横のゴミ箱に捨てた。
キャストが来場者に、ありがとうございましたと見送る。
自分だけ、お疲れ様でしたと見送られた。
水族館を出ると、いつもの整備されたコンクリートだらけの景色だった。
風が冷たく、歩いてるだけで鱗が乾燥してくる。
家に着くと玄関の前にまた米が届いていた。
米を持ち上げたときの音が、波の音に似ていた。
故郷。
スマートフォンを開くと未読のLINEが何件も並んでいる。
一番上はやっぱり母親だった。
『元気?』
『米、送ったよ』
『保湿してる?』
返信はできずに、画面を眺めていた。
画面が暗くなって、しばらく自分の顔だけが映る。
尾鰭が熱くなり、気づいたときには走っていた。
尾鰭がアスファルトを擦るたび、鱗が一枚ずつ剥がれていく。
信号待ちで息を整える。
青になればまた走った。
道の駅で休憩を挟んで、また走った。
ようやく磯の匂いが近づき、濃い青が見えた。
砂浜まで来ると、自分を見るなりサーファーが沖へ戻る。
慌ただしい海の水温を確認することなく潜った。
浅瀬から深いところにさしかかると、何もない空間になった。
上下左右がわからない。
それでも、ひたすらまっすぐ暗い空間を延々と泳いだ。
先に明かりが見えだした。貝製の街灯。
実家の前に着くと、ふんわりとシーフードの香りがした。
玄関はポストが新しくなっている以外はそのままの状態。
アコヤガイのドアノブをひねると、不用心にも鍵が開いていた。
「ただいま」
「あら」
母親は驚いた表情で、僕を見つめた。
何かを我慢するように、への字の口が震えていた。
口の横のほうれい線が深くなっていて、しっかり十年分老けていた。
「その、尾鰭どうしたの?」
「いや、まぁ」
「すごく傷だらけじゃない。クリーム塗ってるの?」
「一応」
「痛そう」
「少しだけね」
とりあえず母親に手土産として東京ばななを渡す。
「これ、美味しいの?」
「いや、食べたことない」
「後、これ」
「何、これ?」
「半袖のパーカー。着ないから返す」
「え、もったいない。これ意外といいやつよ。母さんアウトレットで買ったやつだもん」
母親は、渋々、半袖のパーカーを受け取った。
どうでもいい会話が続きそうなので、意を決して切り出した。
「いろいろ、話したいことがあって来た」
「ならLINE返しなさいよ」
正論に押されそうになり、軽く深呼吸した。
「働いてたところ辞めて、転職した」
「あぁ、そう」
母親はあっさりとした反応をして、そのままキッチンに移動した。
「でも、転職して頑張ってるんでしょ。今は何してるの?」
「文具メーカーの営業」
「あら、立派じゃない」
母親は鍋を取り出した。
「家にあるもので、いい?」
「なんでもいい」
「ホタテスープ温めるね」
スープを啜る。相変わらず味が薄い。指摘しようかと思いつつも、今日はこの味がちょうどよかった。
「なんか、あんたを見て安心した」
「え」
「もっと思うがままに、生きなさい」
本当は情けない姿を見せて、帰ってきなさいと言われるつもりだった。それを求めていた。
実家を出る直前になって、一緒に食べようと思っていた東京ばななが、そのままの状態なことに気がついた。
「今度からLINE返しなさいよ」
「わかった」
街灯が見えなくなる前に振り返ると、母親がまだ僕を眺めていた。
次の日。
夕方、先方との打ち合わせが思ったより早く終わった。
直帰するために営業車を持ち帰る申請をしたが、外はまだ明るい。たまにこんな日があると嬉しい。
パーキングの支払いを済ませるため、精算機の前で財布を開く。千円札を取り出そうとしたとき、一緒に二つ折りにしたレシートが出てきた。
車に戻ってから、一瞬だけ悩んだ。
それでもレシートの裏に書かれた住所をカーナビに入力した。
やっぱり、また会いたい。
信号待ちのたびにコンビニが目に入った。その度に彼女の制服姿が浮かぶ。
目的地に着く頃には、辺りは暗くなっていた。
もう少し怪しい建物を想像していたが、昔ながらの映画館のような外装で、少し安堵した。
店に入ると意外に女性も多かった。
どんな顔をしてよいのだろうか。迷っているうちに薄暗い照明がつき、艶麗なBGMが流れた。
番傘で顔を隠し、和の衣装を纏ったミノタウロスが現れた。
ステージ脇のパネルには『角田みのり』と書かれていた。これがここでの彼女の名前。
番傘から顔が見えると静かに歓声がおきた。
彼女は見たことないくらい紅く塗られたリップと、頬には大袈裟にチーク。
華麗に舞いながら、和の衣装を剥がしていった。徐々に露わになる筋肉質な肉体。
一枚、二枚と衣装がなくなっていく。
そして最後の衣装が落ちた。
牛と人間のつなぎ目も、人間の性の象徴も、ありのままを晒した。
彼女の裸を眺めながら、この一部にファミレスで飲んだドリンクバーミックスが流れていると思うと、不思議だった。
彼女からうっすらと汗が見え、それが桃色の照明に反射し、より彼女を輝かせる。
輝く彼女の中に、紛れもなくコンビニの衣装やワンピースの姿の彼女もいた。
BGMが激しくなり、彼女の動きも大きくなる。彼女の視線が客席をなぞった。それに吸い込まれた。
あの風車が回る。
青と茶色の模様が混ざる。
紙コップの上で僕らは回り続ける。
東京。人間世界の中でふたり。
紙コップは回る。このままずっと。そう願う。
しかし、徐々に風車は速度が遅くなり、ふたりは等間隔の距離に戻った。そして、回転が止まった。
彼女の舞台が終わる。
照明が暗くなると拍手がおこった。とても長い時間だった。
近くの女性客の顔を見ると、ハンカチで目元を抑えて泣いている。
それを見て、僕も少し泣いた。
終演後、少し離れた場所から彼女を見送った。
何人もの客が彼女に声をかける。
花束を渡す人もいた。
僕は、その列には並ばなかった。
おめでとうなのか。
頑張ってなのか。
何を言えばいいのかわからなかった。
でも、それでもよかった。
傷のついた営業車に戻ると、窓を開けタバコに火をつけた。
エンジンをかけて、夜道を走る。
劇場の灯りは、バックミラーの中で少しずつ小さくなる。
煙を窓から逃し、ゆっくりと尾鰭でアクセルを踏んだ。
転職組のマーメイド (終)
