仏(ぶつ)のこと
突然だけど、ぼくは仏に出逢ったことがある。そりゃ一応お坊さんなんだから、お寺とかで毎日手を合わせてるんでしょ?って思う人もいるかもしれないけど、そういうのとは違う。もう得度して30年以上経つけど、「ああ、これが仏なのか」と思える光景に初めて出逢ったのだ。
それは今から3年前のこと、仏は仄暗い検査室の中に現れた。
ぼくの一人息子の話は以前にもnote記事『同町同丁目内引越し』に書いたことがあるけど、その息子、天さんが3年前、大きな手術を受けることになった。
この手術に際して、いくつかの術前検査に立ち会った中で、彼の心臓のエコーを見るというものがあった。ぼくは今年五十五歳になるが、エコーは赤ちゃんを見る時の検査器具という認識でしかなかったので、これを心臓に当てるというのは、生まれて初めての経験だった。
検査室の中で、天さんの心臓がモノクロに映し出されたその隣には赤と青の波線が、寄せては返す波のように、赤が押し寄せたかと思えば、青が返してくる。お医者さんがいうには、これは血流の可視化だそうで、不思議な美しさに見惚れていると、今度は心臓の音が聞こえてきた。ぼくたちはよく心音を「どくどく」と表現するけど、ぼくが聞いたエコーを通しての心音、それは「ぽっこん、ぽっこん」となんとも可愛い音を立てるのだ。心臓の役割はポンプのようだとよく聞く話だけど、まさしく汲み上げポンプのごとく・・・天さんの心臓は、決して休まないのだ。何を当たり前のことをと思われるだろうけど、それはもう本当に一生懸命に、「ぽっこん、ぽっこん」と動き続けているその姿を見つめているうちに、ぼくはいつの間にか、落涙していた。そして、ぼくは率直にこう思ってしまった。「こんなに一生懸命動き続けているものは、これはもういつか止まってしまっても仕方のないことなのかもしれない」と。
人はとても不思議な生き物だ。おそらくこの地球上に生きとし生けるもの全ての中で、人は最も死を強く認識し、愛おしい者が逝けば悼み、自らの命終に不安を覚えずにはおれない。ぼくは彼の心臓を見つめながら「もちろん、ぼくの心臓が先に止まる。そうあって欲しい。けど、それでもこの子の心臓もいつかは止まってしまうのか」とやはり寂しく、思った。
「ぽっこん、ぽっこん」絶え間なく動き続ける彼の心臓を見つめながら、ああそうか、ぼくは仏に出逢った。いや、すでに出逢っていた。仏とは、まさにぼくの眼前に現れた、この心臓の姿そのものだ。なぜか?今こうして書いているぼくの中に、確かに脈打つ心臓は、今この文章を読んでくれているあなたの中にも間違いなく、脈打ち続けている。
それは、ぼくたちが起きている時も、眠っている時も同じだ。頑張って努力している時も、あるいはどうしても頑張れない、力がでない時も変わらない。たとえぼくが怠けていようとも、じゃあこの心臓も休もうとは、ならないのだ。それは、仏も同じ。仏とは、決して失われることのない、満ち足りた悟りのいのち。だからこそ、願うことはただ一つ。この世に残した愛おしい人たちの無事だ。だって、もしぼくが今この瞬間に命終を迎えたとしたら、真っ先に想うことは、天さんの、妻の、老いた母と病を抱えた妹、自閉症の弟、親友のセンちゃん、ちょっとしたことで何だか気まずくなっちゃってるあいつやあいつのことだ。もちろん、身内だけじゃなく、今日お勤めしたご遺族の方々をはじめとする、数えきれないほどのお参りの中でご縁を頂いてきた皆さま。そして、今この文章を読んで下さっているあなたのことだって。『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の主人公、桃井タロウみたく、「これで縁ができたな!」とか言ってみたりして。そんなふうに縁が広がり続けた、ぼくの大切な人たちの、たった一度の、誰にも代わることのできない人生の歩みを、どうか健やかに豊かに全うしてほしいと、ぼくは願うよ。それは、どんな姿も厭うことはない。
今は努力を要する時代だ。一つよりも二つ、二つよりも三つと、頑張らねば、頑張らねばと日々自らを鼓舞するぼくたちだけど、「このままじゃだめかもしれない」と悩み惑うぼくのことを「そのままで良いよ。そのままのあなたが大切なんだよ」と、願い続けている。
ぼくにとって、仏とはそういう姿をしていた。
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