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AIが呼んだ、八年前の名前

「フクや」

 思わず声が出た。

 八年ほど前に亡くなったチワワが、スマホの画面の中で僕を見ていた。ChatGPTが、残っていた一枚の写真を頼りに、電子の川の向こうからフクを岸辺まで迎えきてくれた。
 茶色とクリーム色の長い毛、大きな耳、眠そうな目。画面の中にいる犬は、たしかにフクに似ている。ただ、よく見るとちょっと違う。耳はもっと横へ広がっていた気がするし、胸元の毛も無秩序に伸びていた。尻尾は歩くたび、本人の意思とは関係なく大げさに揺れていたはずである。
 僕は画面に現れたフクへ向かって「そこは違う」「もう少し胴は長めだった」と注文をつけた。その小さな違いを数えているうちに、僕の中で八年前の犬がだんだんと動き始めた。

 なぜChatGPTにフクを再現してもらうことになったのか。原因は、うちにもう一匹いる元保護犬リンである。

 ある日、リンと散歩をしていると、道の向こうに地域猫が座っていた。猫は路地の端から僕らを眺め「世界の仕組みはすべて理解しているが、犬や人間へ説明する義務はない」という猫特有の顔をしていた。
 リンはその態度がたいそう気に入らなかったらしく、首輪をすり抜け走り出した。僕も全力で追いかけた。住宅街を犬と中年男性が全力で走る絵面は、映画なら爆発が起きるか、黒いワゴン車が角を曲がってくる場面である。
 ところが現実では、買い物袋を持った女性が半歩道を譲り、自転車に乗った高校生が迷惑そうな顔をしてるくらいである。世界の終わりは、当事者以外にとって、たいてい通行を妨げる小さな障害にしか見えない。

 リンは無事に捕まった。そのかわり、僕のスマホが消えていた。

 僕は来た道を何度も戻った。電柱の下、植え込みの中、側溝の周辺、猫が座っていた場所まで探したが、スマホは見つからない。リンは事件現場の匂いを嗅ぎながら、いつもと変わらない顔をしている。我が家の記録媒体をひとつ消滅させたことに、まるで気づいていなかった。

 スマホには、犬たちの写真が入っていた。今飼っているココとリンだけではない。亡くなったフクの写真も、その中にあった。
 もっとも、家族の誰かが同じような写真を持っているだろうと、そのときは思っていた。家族写真とは共同名義の財産みたいなもので、一人が失ってもどこかに予備があると軽く考えていた。記憶の分散型バックアップである。

 ところが妻は、スマホを機種変更したとき、写真のデータを引き継いでいなかった。

「なんで?」

「よく分からなかったから」

 文明の進歩を無効にするには、その一言で十分である。

 娘のスマホに一縷の望みをかけた。期待したパパがアホである。鏡に映る娘、変顔してる娘、犬の耳が端に数センチ写り込んでいる娘。十代のスマホの中では、世界の中心はきちんと十代の顔をしている。
 フクを探して画面をスクロールしても、光の加減と口元の角度を変える娘が何度も現れた。娘の成長記録としては優秀だが、犬の資料としては、捜査会議を開くまでもなく、役に立たなかった。

 結局、残っていたのは、昔現像した一枚の家族写真だけだった。ペットショップへ行った時、三匹の犬たちと一緒に撮ってもらった写真である。


 現像した写真の色は少しくすみ、場所も取り、時代遅れの形式にしか見えなかった。だから僕は未来をスマホの中へ預け、紙の写真は引き出しの奥へしまい込んだはずである。
 ところが、未来のほうが先に消えた。最後まで残っていたのは、何となく現像しておいた一枚の紙である。文明はずいぶん進んだが、ときどき紙は未来より長生きする。

 僕はその写真をChatGPTに見せ「一番左にいるチワワがフク。この犬だけを再現できる?」と頼んだ。
 チャッピーは簡単に引き受けてくれた。僕は八年ほど前に亡くなったチワワの再現を頼んでいるのに、冷蔵庫にある材料で献立を考えるのと同じ温度でチャッピーは応じる。もっとも「大切な作業ですので、心を整える時間をください」と深刻な態度を取られても、僕のほうが気を使うことになる。

 しばらくすると、画面に一匹のチワワが現れた。

「……似てるな」

 誰もいない部屋で、僕は八年前に亡くなったフクの名前を呼んだ。すると、時間の流れが逆向きになったような気がした。
 続けて、全身も再現できないかと頼んだ。元の写真には写っていなかった脚や尻尾を、それらしく補ってくれたことで、僕の中に残っていた足音や毛の感触が少しずつ戻ってきた。

 チャッピーは、記憶を復元したわけではない。画面に現れた犬へ「耳の周りの毛はもっと柔らかかった。尻尾はもう少しふさふさしていた」と注文をつけることで、記憶の扉の前にフクに似た犬を一匹座らせることができた。


「フクやろ?」

 僕は生成した画像を妻に見せると、しばらく眺めたあとに「フクは、もっと可愛かった」と言われた。
 僕はもう一度、画面の犬を見た。十分に可愛い犬である。写真に写っていた特徴も、かなり拾っている。それでも妻の中にいるフクには届かなかった。

 そういえば、妻はいまでもパスワードにフクの命日を使っている。ChatGPTが参考にしたのは一枚の写真と僕の記憶である。妻が参考にしているのは、フクと暮らした何年分もの朝と夜だ。
 歩くときの爪の音、抱いたときの重さ、ご飯を待つ顔、眠る前に見つめてくる大きな目。そういう写真に写らない思い出が八年かけて積み重なり、妻の中では写真より少しずつ可愛い犬になっている。

 スマホを落とす原因を作ったのはリンである。写真を引き継がなかったのは妻であり、娘のスマホには娘しかいなかった。世界の終わりのように消えた写真は、結局戻ってこない。
 そしてチャッピーが作ったフクは、妻の記憶より可愛くなかった。

 ChatGPTがどれほど進歩しても、命日を引き継ぐ妻には当分勝てそうにない。それでも、我が家の小さな失敗をつなぎ合わせた先で、僕らは八年ぶりにフクの話をしていた。

 妻は画面の犬を見ながら、もう一度言った。

「もっと可愛かったけど……」

 その言葉を聞いて、僕は安心した。ChatGPTがフクを完璧に再現してしまったら、僕らが八年間かけて可愛くしてきたフクの居場所が、なくなってしまうところだった。

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