第36話 【7カ国目タンザニア】キリマンジャロ5日目④(UHURU PEAK5,895m)「最後の戦い」
腹の底。いやもっと底。その下のもっと深いところ。
僕の中心から細い一本の線が急激に温度を上げながら鼻の裏筋まで駆け上ってきた。
目の前には「UhuruPeak5,895m」の板が冷たくこちらを見下ろしている。
孤独に佇むその姿は僕のキリマンジャロ登山を象徴しているようだったー
最も過酷な1時間
ステラポイント5,756mからウフルピーク5,895mまでの最後の200mは2〜3kmほどの歩行で登ることになる。
道はこれまでの崖のような岩場や急勾配の斜面と比べると極端に緩やかだ。
人によってまちまちだが「おおよそ1時間」でゴールに辿り着く。
頂上ウフルピークまで本当に本当の「最後の1時間」である。
言ってしまえば「この1時間を乗り越えればキリマンジャロ登頂成功」ということで、気合いで登れそうだな...と言いたいところだが現実はそんなに甘くない。
この道のりはキリマンジャロ登山において「最も過酷な1時間」と言われているのだ。
一変した世界
ステラポイントを越えると世界は一変した。
夜明け前の世界の静けさの上に霧と雪が混じり音を立てていた。
横から勢いよく吹く霧雪で遠くまで見ることは出来ないが開けた緩やかな世界がそこには広がっていた。
ベッドライを左右に振ると積もった白い雪の向こうに底なしの暗闇がこちらを覗いている。
「あぁ、俺は一番高いところまで来てるんだ。」
そう思った。そしてその底なしの暗闇がただただ不気味で恐怖で、この先の道の過酷さを象徴しているように感じた。
「落ちたら死ぬなこりゃ。いや、落ちなくても死ぬかもしれない。」そんなことを思う。
ズサァッズサァァッ—
歩き始めるとこれまで以上に雪が積もっていることが分かった。その証拠にこれまでは靴底が埋もれる程度だったが、今は歩く度に僕のトレッキングシューズは半分近く雪の中に沈みこむのだ。
それは確実に僕の足取りを重くする。道は緩やかになったのに明らかに身体が重い。
その疲れ果てた身体をゆっくりゆっくりと動かし先をゆくモーガンに着いていく。すると地面に誰かの足跡が残っているのが分かった。モーガンの足跡ではなくて他の誰かの足跡。見た感じ2〜3人くらいの足跡だ。
「先頭だと思ってたけど先に行ってる人がいたんだ—」
僕はなぜか嬉しい気持ちになった。今の気持ちを共有できる見知らぬ誰かがいる。
一人であるということに醍醐味を見出しつつ、都合の良いところで「誰かの存在」に縋ってしまう自分に少しおかしな気持ちになった。
その足跡を意識的に上から踏み締めるようにして一歩一歩歩いていく。
とにかく何かを力に変えないと進めない、そんな気がしていた—
100段の階段と最後の1段
「そうかこれが最後の1段というやつか」
僕は暗闇の世界を歩きながらある事を思いだしていた—
確かあれは高校時代。ある日の部活の練習後のミーティングだ。冬だったと思う。辛い冬練後のミーティングで先生がこんなことを言っていた。
「いいか。みんながこれから100段の辛い階段を登るとしよう。それはそれはキツイ。何度も諦めそうになる。それでも10段登り20段登り50段登り...やっとの思いで90段目まで来る。あと10段あと5段と力を振り絞って99段目まで来た。よしあと1段だ...」
こんな始まりの話。きっと何かの話を引用してたと思うけど思い出せない。ただこの後の話がとても印象的だった。
話はこう続いていくー
「いいか覚えとけ。この"最後の1段"はこれまで登ってきた99段の全ての辛さを合わせても足りないくらい辛い1段になる。最後の1段を登るにはこれまで使った力を総合したとしても足りない。それ以上の力を出さないと登れない。だから本当に辛くて諦めそうになった時、それは"最後の1段"の際まできてるってことだ。」
確かに。この道はとんでもなく辛い。
きっとここまで来て諦める人もいると心底思った。なんなら僕も諦めたい気持ちに包まれていた。
普通に考えると「あと1時間200mだから気合いでいけるだろ」と思うかもしれないが、今日は既に1,000m以上を5時間以上掛けて登ってきている。しかも大抵は寝不足で体力は明らかに底をついている。人によっては高山病の症状が出てるはずだ。
皮肉にもここまでの道のりの辛さが、その先へ進もうとする後ろ髪を引っ張ってくる。
「もう十分頑張ったよ。諦めてもいいんだよ。」と.。
そんな時にふと10年前の話が頭の中に浮かんできたのだ。
「なるほどこれが最後の1段ってやつか。確かにこの5日間の過酷さを全部合わせても今の辛さには敵わないな。」
僕はふと思い出したその話に、【辛さに追われるのではなく。辛さを追い越していけ】と言われているような気がした。とにかく何かに縋りたい気持ちだったのかもしれない。
「クソッ...いくぞっ!」
僕は弱気な気持ちを無理やり張り返す。
「もう先のことは考えない。力を振り絞って一歩ずつ一歩ずつ進むだけでいい。」
無心で目の前の一歩に力を込めていく。
気づくと暗闇を押し返すように陽の光が周囲を明るく染め始めていた。
僕は目の前に現れた銀白の世界に挑むように呟く。
ただ前に進め。クソ野郎ー

雪が積もりに積もってくる
辿り着いたウフルピーク
一度上り始めた太陽はどんどん視界を明るくしていく。と、同時に僕がこれまでみたことのない世界にいるということを教えてくれた。
見渡す限りに広がる白。
右も白。左も白。上も白。下も白。斜めも白。後ろも白である。
とにかく世界は白すぎて境目を失っているようだった。
唯一その白さの中に異質な存在があるとしたら、数m先を歩くガイドモーガンの青いレインコートだけだろう。
氷点下20℃の雪が吹雪く白い世界で白みかけている青い背中を見失わないように僕は必死に足を動かしていた—
すれ違う先達者
陽が照り始めて30分。ステラポイントを抜けて45分くらいだったと思う。
丁度左側に傾斜した道を傾斜を横切るように真っ直ぐ進んでいた時だった。
目の前から歩いてくる3人組が目に入った。
「こんな場所でこっちに向かって歩いているということは...あ、ゴールした人だ。折り返してきたんだ!」
先頭には黒人のガイド。その後ろに白人の40歳くらいのカップルがトレッキングポールに体重を掛けるように歩いている。
僕は彼らを見て誇らしい気持ちになった。
「彼らはゴールしたんだ。そして今折り返してるんだ。すごい。本当にやりきったんだ...」
まだゴールしていない僕が喜ぶのは滑稽な感じだが、なぜか本当にこう思った。
大業をやり遂げたその勇姿に自分自身を重ねて鼓舞していたのかもしれない。
彼らが横を通る時に僕はおもわず拍手してしまった。
「Well done!! Good Job!!」
分厚い手袋の拍手では萎むような音しか出なかった。ましてや雪が舞い散る中である。
それでもその音に合わせて知ってる限りの英語で「お疲れ様」ということを叫んでいた。なんだが僕の中に込み上げる何かがあった気がする。
彼らは立ち止まることなく僕を真逆に追い越しながらちらっとこちらを見てこう呟いた。
「Thank you...you are almost there...Just 20minutes...」(ありがとう。君もあと少し。20分で着くよ。)
そう言う彼らの顔は疲労を押し殺したような引き攣った笑顔だった。
「辛い道のりだったんだな。」
言葉以上のものを感じる。
泣いても笑ってもあと20分か—
僕が立ち止まっている間に青い背中は先に進んでいた。
標高5,800mを越えてもいつも通りの光景に笑えてくる。
僕はその青いガイドの背中を目掛けて次の一歩を踏み出した—
無機質な何か
この後はただひたすらに青い背中を追いかけていたと思う。
雪で白んでいるその背中と重たい自分の両足、そしてやたらに荒くなっている自分の息遣いが強い印象として残ってる。
ただその真っ白な世界で最後の丘に差し掛かっているということだけはなぜか分かった。
さらに深くなっていく雪のせいか、傾斜が掛かりながらも自由に広がっている世界からそう感じたのか、はたまた僕を取り巻く全ての状況からそう感じたのかは分からないけど、確実に僕は最後の道に差し掛かっている気がした。
そして、先達者の彼らとすれ違ってから10分後。何か無機質で人工的な何かが目に入った。
雪でよく見えないが確実に何かが立っている。
でも、まだ遠い。よく見えない。
「ダメダメ。あれはゴールじゃない。さっきの彼らは20分って言ってたし。期待は自分を苦しめるだけだ。」
僕は目に入ってきた人工物の"正体に確信を持ちつつ"考えないことにした。
とにかく一歩。とにかく一歩。目の前に集中だ。
一歩。一歩。一歩。一歩。
果てしなく続く白い道を進んでいく。
一歩。一歩。一歩。一歩。一歩。一歩。
やがてモーガンの青い背中が止まった。
そしてそれと同時に5m先に佇む人工物がはっきりと視界に飛び込んできた。
2本の木の棒に何枚かの細長い黒い板が付いている。
これまで何度も見てきたPEAK SIGN(山頂標識)だった。しかし、一つだけ違うことがある。
それは「UHURU PEAK TANZANIA 5,895M」と書かれていたことだ。
そして全てのPEAK SIGN(山頂標識)の頂点として申し分ない佇まいと冷たい表情で世界を見下ろしていた。
僕はアフリカ大陸で一番高い地点に足を踏み入れたのだ。
一瞬の出来事
僕は数歩進みその板の前まで歩いてみる。
そして、アフリカ大陸中で唯一僕より高い位置にいる黒い板を見上げてみた。
不思議と目が合ったような気がした。
氷点下20℃の世界に囲まれて佇むその目つきは冷たくて強い。そして熱を持っていた。
その瞬間だった。内側からの何かが僕の息を止めた—
腹の底。いやもっと底。その下のもっと深いところ。
僕の中心から細い一本の線が急激に温度を上げながら鼻の裏筋まで駆け上ってきた。
頂点まで達したその熱は僕の全てを刺激し内からも外からも僕を包み込んだ。
「ああ—」
僕の口からは言葉にならない何かが溢れるでる。
それは一瞬のような永遠のような時間だったー

当日の日記
キリマンジャロ登山のこの物語りは下山まで続くのだけど、山頂5,895mウフルピーク(UHURU PEAK)の標識に辿り着いたことで一つ結晶しきっている気がする。
書いてる気持ちとしてもそうだし、実際に登った時の自分の気持ちもそんな感じだった。
まー、山登りってそうなのかもしれない。
ちなみに、この物語りは当時の日記(1年以上前2024年4月)を読み返しながら、自分が殴り書いた文章の行間を埋めるように書いている。
せっかくだから、登頂後(当日)に書いていた文章をそのまま載せてみようと思う。
なんだかそれが、登頂した瞬間の気持ちを一番表していると思うからだ。
俺はお前の感じが大好きだ
それにしても、辿り着いた。
あんなに辛くて諦めかけたけど辿り着いた。
まじで登って良かった。
辛い時に横を見ても誰もいなかったのが、この旅を濃いものにしてくれたと思う。
そんな俺に合わせるかのように雪に吹かれたウフルピークの板が孤独に冷たく佇んでた。かっこいいぞ。
ハイシーズンなら笑顔に囲まれて、沢山の人の涙をこの板は見守ってるらしい。本来は明るい場所なんだ。(俺は涙出なかったけど。泣きそうになった瞬間マイナス20℃がそれを堰き止めてきた)
でも、俺は笑顔のないこの場所に冷たくハードコアに佇むお前が大好きだ—
