第35話 【7カ国目タンザニア】キリマンジャロ6日目②(UHURU PEAK5,895m)「暗闇の大合唱。音楽の力」
歌が聴こえる。楽しそうな歌が聴こえる—
「なんだよこれ。涙が溢れそうだ。」
5,000mを超えた暗い雪山で聴くその歌声は明るく暖かいものだった。
負けるもんか。
僕は止まりかけた足を前に踏み出していく—
気づいてしまった装備不足
何度目だろうか?
僕は足を滑らせ岩場に積もった雪の上に手をつく。
「ジュザァッ」
度重なる雪との接触で分厚い手袋は僕の手に冷たく張り付いている。
全く意味をなさなくなった分厚い手袋の下で、今にも凍りそうな指にやるせなくなりながらこう思った。
「なんで俺はあのポール(トレッキングポール)持ってないんだ...?」
スピードを上げ登るモーガンを追いかけるように、トレッキングポールを使いゆっくり登る集団を追い抜いていくのだったー
大量の汗と恐怖
他の同行メンバーに見送られながら僕とモーガンは出発した。
「とにかく呼吸だ」
僕は余計なことを考えないように"とにかく呼吸だけに集中"することにした。
ヒーヒーフー。
これまで何度も繰り返してきたラマーズ法を出発時から繰り返す。
岩場に差し掛かり僕たちの登頂アタックは火蓋を切った。
と、言っても時刻は0時で辺りは真っ暗である。
ニット帽の上から結びつけたヘッドライトの光を足元に向け雪を被った最初の岩場に足を掛けた。
「ザクッー」
足を踏み込む度に雪を噛み締める音が聞こえる。明らかにこれまでの道のりとは違う。
緩い崖のように伸びていく岩場は段々になっており、登るたびに後ろ足を蹴り前足を踏ん張るような形になってしまう。
「うりゃ!」
時には手を使って声を出しながら身体を引っ張る。
「ズサッ」(おっと)
踏み出した足が雪に滑り前に手をついてしまった。
「はぁはぁ—」
僕は転びかけ視線を白い地面に向けながら自分の状況に今更ながら気づく思いがした。
いつのまにか荒くなっている呼吸。
氷点下を下回る外気をお構いなしに吹き出る大量の汗。
そして、分厚い手袋は多量の雪水を含み僕の指を凍てつかせている。
「ふぅーー。」
僕は自分を落ち着かせるように長い息を吐く。
そして視線を後ろに向け登ってきた道を見下ろしてみた。
眼下には後発の登山者のヘッドライトが並んで上下するように前に進んでいた。
「こんな急な崖登って来たの?足滑らせて落ちたら死ぬじゃん...」
暗闇の中に眼下でのそりのそりと動くベッドライトの光が不気味な緊張感を漂わせていて僕は少し恐怖感に包まれた。
横からは雪が吹雪、汗だくになった身体を震わせる。
「そういや、ニット帽の位置がどうも気持ち悪い。」
ニット帽の横に垂れているフサフサの布が水を含み頬に張り付いたり離れたりしていたのだ。
僕はこれを機に左にずれているニット帽のポジションを正すことにした。
しかし、びしょびしょの分厚い手袋をはめた悴んだ手では全く上手くいかない。
「あれ、え、こうか、ええ、うー、こうや...くっ...」
だめだ。何度やってもうまくいかない。
僕の手はニット帽のポジションを正すどころか、ただいたずらにさらにポジションを悪くして「左頬を無駄に濡らす」だけだった。
上を見るとモーガンはお構いなしに進んでいる。
「クソ...」
モーガンに怒ってたわけではない。
ただ滑る岩場にポジションの悪いニット帽、濡れた左頬、横殴りに顔を刺激する雪、そして凍傷になりそう指先...
その全ての状況に焦りというか絶望感みたいなものが込み上げてきた。
急がずにスマホを見てみるとまだ開始から30分経過しただけだった。
体感では2時間近く経っていた気もするし、5分くらいだった気もする。
「ええい!もういや!」
僕はニット帽のポジションに正しさなどないということにして、雪をかけ分けるように真っ暗な岩場を駆け上がっていったー
劣勢に笑えてくる
「うわっ汗が半端ない...」
自分の身体から湯気が出ていた—
登り始めて2時間半後。僕らはこの日1回目の本格的な休憩を取ることにした。
道中もところどころ息を整えるための小休憩はあったが、岩場に本格的に腰を下ろした休憩はこれが初めてである。
「10分くらい休もう」
そう言ったモーガンは自分のリュックからペットボトルに入った青いドリンクを取りだして飲み始めた。
エナジードリンクだ。
僕は出発前に「ホットドリンク」だと言って持たしてもらった水筒を取り出す。
「なんだよ。自分ばっかりエナジードリンク飲みやがって....」
そんなことを思ったが雇われガイドであるモーガンは、道案内以外のサービスをするつもりがあまりないことはこの4日間で知っていたから特に気にはならなかった。
ただ一点だけ。握っている自分の水筒に違和感を感じた。
「ま、まさか...」
僕はその違和感を確信に変えながらも恐れながら水筒を振ってみる。
シャリンッシャリンッ
「あれ?シャリシャリ聞こえるぞ...」
飲んでみるとホットドリンクと聞いていたはすが、中身は冷水になりしかも若干凍っていたのだ。
「なんじゃこりゃ...」
正直、絶句したというかこんなに寒いのにありえないという気持ちが込み上げてくる。
ただ、防寒着の下は汗だくで熱を持った今の僕の身体には冷水が気持ちよかった。
その一方で「保温の水筒じゃない」という事にムカついてきた。
「何がホットドリンクだよ...」出発前の僕を激励してくれた様子を思い出し捻くれた気持ちになる。
ふと周りを見渡してみると何組かの他の登山者たちも、ガイドと一緒にこの場所で休憩していた。
大半はガイドが何人かいて彼らが運んでいるポットの中から湯気が漂う何かを飲んでいた。
「羨ましいな...」純粋にそう思った。
確かに僕以外の登山者は1人ではなく複数のグループだったから、ガイドだけでなくポーターも同行しているのかもしれない。
「それにしても...」
僕は呟きながら、横に佇む無口なガイドを見上げてみるー
モーガンは相変わらず無口な横顔でエナジードリンクを飲み真っ暗な遠くを見つめていた。
僕は白い足跡のついた地面に視線を移し、自分の状況を考えてみた。
「明らかに他の登山客と俺違うよな...」
そう思い始めるといろんなことが気になり出してきた。
ここまでは道中、他の登山者の列を追い抜いたり追い抜かれたりしてきたのだが一つ気になることがあったのだ。
それは、「他の登山者は100%ポール持ってたよな?」ということである。
山登りとかでよくみるポール。トレッキングポールとかいうやつ。
僕は何度も雪の積もる地面に手をつきながら登ってきたのに、彼らはトレッキングポールを使い上手に登っていた。
「今日だけじゃない。これまでの4日間もポールがあれば幾分か楽だったはずだ。」
既に過ぎ去った時間にも思いを巡らせてしまった。要するに余計な思考というやつだ。
登山初心者の僕は山登りにはポールがいるなんて頭は無かったし、なんならエージェントが必要なものは全部用意してくれているからいまの装備で問題ないと思ってた。結果トレッキングポールはなかったのだ。
(まー、ということはキリマンジャロにトレッキングポールは必須ではないということかもしれないけど。)
ぼーっと、ホットドリンクを飲んでいるグループを眺めてると次はクッキーを食べ談笑を始めていた。
僕はもう一度横に佇むモーガンを見上げてみる。
青いエナジードリンクはいつのまにかほとんど飲み干さられ僅かにペットボトルの底を青く染めるだけになっている。そして、モーガンはまだ同じ暗闇を見つめている。
彼らグループとの差になんだか泣けてきそうだった。
お腹も減ってきた気がするが食べるものは持参したピュレグミと一欠片のキットカットしかない。
いまはまだだと自分に言い聞かせる。
そしてもう一つあることに気づく。
モーガンが被ってるニット帽が目出し帽みたいになっていて鼻先まで覆うものだったことだ。しかもその上からネックウォーマーまでつけている。
僕はもう一度他のグループに目を移してみると、そこにいる全員がモーガンと同じスタイルのニット帽+ネックウォーマーを着けているではないか。
僕は自分の見えない首元に目をやり素手で顎を触ってみる。
そこには凍りついた僕の"顎髭だけが"あった。
「なんなんだよこれ...」
僕は毒付くように呟いていた。
「俺のニット帽は鼻先まで隠せないやんけ。というかネックウォーマーすら付けてねえよ...」
僕の鼻から下の顔の防寒といえば、レインコートのファスナーを上まで閉めて亀のように首をすくめて鼻先をその下に隠すことくらいだ。
おかげで僕は鼻水が止まらない。
そして、止まらない鼻水が凍っている事に気づきまた泣きたくなっている。
(まー、ネックウォーマーも鼻まで覆うニット帽もキリマンジャロ登山には必須ではないということかもしれないけど)
「なんという装備不足...」
僕は出発前に知ってればもっとエージェントに交渉して準備できただろうということに思いを巡らす。
そして近くで休んでるグループの登山者が「自分とは同じ登山者」とは思えずに「俺はやっぱり独りだ...」という気持ちに包まれてきた。
そうしていたら無機質な声が右斜め上から聞こえた。
「よし行くぞたけ。」
エナジードリンクを飲み干したモーガンだ。
スマホみると10分経っていたー
悴んだ手でポケットにスマホを戻し、びしょびしょに濡れた冷たい分厚い手袋を付けて立ち上がる。
手袋をつけた瞬間、指先から伝わる冷たさで身体がぶるぶると音を立てて震えた気がした。
そんな僕のことはお構い無しに歩きだすモーガンを急がずトボトボと追いかける。
「はははは...」
笑い声が後ろから聞こえてきた。
振り返るとまだ休憩しているグループのヘッドライトが手元にあるカップを照らしていた。
そのカップからは美味しそうな湯気が漂っていた—

無いものは無い
「吐いても。うんこを漏らしても恥ずかしくないー」
トレッキングポールもないしネックウォーマーも無い。挙句水筒の中は凍っている。自分の状況に腹立たしさを覚えながら昨夜のモーガンの言葉を思い出していた。
「何が起こっても気にするな」
そんなことを言っていた気がする。
モーガンやエージェントのせいで今の状況になっている気もしたが気持ちを切り替えようと試みることにした。
「ヒーヒーフー」
こんな時は呼吸に集中するのが一番な。
「ヒーヒーフー」
(あ、なんか肩凝って来たぞ…)
水筒が二つ入ったリュックが僕の肩と背中に疲労を蓄積していた。
くそ、トレッキングポールがあれば...
(いかんいかん!無いものは無い。気にするな!)
自分に言い聞かせる。
時刻は3時。雪は深くなり分厚いトレッキングシューズのソールは完全に雪に埋まっている。
歩く度に一瞬ソールが後ろに滑るため、必要以上に足への疲労が溜まる。
くそ...トレッキングポールがあれば...
(だからダメダメ!無いものは無いんだって!)
徐々に上がる標高はすでに5,000mはゆうに超えており、僕の鼻から止めどなく鼻水を垂らさせては口髭と一緒に凍らすのだ。
その不快感を取り除くように無意識に、びしょ濡れの手袋で鼻下を触るが逆に分厚い手袋が口下を不快に濡らすだけだった。
くそ…ネックウォーマーがあれば...
(いかんいかん!無いものは無い!ネックウォーマーもないぞ!)
僕は自分に「無いものは無い」ということを言い聞かせながら、永遠に続いていく雪の斜面を登っていった—
諦めの選択肢もなく無い?
指先が凍っている。鼻先が痛い。ふくらはぎの疲労が半端じゃ無い。腹が減った。足首がふらつく。
もう何が辛いのか分からない状態になっていた。
そんな状況で進んでいると開けた斜面へと差し替った。
「はぁはぁ。進んで無い気がしたけど確実に進んでいたんだ。」その実感が少し嬉しかった。
景色の変化は歩みの実感をくれるのだ。
それと同時に果てしなく続く白い斜面がまだまだ道は続くということを視覚的に認識させてくる。
この時の標高は5,300mくらいだったと思う。
モーガンのペースに合わせて進んでいると、いつの間にか僕は多くの他グループを追い越していた。その証拠にこの道の先には先頭を走る登山者グループのヘッドライトの光しか見当たらない。
「俺が一人だから御構い無しに進んだんのか?ええ?」
心の中で毒づくが別に高山病の予兆もないのでそのままのスピードでついて行くことにした。(完全にはついていけずモーガンは割と距離を離してくるけど)
「あ、先頭まで追いついてしまった...」
そんな嬉しいのか嬉しく無いのかよく分からないことを思っていると、雪の斜面をすごい勢いで降ってくる何かが目に入った。
「あれ…タンカで誰か降りて来てるぞ?」
近づいてくる人影を見てそう思った。やがてその人影は僕の横を追い越していく。
そこには黒人男性2人が前後で持ったタンカの上に白人の女性が項垂れていた。
「5,000mを超えている。しかもこの雪だ。この先何が起こるか分からない—」
目の前を通り過ぎたその事実は、僕にそんなことを強く認識させた。
「どうか無事でありますように...」
ここまで登り頂上を前にリタイヤせざるおえなかった登山者に心のなかで手を合わせる。
そしてある事に気づいたのだ。
俺の周りにはモーガンしかいない。
もし、俺が「もう無理だ....」となったらどうなる?
来た道を振り返ってみる—
この真っ暗で急斜面の雪道を自力で下るなんて無理だと思った。
そして、先に行くモーガンを眺めてみる。
「こいつ100%緊急タンカなんか持ってねえ。」
諦めたらそれこそ地獄じゃねえか…
もうここまで来たら「諦めるなんて選択肢はない(物理的に)」と思った。
自分の置かれた状況が割と極まってることに少し笑う。
僕の目の前には真っ白な急斜面が続いていくのだった—
大合唱
「頑張れ俺」「I can do it」
諦めること自体不可能だと悟った僕は自分を自分で励ます言葉を呟いていた。
歩く道は雪がどんどん深くなっていく。
ただでさえ歩きにくい雪道は暗く、余計に僕の体力を奪く。
「ザクットボ…ザクットボ…」
必要以上に体力を使わないように、踏み出した右足の爪先に合わせるように左足の爪先を踏み出す。
こうする事で踏ん張る時に、靴が滑るのを最小限にできるのだ。
それでも氷点下を優に超えているだろう外気と横殴りの雪と足場の悪さは僕の体力を容赦なく奪ってくる。
奪われた体力は足にくる。特にふくらはぎ。
「ヒィーーヒィーヒィーフゥー」
僕は疲れを紛らすために深く息を吐く。
この呼吸のおかげか、高山病の症状が出てないのだけが救いだった。
吐く息に合わせて雪に足を沈めながら一歩一歩歩いていく。
ガクッ...
それもいつしか限界に達したのか急斜面の途中で膝が折れ進めなくなってしまった。
「もうダメだ...」
これまでも何度か「もう無理」と思った場面はあったが、5,500m地点で感じた気持ちは僕を絶望へと落とし込むものだった。
「はぁはぁ」気づくと酸素は明らかに薄くなっていた。
後で知ったがこの辺りは既に地上の半分以下の酸素濃度だったらしい。
「キツすぎる寒すぎる鼻水やばすぎる。しかも汗もやばすぎる」
僕はこれまで体感した事のない"とにかくやばすぎる状況"に理解が追いつかなくなってきた。
それでも、諦めることすら諦めなければいけない状況は進む以外選択肢はないのだ。
訳の分からない頭は本能的かつ機械的に雪の中から足を抜き更に前に進める。
その時だ。上からなにやら声が聴こえた。1人ではなくて複数人の声。
声の方を見上げると、先頭を歩いていたヘッドライトの列が見えた。
僕はその叫び声のような声に耳を澄ませてみた。
声はいつの間にか荒い息遣いを一つに束ね、軽快なリズムを携え旋律となって5,500mを越えたキリマンジャロに響き渡り始めた。
「これは歌だ。大合唱だ—」
暗闇の上方で連なるヘッドライトが奏でる大合唱が、周りの温度を急激に上げて明るい熱を帯びていた。
ヘッドライトの光とは違う灯りが灯っているようだった。
リズムに合わせ地面を掴むトレッキングポールもその大合唱の一部のように世界を一体的にしている。
何語なのかは分からない。
それでもその光景に僕は息をのんだ。
その大合唱は自分で自分を励ましていた僕の声を遥かに凌駕し、凍えそうな僕を不思議な暖かい気持ちにさせるのだ。
目の奥で何かが急ブレーキをかけたように「ドッ」とぶつかってくる感覚があった。
暖かい何か—
その暖かさは僕の涙腺を刺激する。
涙は出ない。
しかし、込み上げる気持ちは僕の中に"説明し難い希望"みたいな光を与えてくれた気がした。
【もしかしたら"歌"はこうやって生まれたのかもしれない】
冷たく今にも消えてしまいそうな僕の心はそんなことを思った。
【辛さや恐れを打ち消すために誰かが叫んだ言葉が音楽になったんだ。】
どこかで聞いたことがある言葉を思いだす。
【そして、昔から人は叫びを共有して音楽を使って辛さを乗り越えてきたんだ。】
僕はまた泣きそうになっていた。
歌の意味は分からない。でも、その光景の暖かさは僕の涙腺を刺激するのには十分すぎた。
ある意味この状況で僕は「人生で初めて歌の持つ力」に触れたような気がした。
歌は氷点下でも人間の涙腺に熱を持たせる力を持っている。
凄い力だ。
「負けるもんか。進めクソ野郎。」
そう自分に言い聞かせ大合唱に合わせて自分の意思で足を踏み出していく—
〜③へ続く〜
キリマンジャロ登頂アタック③「ピュレグミ」
