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『名だけが残る』 第零話 ・勿

  集中が途切れた、の言い訳で済ませられるなら、良かったのかもしれない。
〝数え間違い〟というのは、往々にしてそういった頃合いに起こるものだ。

  例えば何度も読んでしまう、小説の数行。主人公はガチャガチャと乱暴にドアノブを回し、扉を開き、一歩中へ進んではおもむろに振り返る。同じ行を幾度も読んでいるからその行為を繰り返し、主人公はいつしか、振り返る己の姿を見るかもしれない。
  筋張った首や、耳の形、次の一歩を進めようとした靴先。ガチャガチャうるさいドアノブの音は、前か後ろ、どちらから鳴るのか。

  例えば心を込めて、編んだ目の数。一、二、三、……、と数え続け、ふとした瞬間、五十四を二度数えたかもしれないと疑心暗鬼に陥り、また一に戻る。三十九で再びそれが起こったから、今度は数え方を変える。三、二(五)、三、二(十)、……、三、二(六十)だったか、三、二(七十五)だったか。幾度も数え直し、編み直し、作品は遅々として進まないのに、完成までの道程だけは、長く長く伸びゆくばかり。先が見えない。辿り着かない。もしかすると。
  ずっと。

  例えばいわく付きの階段は、十三や四十二や四十九であったり、或いはその数を違えてはならない。従来から齟齬があると、〝何かしら〟嫌な目に見舞われる。一段一段しっかりと踏みしめ数えている筈で、踏み外してしまったわけでもなく。
 
  一段、増える。
  或いは一段、減る。
  脈絡もなく、唐突に。

  〝いつもの日常〟と違ってしまったばかりに、とても。
  とても。
  嫌な目に。
  遭う。


  集中が途切れたから、などという言い訳は使えない。絶対数え間違えてはならない。一段上がる毎に覚えさせられた真言を唱え、カウンター代わりの数珠を繰る。
  決して、数え間違えるな。
  禁はそれだけ。

  が、一〇〇八段、あるのだ。

  傾斜は酷く、目視で数えられる段数なぞたかが知れている。阿僧祇の眼前に聳える壁と見紛う石段は、歪にひび割れ苔むし、脆く見えながらも何とも言えない威圧感を放っていた。

  思えば、僧侶や仏教に縁もないのに〝阿僧祇〟と名付けられた因果なのかもしれない。
  阿僧祇は、〝勿の階段〟と呼ばれる古びた石段下に立っている。
  何を禁止されているのかと言えば〝数え間違える事〟らしい。らしい、というのは、禁を犯した際に被る罰則が、定かではないからだ。

  曰く、大怪我をしたとか。
  曰く、口に出来ない程の怪異に遭ったとか。
  曰く、死に至った、とか。

  何れも眉唾物の定石よろしく、出処不明な〝障り〟ばかりが囁かれていたが、いわくの大元が共通している事から禁自体にはあたりがついており、さらには障りを最小限に留める為の鎮めの作法もまかり通っていたので、禁の信憑性は増していた。
  作法の名を〝勿参り〟という。

  伝えられる段数凡そ一〇〇八段を、一段も数え間違える事なく上り、頂上に建立すると噂される廃寺へ、繰っていた数珠を奉納する。その作法を遂行するの者が参詣人と呼ばれ、阿僧祇は、今期のそれだった。

 
  日は暮れたばかりであるのに、睨め付けるように見上げた先は闇が色濃く、頂上の廃寺はその気配さえ窺わせない。

  詰めた息を吐いたと同時、阿僧祇は思う。

  何故、自分なのか。
  阿僧祇という名は確かに珍しく、如何にも関連があるようで、参詣人に相応しく思える。
  が、歴代の参詣人が、阿僧祇のように名の響きで選ばれた事実はない。

  ない、と思う。

  思うが、それ以前に。

  自分は〝いつから〟阿僧祇なのだろう、と。

  あったのは、己の役割と阿僧祇という名だけ。
  夜風を凌げる装束と履物だけ。
  教えられた真言、カウンターであり奉納品の数珠、だけ。

  阿僧祇には、ここに立つ以前の阿僧祇の記憶が、ない。

  ドクッ、と一度。全身が拍動した気がする。

  どうやって来たのか、誰に〝勿参り〟や真言を教わったのか、誰に選ばれたのか、誰から一粒一粒組んだ数珠を渡されたのか。

  そういった事が、何も。
  なかった。

  呼気が僅かに震え出す。

  こわい、と阿僧祇は思う。

  名と役割と目的だけがあり、逃げる術がない事に気づいたから。   
  逃げたとて、先がないから。

  阿僧祇には、上る石段しかない。
  それしか、残されていない。

  未だ震える己の呼気を耳に木霊させながら、阿僧祇は一歩、石段を踏みしめる。口にした真言は掠れたが、途端、脳裏で像が弾けた。

  一粒一粒数珠玉を摘む指先。
  上がる口角。
  阿僧祇の身を案じる言葉。

  今のは?

  一段上りきり、数珠の珠一つを繰る。すべすべした、黒い実のような。種が中にあるのか、カラッとくぐもった音がした。

  この音を、阿僧祇は知っている。
  参詣人である自分の為に、誰かがこの数珠を組んでくれた。

  記憶、なのかもしれない。

  相変わらず闇深い先を、阿僧祇は見据える。一段上ったぐらいでは、その景色が変わる事はない、が。

  一つ、記憶めく像を得た阿僧祇は、確かに変わったから。

  上るしかない。
  間違えずに。
  一段一段、確実に。

  鎮める為に。
  取り戻す為に。

  ただ、振り返る事はしないでおこう、と阿僧祇は思った。
  もしも、自分の首筋や耳の輪郭や、上ろうと腿を上げた自分の脚が見えてしまったら。

  こわい、

  から。

【了】

・本記事は生成AIの学習目的での利用を想定していません。
・無断転載・再利用はご遠慮下さい。
・こちらは、作者の意図しない二次利用を防ぐための表記です。
2026/01/01 脱稿
2026/01/05 若干の加筆修正

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