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【エッセイ】明日はおまえ、死ぬる身じゃな (改訂版)

※本記事は過去に投稿したものを大幅に改訂したものです。


私は消防士だった。



1995年1月、神戸市長田区。

救助隊として現場に到着したのは、発災から4日が経過した朝だった。

焦げた匂いと、行き場を失った声だけが残っていた。

ようやく掴んだその手の冷たさは、厚いグローブをとおして私の体温を容赦なく奪い、芯まで冷やした。

4日という時間は、命から温度だけを正確に奪っていく。

もう、戻らなかった。


2011年3月、宮城県亘理郡。

ここでも私は救急隊として、4日の空白を抱えて現場に立った。

泥に覆われた静寂が、潮の匂いとともに全てを飲み込んでいた。

もし、もう少し早く辿り着けていれば。

差は、わずかだったのかもしれない。
だが、そのわずかが、越えられなかった。

私たちは、時間のあとにしか辿り着けない。




最初に叩き込まれることがある。

「生きて帰ること」だ。

”自分が要救助者になるな”
”二人に増やすな”

理屈は正しい。 だが、それでも壊れる。


海岸に近い崩落現場で、仲間を見た。

彼らは大きな揺れが来るたびに、身体を近くの固定物に結着していた。

助かるためではない。

流されないためだ。


「正しさ」は、あとから来る。

身体が役割に引っ張られる。




「明日はおまえ、死ぬる身じゃな」


池波正太郎『真田太平記』の冒頭、女忍び・お江はそう言う。

私は現場で何度も聞いた気がしている。

お江は死を前にした男のそばに立つ。
未来は渡さない。

触れる距離にいる。
「今」だけだ。

彼女は、理屈も未来もない場所に、ただ黙って立っている。



かつて私は、生きて帰ることを最優先にする立場でこの言葉を読んできた。

だが、いまは少し違う。

私たちは「遅れて」やってくる。

「明日はおまえ、死ぬる身じゃな」

あの一行は、いまも手の中に残っている。




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