短編小説『サトリ 第1話 〜会う気がします〜』
夕方のカフェは騒がしい。
駅前のスクランブル交差点を見下ろす2階席は、仕事帰りの会社員や学生でほとんど埋まっていた。
ナオトは窓際の席でノートパソコンを開いていた。
画面には論文の草稿。
タイトルはまだ仮題のままだ。
『都市交差点における歩行者行動と事故遭遇率の相関について』
本文には、いくつかの単語が並んでいる。
スクランブル交差点。
視認性。
群衆心理。
事故遭遇率。
そして。
逢魔が時。
最後だけ、どう考えても浮いていた。
ナオト自身もそう思う。
学術論文に書く言葉ではない。
だが、調査を進めるほど、その時間帯だけ説明のつかない偏りが現れる。
研究室の教授は笑っていた。
もっともだと思う。
逢魔が時などと書けば査読で落とされる。
だがナオトは、その言葉を消せずにいた。
窓の向こうでは信号が赤から青へ変わる。
大勢の人が一斉に動き出す。
まるで巨大な生き物のようだった。
そんなことを考えていると、
視界の端に人影が止まった。
「ここ、空いていますか?」
女性の声だった。
ナオトは顔を上げた。
高校生。
黒髪。
制服姿。
手には文庫本を一冊持っている。
店内は満席に近かった。
向かいの席だけが空いている。
「どうぞ」
ナオトが言うと、
少女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
席につく。
それだけなのに。
なぜか周囲の音が遠くなった気がした。
少女は本を開く。
ナオトは画面へ視線を戻した。
数分後。
向かいから声がした。
「逢魔が時、ですか」
ナオトの指が止まる。
少女は本から目を離していない。
まるで独り言のような口調だった。
「え?」
「その単語です」
少女はリンゴのロゴを見ていた。
「ん!?」
「珍しいなと思いました」
ナオトは苦笑した。
「研究には関係ないんだけどね」
「そうでしょうか」
少女は首をかしげる。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
「むしろ、いちばん関係がある気もします」
窓の外では信号が変わる。
人の流れが再び交差する。
夕暮れがガラスに映り込み、
少女の表情を曖昧にした。
「いちばん関係がある、か」
ナオトは画面を見ながら苦笑した。
「教授に聞かれたら怒られそうだな」
「そうかもしれません」
少女は素直にうなずいた。
「たぶん、『ちゃんとした言葉を使いなさい』って言われます」
ナオトは思わず笑った。
まるで聞いていたみたいだ。
ついさっき、教授に似たようなことを言われたばかりだった。
だが、まあ。
よくある話でもある。
気にするほどではない。
少女は再び本に目を落とした。
会話は終わったらしい。
ナオトもレポートに戻る。
数分が過ぎた。
キーボードを打つ音。
カップの触れ合う音。
誰かの笑い声。
店内は騒がしいのに、どこか眠かった。
ふと。
向かいの少女がページをめくりながら言った。
「事故のことを考えるの、好きなんですか?」
ナオトは顔を上げた。
「好きじゃないよ」
「ですよね」
少女はうなずく。
「少し安心しました」
「安心?」
「好きな人だったら、たぶん話が合いません」
さらりと言う。
失礼なようでいて、不思議と嫌味がない。
ナオトは肩をすくめた。
「研究だからね」
「はい」
「事故を減らしたいんだ」
少女はしばらく黙った。
窓の外を見ている。
交差点の向こう。
沈みかけた太陽。
赤信号。
待っている人たち。
その横顔が少しだけ寂しそうに見えた。
「減るといいですね」
彼女は言った。
「誰かが悲しい思いをする回数が」
ナオトは返事に困った。
普通なら、
事故件数。
統計。
安全性。
そういう言葉になる。
だが彼女は違った。
数字ではなく、
悲しい思いをする回数。
そう言った。
研究の本質を言い当てられたような気がして、少し居心地が悪い。
少女はそこで話を終えた。
本を読む。
静かだ。
なのに妙に存在感がある。
ナオトは気を取り直して画面を見る。
しばらくして、ふと思った。
そういえば。
彼女は何を読んでいるのだろう。
文庫本の表紙は紙のカバーで隠されている。
題名が見えない。
気になった。
別に聞くほどではない。
だが少し気になる。
すると。
「推理小説です」
少女が言った。
ナオトの手が止まった。
「え?」
「気になったでしょう?」
少女は本から目を離さない。
「何を読んでいるのかなって」
ナオトは瞬きをした。
たまたまだ。
そういうこともある。
気まずそうに笑う。
「顔に出てた?」
「たぶん」
少女は小さく笑った。
「出ていた気がします」
その言い方が妙だった。
見えた、とも。
分かった、とも。
言わない。
ただ、
そんな気がします、と言う。
まるで逃げ道を残しているみたいに。
ナオトはコーヒーを一口飲んだ。
なんだろう。
変な子だ。
ナオトは初めて思った。
この子は。
いったい何を見ているんだろう、と。
だが不快ではない。
むしろ。
もう少し話してみたい気がする。
そう思った瞬間。
少女がぽつりと言った。
「大丈夫ですよ」
「何が?」
「変な子だなって思われるのは、慣れていますから」
ナオトは咳き込んだ。
コーヒーが変なところに入った。
少女は慌てる。
「あ、ごめんなさい」
「いや……」
ナオトは咳き込みながら顔を上げた。
少女も少し困った顔をしていた。
そして。
本当に少しだけ照れたように笑った。
「当たると、たまに困ります」
少女はそう言って視線を落とした。
ナオトはしばらく何も言えなかった。
偶然。
そう片付けるには続きすぎている。
だが追及するほどのことでもない。
そんな曖昧な違和感。
少女は何事もなかったように本を読んでいる。
結局、ナオトが折れた。
「君さ」
「はい」
「名前は?」
少女は顔を上げた。
少し驚いたような表情。
それから小さく笑う。
「サトリです」
ナオトは固まった。
つづく
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