『ヴォラーレ 〜飛べないあたし〜』
地中海は、青かった。
空も海も、沖を走る白い船の航跡も、強い陽射しの中で青に溶けていた。
心まで青に染まっていく。
あたしは、ひとりでアマルフィの街を歩いていた。
海から一本入ると、道は急に狭くなる。白や淡い黄色の家々が肩を寄せ、頭上では小さなバルコニーから花が垂れていた。石畳の路地を抜けるたび、また階段が現れる。
店先には、黄色いレモンが山になっていた。
瓶に詰められたリモンチェッロ。
青や黄色の陶器。
革のサンダル。
手漉きのアマルフィ紙。
どれも眩しいくらいに、この街の色をしていた。
ドゥオーモの前では、人々が立ち止まり、写真を撮り、笑っていた。大階段の向こうで、金色を含んだファサードが午後の日を跳ね返している。
あたしだけが、少し場違いだった。
「いつか、ふたりで来よう」
そう言ったのは、あなたなのに。
路地を抜け、海の見える小さなカフェを見つけた。
テラスのいちばん端の席に座る。
白いカモメが一羽、青い海の上をゆっくり横切った。
「みゃあ」
猫みたいな声が、風に流れた。
隣の椅子は空いたまま。
あなたが座るはずだった場所に午後の陽ざしだけが落ち、風が吹くたび、白いテーブルクロスの端がわずかに持ち上がった。
髪が頬にかかった。
あたしはそれを耳にかけ、ワインをひと口飲んだ。
ねえ。
ふたりで来ようって、言ったじゃない。
どうして。
どうして、あなたはいないの。
そのとき、遠くで低い音が鳴った。
ドン。
少し間を置いて、もう一度。
ドドン。
あたしは顔を上げた。
音は坂の向こうから聞こえてくる。腹の底に響く大太鼓の音に、やがて乾いた小太鼓の連打が重なった。
タカタカタカタカッ。
さらにトランペットが加わり、何人もの歌声と笑い声が入り混じった。
音は近づいてくる。
どんどん大きくなる。
やがて坂の向こうから、大きな旗が現れた。
その下から、次々と人が姿を現す。
揃いのユニフォームを着た、地元サッカーチームのサポーターたちだった。
どうやら試合に勝ったらしい。
それも、ものすごく勝ったらしい。
グランカッサを腹にくくりつけた大男が、汗でシャツを肌に張りつかせながら、全身を使って太鼓を叩いている。
その隣では、ルッランテを肩から下げた若者が腕を振り切る勢いで連打していた。
トランペットを吹く老人は顔を真っ赤にし、ときどき盛大に音を外した。
しかし、誰も気にしていない。
アコースティックギターを抱えた男は、弦が切れそうなほど激しく掻き鳴らしている。
肩を組んだ男たちは汗まみれで跳ね、女たちは髪を振り乱して踊っていた。子どもたちは大きな旗を振りながら、その隙間を走り回っている。
誰かがビールをこぼした。
別の誰かがその上で滑った。
大笑いが起きた。
犬が吠えた。
その後ろを猫がついてきた。
二階の窓からは、おばあちゃんが身を乗り出して何かを叫んでいる。
店の主人が仕事の手を止め、入口へ出てきた。
サポーターの列が店の前まで来る頃には、もう誰が客で、誰が店員で、誰がただの通行人なのか分からなくなっていた。
街そのものが、少しずつ熱に浮かされていく。
屋根の上で休んでいたカモメたちが、騒ぎに驚いたように一斉に飛び立った。
その瞬間。
アコースティックギターの男が、聞き覚えのあるイントロを掻き鳴らした。
ヴォラーレ!!
うおおおおおおっ!!!
通りが、ほんとうに爆発した。
店の客が総立ちになる。
ウェイターがトレイを放る。
隣の老夫婦が肩を組む。
知らないおっさん同士が抱き合う。
さっきまで上品にワインを飲んでいた隣の女まで椅子の上に立っている。
二階の窓のばばあが、両手を振り回して叫んでいる。
犬が吠える。
子どもが跳ねる。
誰かがビールをぶちまける。
グランカッサが鳴る。
ドン!
ドドン!
ルッランテが煽る。
タカタカタカタカッ!
トランペットのじじいは、もう音程なんか知ったことかと吹きまくる。
「ヴォラーレ!」
また歓声。
あつい。
うるさい。
汗臭い。
……….
なんだこれ。
最高じゃん!
あたしの悲劇?
知らん。
そんなもん、どっか行け。
海から風がぶつかってきた。
上空を旋回していたカモメが、風に乗った。
みゃあ!
みゃあ!
飛んだ。
仕事の書類が飛んだ。
ネクタイが飛んだ。
帽子が飛んだ。
羽さんのブラが飛んだ。
おやじのヅラが飛んだ。
生卵が飛んだ。
誰も拾わない。
誰も止めない。
もっと飛べ。
全部飛べ。
こんなもん、全部いらん!
思い出なんか、いらん!
「ヴォラーレ!」
あたしも立った。
椅子を蹴った。
ワインなんかもう知らん。
サングラスを外した。
肩にかけていた薄手のシャツが、風にさらわれた。
髪をかき上げた。
両手を思いきり広げた。
来い。
風。
もっと来い。
ヴォラーレ!!
髪がぐちゃぐちゃになる。
ワンピースがばたばた鳴る。
カモメが飛ぶ。
紙が飛ぶ。
ネクタイが飛ぶ。
ブラが飛ぶ。
ヅラが飛ぶ。
卵も飛ぶ。
みんな飛んでいく。
みんな自由だ。
よし。
あたしも。
飛べ~~~!

飛べ!
飛べって!
……。
飛ばない。
「あれ?」
もう一度、両手を広げた。
風は来ている。
かなり来ている。
ワンピの裾なんか大変なことになっている。
なのに。
飛ばない。
「なんでやねん!」
テーブルの上でスマホが震えた。
あなた。
『ほんとごめん』
『パスポート切れていて』
あたしは無言で画面を見た。
ヴォラーレ!!
後ろでばばあが叫んでる。
また震えた。
『あと、おみやげ』
『レモン味のなんかでいい』
……。
ブラが飛んでく。
ヅラも飛んでく。
カモメも飛んでく。
ネクタイも。
仕事の紙も。
みんな飛んでいく。
あたしだけ飛べない。
ああ。
分かった。
間違いない。
こいつだ。
こいつが重い。
帰ったら、覚えてろ。
あたしはテーブルのレモンをつかんだ。
そして、
握りつぶした。
おわり

あとがき
読んで元気に。
たび.のビタミン。ꉂ(ˊᗜˋ*)
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