空區地車の力学149.【望郷編】お墓参り(1)治定編
本住吉神社例大祭で地車を曳き、いつしか子供会の綱を担当するようになってから、例大祭の意味や本住吉神社について調べるようになった。というのも子供たちから様々な質問を浴びせられ「知らんし」とは言えない状況に置かれたからだ。
まずはお墓参り
本ブログの148でも書いたが、本住吉神社に祀られているのは「住吉三神・住吉大神」といわれている三柱の神様と、人間である「神功皇后(じんぐうこうごう)」だ。住吉の若中なら誰でも知っている。

神功皇后は架空の人物説もあるが、本住吉神社が建立された約1800年前には、人間から神様へと神格化されている。しかし元は人間なので、亡くなればお墓に入る。
神功皇后は、朝鮮半島への三韓征伐を指揮した日本を代表する女傑であり、ヤマト王権の中心人物。それだけに立派なお墓が奈良市山陵町(みささぎちょう)の佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)に残っている。
神功皇后の旦那である第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)や、二人の間に生まれた第15代 応神天皇(おうじんてんのう)とその皇后の墓は、羽曳野市から藤井寺市に跨る「古市古墳群」にある。またその子供の第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)、さらにその子供の長男・第17代 履中天皇(りちゅうてんのう)、三男・第18代 反正天皇(はんぜいてんのう)の墓とされる古墳は堺市の「百舌鳥古墳群」に残っており、四男坊の第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)の墓は「古市古墳群」にある。
神功皇后に纏わる人々の墓は、奈良県から大阪府古市、百舌鳥へと、時と共に繋がってゆき、古墳時代の前方後円墳の変遷を目の当たりにすることができる。
話は逸れるが、私は大阪府河南町にある大学に片道2時間半かけ4年間通っていた。府外の学生はたいてい大学近くの河南町や富田林市、羽曳野市、藤井寺市に下宿していた。それもあり彼らと連んで、石川の河川敷でPLの花火を見たり、ガラガラの藤井寺球場・外野席で近鉄戦を見ながらビールを飲んだりもしたが、古市古墳群には一度も行ったことがない。1800年前に神功皇后一行の船団が、朝鮮半島から奈良の都への帰還に、この大和川水系の1級河川である石川を遡ったかもしれないのにだ。。。
社会人になってからは取引先が堺東にあり、多い時には週一で訪問しているが、百舌鳥古墳群にも一度も行ったことがない。否、正解には古墳横に営業車を止めて寝ていたことはあるが、柵に覆われた森が履中天皇陵だったことは梅雨ぞ知らなかった。
さらに娘が奈良市の学校に通っていたので学園祭には行ったが、佐紀盾列古墳群には一度も行ったことがない。
しかし空區子供会の綱を担当するようになり「まずはお墓参り」ということで、20年ほど前から神功皇后関連の古墳巡りをするようになった。
初めて古墳を訪れた時は駐車場ありきで車で行ったが、いずれの古墳群にも近くに駐車場がない。しかも古墳に近づけば近づくほど道が狭くなる。また古墳を一周回るだけで途轍もなく歩かなければならないことを肌身で知った。というのも古墳は一周しないと全貌が掴めないからだ。例えば仁徳天皇陵を一周すると約3kmも歩かなければならない。

また古墳はたいてい小高い所にある。谷底にはない。それゆえ駐車場から登り坂を歩くことになる。そんなことから以降は車に自転車を積み込み、観光課で案内パンフレットをもらい、自転車で巡ることにしている。
当初は神功皇后関連の墓を巡るだけのつもりだったが、外観は単なる濠に囲まれた森なのに一つ一つ顔が違い、見ているだけで面白い。巡ると意外に古墳散策をする老若男女(古墳女子に限らず)が多いことにも驚いた。
自転車という機動力を得たことで目的の古墳近くに点在する古墳も併せて巡るようになり、古墳群全部制覇を目指すようにもなった。いずれの古墳群も該当の古墳数が多く、一日では到底巡り切れない。ちなみに百舌鳥古墳群全部制覇には、2回目から自転車を導入したにもかかわらず、延べ3日間もかかった。不甲斐ないことに2026年春現在、百舌鳥古墳群全部制覇しかできていない。
日本に現存する古墳は15~16万基といわれている。一生かかっても到底回り切れる数ではない。その中で神功皇后関連の古墳はヤマト王権の当事者、もしくは深い関わりを持つランクの高い首長ばかりで、ありがたいことに佐紀盾列古墳群(奈良市)、百舌鳥・古市古墳群(堺市、藤井寺市、羽曳野市)にかたまっている。
ちなみに古墳の形状は10以上あるが代表的なのが以下の4つ。神功皇后関係者は天皇家ご一統様なので、いずれも前方後円墳であり宮内庁が管理する国指定の遺跡になっている。

※以降の添付の古墳写真は地上からの写真は私が撮ったもの、空撮および寸法は現地の案内看板より引用、地図はGoogleマップなどから転用した。
神功皇后陵(じんぐうこうごう)
空區地車のヒロインと言えば神功皇后だ。何度も紹介しているが空區地車の後ろ幕には神功皇后合戦記が描かれている。
神功皇后は明治の頃までは、教科書に載り、紙幣にまでなった方で「日本書紀」や中国史書の「宋書」では第15代天皇であるがごとく書かれている。しかし、明治以降は不在説が支持されるようになり、いまだに論争は続いている。
まず神功皇后の系譜を見てみよう。お墓参りはこの辺りから攻めるのが王道とみた。こう見ると東灘区の地車後ろ幕関係では下記の色付きは必須になる(東灘区の地車後ろ幕については本ブログ148参照)。

本住吉神社の神様となられた神功皇后のお墓を、宮内庁は「狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)」に治定(じじょう)しており、考古学的には「五社神(ごさし)古墳」と呼ばれている。
治定とは宮内庁が決定的、必然的であると認めたことで、エビデンスはともかくも宮内庁としては「この古墳に間違いない、決めた」という沙汰である。墓を掘り返せば、かなりの確率で被葬者を確定できるのだが、自由に調査が行われてしまうとお墓がざわつくし、天皇家について不都合が出るやもしれない事案につき、何人たりとも発掘調査はできない。
宮内庁が治定すると、例えば神功皇后陵は「狭城盾列池上陵」と名前が付く。科学的根拠に基づく考古学的には神功皇后陵とは断定できないので「五社神古墳」と呼ばれている。
よって私の神功皇后関連のお墓参りは、基本的には宮内庁の治定に基づき行ない、一部私の思いこみも含めて「被葬者はたぶんこの方だろう」と決めつけてお墓参りをしている。
神功皇后陵(五社神古墳)に初めてお墓参りをしたのは20年ほど前になり、この時が私の古墳巡りのスタートになる。この時はあまりの荘厳さに拝所のみで満足してしまった。2度目のお墓参りで外周を歩くことにしたが、Googleマップで見ると古墳の形が前方後円形で左右非対称。後円部の先は途切れていた。実際に歩くと民家や畑の一部になっており大回りを余儀なくされた。前方部(拝所)を南方向に向けており、全長は約267mある。墳丘は後円部が4段築成、前方部が3段築成で、その大きさは全国でも第12位を誇る。佐紀盾列古墳群では最後の巨大前方後円墳ということだ。
周りから見ると神功皇后陵は小高い所にあるのに、水をためた濠に囲まれている。しかも造営から1500年以上経つのに濠の水が枯れていない。このあと他の古墳にも行くが、濠を持つ古墳はたいてい小高い所に造られているにも拘らず水をたたえており、古墳時代の高い治水技術に驚く。


第14代 仲哀天皇陵(ちゅうあいてんのう)
神功皇后の夫は、第14代 仲哀天皇。神功皇后は仲哀天皇と結婚し子を授かる。これにより仲哀天皇と先の后との間に産まれた子供たちとの次期天皇の座を巡る抗争が勃発することになる。もちろん仲哀天皇はこの抗争の火種である。詳細は次号へと引き継ぐこととする。
その仲哀天皇のお墓は藤井寺市の古市古墳群にある。宮内庁は「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)」に治定しており、考古学的には「岡ミサンザイ古墳」という。全長約242m、全国で14番目の大きさの前方後円墳だ。ちなみに「ミサンザイ」とは貴人の墓を意味する「みささぎ(陵)」の転訛(てんか・本来の発音がなまって変わること)といわれる。

しかし、岡ミサンザイ古墳以外にも仲哀天皇のお墓とみる考古学者がいる。候補のひとつめは、第15代 応神天皇の奥方の仲姫命(なかつひめのみこと)のお墓を宮内庁は「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」に治定しているが、第14代 仲哀天皇の陵墓であるとする説だ。考古学的には「仲ツ山(なかつやま)古墳」と呼ばれるが、古市古墳群では2番目、全国でも9番目の大きさを誇る。

墳丘は三段築成、台地の最高所にあるため周濠は空濠に近い湿地帯
候補ふたつめは、同じ古市古墳群にある「津堂城山(つどうしろやま)古墳」。宮内庁は「第19代 允恭天皇陵」の陵墓参考地に治定しているが、仲哀天皇陵という学者もいる。津堂城山古墳は陵墓参考地なので拝所もなく、古墳内に神社があり自由に散歩ができる。

墳丘長208m、高さ16.9m二重の周濠(中堤幅30m、外濠25m)がある

日本武尊陵(やまとたけるのみこと)
第14代 仲哀天皇の父は日本武尊。第12代 景行天皇の息子で、熊襲征討・東国征討を行ったとされる英雄だ。
『日本書紀』では、日本武尊は伊勢で亡くなり、魂は白鳥となって飛び去ったとされる。白鳥は羽を休めるため3度留まったが、その3箇所に陵(お墓)を築いた。宮内庁はこの3つを白鳥陵(しらとりのみささぎ)として日本武尊陵に治定している。いずれも前方後円墳である。
①能褒野(のぼの)王塚古墳:三重県亀山市にあり、最初に葬られた場所とされており、遺骨が眠るお墓ということになる。日本武尊は白鳥となってこの地で羽を休めた後、飛び立ったとされる。
②琴弾原(ことひきのはら)白鳥陵:奈良県御所市にあり、三重県亀山市から最初に舞い降りた場所。

前方部 幅約165m、三段築成で幅の広い周濠を持っていた
③古市(ふるいち)白鳥陵:大阪府羽曳野(はびきの)市にあり、最後に舞い降りた場所。白鳥陵古墳(軽里大塚古墳・かるさとおおつかこふん)と呼ばれている。ちなみに羽曳野の地名は、羽を休めた白鳥が空へ向かって「羽を曳くように」飛び去ったという伝説が由来とされている。

全長約200m、前方部幅約165m、後円部径約106m
つまり①の能褒野王塚古墳が遺骨が眠るお墓であり、②③の白鳥陵はもしかすると分骨されていたのかもしれないが空墓ということになる。ちなみに私は①の能褒野王塚古墳は、まだ見たことがない。したがって私の写真ライブラリーにはない。
私が敬愛してやまない考古学者・森浩一氏は、津堂城山古墳が仲哀天皇の父「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の墓であり、古墳の築造者として仲哀天皇の息子の「忍熊王(おしくまのみこ)」(神功皇后と応神天皇に対して義兄である麛坂王(かごさかのみこ)と共に反乱を起こした)を挙げている。空區地車後ろ幕でおなじみの忍熊王と、麛坂王のお墓参りについては後述する。

森浩一氏と宮崎康平氏の著書に触れ、考古学に興味を持つようになった
第15代 応神天皇陵(おうじんてんのう)
仲哀天皇と神功皇后の間に生まれたのが第15代 応神天皇。応神天皇のお墓を宮内庁は「恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのりょう)」に治定しており、考古学的には「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」という。第16代 仁徳天皇陵に次ぐ全国第2位の規模を誇る巨大な前方後円墳で、周りには二重の濠をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48mの中提があるため、This is 古墳という写真を撮る位置には近づけず、また民家も濠ギリギリまで攻めているので自転車で1週回るも全貌を地上から見ることはできなかった。

拝所からかろうじて濠と陵の稜線が見える
第16代 仁徳天皇陵(にんとくてんのう)
第15代 応神天皇の子供は、第16代 仁徳天皇。神功皇后の孫にあたる仁徳天皇のお墓は堺市の百舌鳥古墳群にあり、宮内庁は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」に治定しており、考古学的には「大仙陵(だいせんりょう)古墳」もしくは「大山(だいせん、大仙)古墳」という。墳丘長は約486m。3重の濠に囲まれ、日本一の面積を誇る。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝と並び、世界3大墳墓の一つに数えられる。小学校の教科書にも載っていたので、その名と空撮の写真はいまだに記憶にある。

墳丘長525m、高さ39.8m(後円部)
仁徳天皇皇后 磐之媛命陵(いわのひめのみこと)
仁徳天皇皇后の磐之媛命のお墓は、佐紀盾列古墳群の西に位置し、宮内庁により「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として治定されている「ヒシアゲ古墳」だ。磐之媛命は葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の娘で武内宿禰(たけしうちのすくね)の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった最初の例とされる。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中、住吉仲皇子、反正、允恭)の母である。
武内宿禰は神功皇后の忠臣として政権に大きな力を持つキーパーソンだ。空區地車の後ろ幕でもおなじみの方で、武内宿禰のお墓参りは必須だ。のちに紹介しようと思う。

全長219m、後円部径124m、後円部高さ16.2m、前方部幅145m、前方部高さ13.6m
第17代 履中天皇陵(りちゅうてんのう)
仁徳天皇と磐之媛命の第一子、神功皇后のひ孫にあたる第17代 履中天皇(りちゅうてんのう)のお墓は百舌鳥古墳群にあり、宮内庁から「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」と治定されており、考古学的には「上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)」、または「ミサンザイ古墳」とも呼ばれている。全国第3位の規模を誇る巨大古墳だ。

墳丘は3段筑成で盾形の濠を有する
第18代 反正天皇陵(はんぜいてんのう)
仁徳天皇と磐之媛命の第三子である第18代 反正天皇のお墓も百舌鳥古墳群にある。宮内庁は「百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」として第18代 反正天皇陵に治定している。考古学的には「田出井山(たでいやま)古墳」という。

墳丘は3段築成で盾形の濠を有する
同じ百舌鳥古墳群にある「土師(はぜ)ニサンザイ古墳」を宮内庁は「東百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:反正天皇の空墓)に治定している。宮内庁は「田出井山古墳」を反正天皇陵に治定しているが、土師ニサンザイ古墳の方が約4倍の大きさであることから土師ニサンザイ古墳の方を反正天皇陵とする説もある。

墳丘長290m(推定復元300m以上)墳丘は3段築成で盾形の濠を有する
第19代 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
仁徳天皇と磐之媛命の第四子である第19代 允恭天皇のお墓は古市古墳群にある「市ノ山古墳(いちのやまこふん)」を、宮内庁は「恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」に治定している。一方で宮内庁は、同じく古市古墳群にある「津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)」を「允恭天皇陵」の陵墓参考地にも治定している。


以上が神功皇后関連で宮内庁から治定されているお墓である。
神功皇后の孫まで見てきたが、次号では神功皇后関連で「治定」ではなく「比定(ひてい)」されているお墓参りの話をしようと思う。
次号ではついに空區地車後ろ幕に登場する、神功皇后に謀反を起こす忍熊王と麛坂王、撃破する神功皇后の忠臣・武内宿禰のお墓参りとなる。
それはまた明日のココロなのだ~♪
