【小説】海のパッカ
「波の音、あつめてるの」
アオは今日も海を見つめる。
その町の人々は、誰もが小さなガラス瓶を一つ、大切に持って暮らしていた。瓶の大きさは手のひらに収まるくらいで、形は人それぞれ。丸いもの、四角いもの、少し歪んだもの。けれど共通しているのは、中に何かが入っているわけではないということだ。空っぽの瓶を、みんな首から下げたり、ポケットに入れたりして持ち歩いている。
ただ一人、五歳のアオという男の子だけは、瓶を持っていなかった。
「アオ、お前の瓶はどこへやったんだい?」
近所のおじいさんが、砂浜でしゃがみ込んでいるアオに尋ねた。アオはしましまのTシャツにキャップという、いつものお気に入りの格好をしていた。
「ぼくの瓶ね、海におっこちちゃったの。だから、もうないんだ」
アオは屈託のない笑顔で答えた。
この町では、物心がつく頃に“音の瓶”を両親から授かる。その瓶に、日々の暮らしの中で心地よい音を閉じ込めるのだ。雨の音、風の音、愛する人の笑い声。そうして集めた音は、心が寂しくなったときに蓋を開ければ、いつでも自分を温めてくれる。
瓶を無くしたというアオは、この町では少し風変わりな存在だ。けれど、本人はちっとも困っている様子はなかった。
「瓶がなくてもね、ぼくにはこれがあるもん」
そう言って、自分の小さな両手を広げてみせる。
アオには、聞こえていた。海が届ける特別な音が。町の人々はそれを“波の音”と一括りにしていたが、アオに言わせれば、波の音には何百、何千もの種類があった。
ザザーン、という大きな音。
シュワシュワ、という泡の消える音。
コトコト、という小石が転がる音。
それらの中に時折、とても小さく、けれどはっきりと混ざる、パッカという不思議な音。
「あ、きた」
アオは立ち上がり、波打ち際へと歩みを進めた。 目の前には、どこまでも青い海が広がっている。遠くにはうっすらと島の影が見え、空には白い雲が浮かんでいた。
寄せては返す波のギリギリのところに立った。濡れた砂が靴底を少しだけ沈ませる。 アオは、ふう、と息を吸い込むと、両手を大きく左右に広げた。まるで、目の前の大きな海を丸ごと抱きしめようとするかのように。
──パッカ……パッカ……
アオは耳を澄ませる。 普通の人間なら、押し寄せる大音量の潮騒にかき消されてしまうような、微小な音。
両手を広げると、アオの十本の指先が、ほんのりと金色に光るのだ。そして、海から流れてきたパッカという音が、広げた手のひらの間に目に見えない光の粒となって集まってくる。
「つかまえた」
優しく両手を胸の前で合わせ、捕まえた音をそっと自分の胸に吸い込ませる。 アオの体は、この特別な音、パッカを貯めておく、世界で一つだけの生きた瓶だ。
しかし、光はパッカが聞こえない者の目には映らない。だからまたアオは「おかしなことをやってるなぁ」と呆れたように笑われるのだった。
ある日の夕方、アオがいつものように海で音を集めていると、砂浜に一人の女の子が座り込んでいた。 年の頃はアオよりもう少し上だろうか。女の子は、手の中にある四角いガラス瓶をじっと見つめながらぽろぽろと涙を流していた。
アオはトコトコと近づいて、女の子の隣にしゃがみ込んだ。
「どうしたの? どこか痛いの?」
女の子は、涙で濡れた顔を上げて、小さな声で言った。
「おばあちゃんがね、遠い病院にいっちゃったの。もうずっと、帰ってこないかもしれないんだって。おばあちゃん、いつも優しく笑ってくれたのに……。瓶の中に、おばあちゃんの笑い声、いっぱいいれてあったのに……」
女の子が差し出した瓶は、ひび割れていた。 転んだ拍子に石にぶつけてしまったのだという。蓋は閉まっているのに、ひびの隙間から、おばあちゃんの温かい笑い声が、シュウシュウと頼りなく外へ漏れ出していた。
「これ、全部なくなっちゃったら、わたし、おばあちゃんのこと忘れちゃうかもしれない。どうしよう……」
女の子はまた泣き出した。
アオは、自分の胸に手を当てた。 アオの胸の中には、これまで集めてきたたくさんのパッカが詰まっている。
「ねえ、泣かないで」
立ち上がり、女の子に向かって言う。
「ぼくの宝物、わけてあげる。おばあちゃんの声の代わりにはならないかもしれないけど……」
女の子は涙を拭いて、不思議そうにアオを見上げた。
「海に向かって手を広げて。一緒に音を探そう」
アオは女の子の手を引いて、波打ち際まで連れていく。
夕暮れ時の海は、オレンジ色と薄紫色が混ざり合い、まるで大きな魔法のスープのようだ。波は昼間よりも少し静かに、けれど力強く足元へ寄せてくる。
「いい? 手をこうやって広げるんだよ」
アオはお手本を見せるように、両手を大きく左右に広げた。キャップをかぶった頭を少し傾け、五感をすべて海へと向ける。 女の子も真似をして、小さな両手を広げた。
ザザーン。
シュワシュワ。
コトコト。
普通の波の音が二人の体を包む。
「……何もきこえないよ?」
女の子が不安そうに呟いた、その時だった。
──パッカ……
今までで一番静かで、一番澄んだ音が、波の向こうから響いてきた。それはまるで、小さな銀の鈴を、一番優しいトーンで一回だけ鳴らしたような音だった。
「きた!」
アオが叫ぶと同時に、アオの手と、そして女の子の手のひらが、夕日よりもまばゆい金色にぽっと光った。 海から飛び出した無数の光の粒が、二人の広げた腕の中に飛び込んでくる。
「……まぶしい」
女の子が驚きの声を上げる。 光の粒は、二人の手のひらを通じて、すうっと体の中へ染み込んでいった。
その瞬間、女の子の耳の奥でおばあちゃんの声がした。
──ほら、焦げてる。
脳裏ではエプロン姿のおばあちゃんが笑い、あまいクッキーの香りが鼻をくすぐる。
女の子の涙が止まった。その瞳には、夕日を反射した海がきらきらと輝いている。
「おばあちゃんの声、消えてなかった。おばあちゃん、私のなかにずっといる」
「うん、よかった!」
アオは満面の笑みを浮かべ、広げていた手を下ろした。
夜になり、町には静かな帳が下りた。
女の子は、ひび割れた瓶をそっと勉強机の上に飾った。もう音は漏れていない。
「わたしも、きこえたよ」
少女の胸が、ドックン、パッカ、と鳴った。

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