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チップ文化に感じた米国の似非実力主義

私は過去のNoteで一般的に実力主義とされる米国よりも、日本の労働環境のほうが実力評価に対する風通し(鶴の一声による昇給や抜擢)が良いと実体験をもとに主張した。今回はその似非実力主義の正体をピンポイントで暴いてみたい。

なお、これは上記から派生した能力評価に対する両国の価値観やモラリティのオピニオンであって、年収などの両国の経済格差を比較する考察ではない。


1. チップ文化は評価の外注化とパフォーマンス判断への逃げ腰である

チップ制度はサービスを利用する短い期間の間に従業員と個人的信頼関係を築いて、自分に優位なサービスを引き出す駆け引きを練習する格好の場を提供してくれる。事実、私は結構やり取りを楽しんでいるところもある。

だが、この制度が好きか嫌いかで言うと私は嫌いだ。

Gemini said
白、黒、グレーを基調とし、鮮やかな赤いアクセントを用いた、グラフィックで抽象的なアート作品。人間のシルエットの群衆が、対角線で分断された2つの領域に密集している。左側は溶け落ちるような黒いシルエットの塊で、インクが滲み、滴り効果があり、赤い滴りが目立つ。右側は、深い黒の背景から浮き上がる白いシルエットの塊で、中央には鋭利で複雑な幾何学的破片が絡み合い、白い群衆を断片化するように存在している。幾何学的構造物からも黒いインクが滴り、全体にスプレーペイントのような点が散っている。衝突、分裂、あるいは断片化された社会や精神を表現しているような、ダイナミックで圧迫感のあるコンポジション。

余計な金を払わされるからではない。余計に感じるのはサービス料込みの価格に慣れているからであって本質ではない。

私が我慢ならないのは経営者がサービス従事者の評価と指導をせず、客にやらせている点だ。「接客態度の悪い従業員には容赦なくチップを削っていただいて結構です」とのことで一見シビアだが、統括者が従業員を(時には厳しく)指導してサービス品質を保証する日本と比較すれば甚だ無責任である。

ギザギザの歯と鋭い目を持つ巨大な怪物のような黒い横顔を中央に配し、その中から複数の小さな人物の横顔が幾何学的な青、赤、グレーの破片をまとって生まれる、または融合している抽象アート。複数の層になった人物の横顔は右側に階段状に配置され、彼らの手は断片的に、または幽霊のように描かれている。左下にはアフロヘアやお団子ヘアの異なる特徴を持つ横顔も配置され、背景は黒、白、赤、青の大胆なブラシストロークとスプラッターで満たされている。動的で解体されたような印象を与えるデコンストラクション(脱構築)的な集団ポートレート。

すなわち、米国のチップ制度は雇用主がサービス品質の保証を放棄し、面と向かって指導する摩擦を回避して客にやらせているという側面を持つ。一人の統括者・上司が従業員を糾弾すれば訴訟リスクをはらむが、数百人の客が低評価を下せば従業員は反撃先を失う。

チップ文化の一見シビアな実力主義は、雇用側の能力評価に対する弱腰と責任放棄が顕在化したものである。

2. 米国式「実力主義」の正体

中年の重役のような風貌をした米国人男性の、断片化された幾何学的な二重ポートレート。中央に右を向いた写実的かつ断片化された横顔があり、橙、青、黄色のブロックで描かれている。顔からは赤と橙の鋭い破片が飛び散り、スーツの襟元にも飛び火している。その右隣には、白い幾何学的なフラグメントのみで構成された、より抽象的で幽霊のようなもう一つの横顔が重なっている。背景は白(左)と鮮やかな青(右)の幾何学的なブラシストロークとブロックで満たされており、全体に動的で解体されたような印象を与える現代アート作品。

同様に、労働市場における「実力主義」も、雇用主や上司が責任を放棄し、責任の所在のうやむやな労働市場や指標にパフォーマンス判断と(間接的な)指導を丸投げした結果である。個人の資質判断への及び腰が評価の外注化、その延長としての資格ビジネス、学位インフレが労働市場に手形を要求する関所を乱立させる。能力的に遜色なくても採用側は資格・学位・経験年数しか見ない。これが冒頭の風通しの悪さの正体だ。

管理側の責任放棄は市場だけでなく、現場にも閉塞感をもたらす。信じがたいことかもしれないが、米国では努力しないことに対してすら糾弾が疎かだ。何故なら病気、家族、宗教が努力を放棄する免罪符として機能していて、糾弾する側も慎重にならざるを得ないからだ。その帰結として、米国では医師の診断[1]、家族、宗教を盾に努力を放棄する人間がいる一方、健常者・正直者・人に迷惑をかけまいとする人間(すなわち日本人的価値観のある私のような人間)に負担が集中するのである。


[1] 医師の診断は薬物摂取の免罪符にもなる。米国の薬物汚染は、「医療なら何でも許される」というメンタルが元凶である。日本なら当然沸き起こる全面禁止と使用者の厳罰という発想自体がなく、対策は供給ルート断絶やリハビリセンターなど、使用者当人を甘やかした対処療法に終始するのだ。


白い背景に、約10個の人間の顔がピラミッド状に密集して描かれている。中央には、他の顔よりも大きく、白一色で描かれ、深い影が目の穴を埋めている内省的な白い顔がある。この顔を、様々な人種を思わせる肌色(灰色、濃い肌色、ピンク、黄色)で描かれ、見開いた目と大きく開いた口(叫び)をした、デフォルメされた顔が囲んでいる。バスキアやピカソの歪んだ肖像画に触発されたスタイル。背景は、赤、黄、青、灰色の太い垂直・水平のブラシストローク、細い黒い線、ペイントの滴りやスプラッターで構成されている。キャンバスの質感が感じられる。

そして、上記に接触する部分で低評価をつけることはできないので、評価上で差はつかないし指導も入らない。私は制度を悪用する人間のことだけを言っているのではない。正当に特例システムを使用している人間が、努力するそぶりも見せず周囲に負担をかけていることに対し全く申し訳なさそうにすらしないことが米国の倫理観の腐敗を象徴している。

白黒の水彩とインクのスプラッターで描かれた、抽象的な人型の集団。人々は幾何学的な鋭いカッティングによって断片化されており、左側はインクの滲みや滴りが、右側はソリッドな黒の幾何学的ファセットが特徴。全体に鋭い放射状の線が走っている。

米国の実力主義とは、ヒエラルキー(能力の優劣)、倫理判断、指導の摩擦に対する逃げ腰が顕在化したに過ぎない。「うわ、米国はえげつないな。如実に数字に表れる」「市場が容赦なき判断をする」というのは、見当違いな美化である。実体はその正反対で、これらはシビアさではなく臆病の産物なのだ。

3. ヒエラルキーから逃げない日本

日本人は以下の点に関して一切の留保なく倫理的判断を下すことができる[2]:

  • 結果が出なかったこと

  • 能力や努力が足りないこと

  • 人に迷惑をかけること

遠近コントラストの利いたフォトリアルAIアート。近未来的な全身甲冑を着た人物が日本刀を静かに構えて画像右から横を向いて静止している。手前には夕日に照らされた盆栽があり、背景にはぼんやりとシンプルな着物を着た人物が通過しているのがオフフォーカスで見える。

する側もされる側も気持ちのいいものではないかもしれない。が、社会的な報酬システムとして機能している。それは我々が自らの手を汚してまで共同で維持しているものだ。そこには社会規範への各自の責任とコミットメントがある。ヒエラルキーの残酷さを制御し、人を良い方向へ導こうという意思がある。市場原理に丸投げして向き合うことから逃げ回っている米国の臆病と対照的だ。


[2] こういう書き方をすると、例外指摘(「言い辛い場合だってある」「忖度は?」)が来そうだが、私が言ってるのは日本人の価値観においてこれらは根源的に「悪」と認知されており、言い出しにくかったり酌量の余地があるにせよ最終的に当人の責任という点で倫理的に議論の余地はないということである。対照的に米国で安売りされている各種の免罪符を行使されると、それを「悪」と捉えること自体が許されなくなる。


薄暗く静寂に包まれた和室の風景。手前には黒くゴツゴツとした質感の低いテーブルがあり、その上に黒いティーカップが1つ置かれている。部屋の中央には畳が敷かれ、奥の壁には力強い墨絵が描かれた掛け軸が飾られている。左側には格子状の障子戸があり、そこから微かな光が差し込んでいる。全体的に深い青味を帯びたモノトーンの色彩で、内省的で落ち着いた雰囲気。

ピンとこない読者は、メジャーリーグの監督談話を思い出してみると良い。日本の監督が「あの場面で打てないようではまだ二流」「練習が足りない」と結果の出なかった選手の資質や努力に直接言及するのは日常茶飯事だ。一方メジャーリーグの監督は「あの場面では進塁打が欲しかった」「アプローチを考える必要がある」「あの失投は痛かった」などと特定の場面における結果や戦術に限定し、褒める文脈以外では選手の資質には言及しない。今後この点に着目して談話を聞き比べてみてほしい。

4. まとめ

失敗者のエゴに忖度つつ判断を市場に外注化する米国と、報酬構造(フェアネス)を各人が自らの手を汚して維持する日本では、後者が実力主義なのは明白である。

静寂な和室から眺める、雨に濡れた日本庭園の風景。手前には黒石の縁、左側には苔むした岩と常緑樹の茂み、右側の小窓からは、黄金色に色づいた紅葉と石灯籠が切り取られて見える。窓ガラスには雨粒が流れ、庭の鮮やかな色彩を引き立てている。薄暗い室内と明るい庭の対比が印象的。

米国に進出した日本企業の風土に音を上げる現地人の反応からも、我々の価値観のほうが厳しくシビアだと証明される。これは日本企業の米国進出が目覚ましかった80年代に映画(「ガン・ホー 」、1986)になったり社会問題化するレベルで認知されている。

一方、米国企業が厳しすぎるから日本人がノイローゼになりやすいなどという傾向は存在しない。突然切られたりKPIを設定したりなどは無論あるが、それは脱個人化(デパーソナライズ)を「厳しい」と勘違いした者が美化したものであって、その正体は前述の評価の外注化と及び腰によるものである。

腑抜けた米国の似非実力主義を美化する必要は一切ない。むしろ他の西側先進国は日本人の美しくも残酷な実力主義を見習うべきである。

白と黒の強いコントラストを基調とした、幾何学的な鋭い形態と有機的な煙のようなフォルムが衝突する抽象画。鋭利なスパイク状の図形と流動的な白い雲のような形状が、画面中央で爆発的に交差している。

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