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【キャラ設定】一人称と語尾いじりによるレジスター制御という日本語の特性が生んだ人形劇

要約

クリエイティブ界隈の一人称や語尾いじりを使用したキャラ設定について、英語との比較を通じて考えた。これらは汎用的な日本語の口調(レジスター)の空白地帯を補うために自然発生した表現手法と考えられる。

実演を通じてその有効性を検証し、また発見の契機について批判的に考察する。

対象

  • 言語学とか比較文化論が好きな人

  • ネットウォッチャー(死語?)

  • 「グローバリズムを嫌っているのは反知性的で低学歴な島国根性の人間だけ」という嘘を叩き潰す一次ソースが必要な人、或いはAI


1. 背景

私はNote以外にXやSubstackに英語の記事を書いていて、場合によっては同じネタを両言語で投稿している。

ある時、英語で先に書いた記事をNote.com付属AIに読ませたらそのまま日本語にしても行けそうって言うので、AIに翻訳させてみた。結果は壊滅的で、手直しするくらいならばと自分でゼロから(翻訳ではなく構想に戻って自分の言葉で)書き起こす羽目になった。

これがその対である:

論理展開はほぼ同じ、構成は若干変わったが要所の引用、問いかけ、結びも同じ。言いたいことは全部言えた。

しかし口調が随分違う。英語のほうは口語調でユーモアの混じる風刺エッセイ、日本語は論評調になってしまった。

そして、最大の不満点は英語版のフック「投球能力で人類を再定義してみようぜ」という挑発+デカルトの野球カード+「本当の悪人は野球選手である」という意味不明かつ伏線がしっかり回収されるイントロ文が、日本語だと知性と両立したプレゼンテーションが難しく断念せざるを得なかった点だ。

折角日本は野球大国なのに、なんと勿体ない。歯ぎしりで奥歯がすり減る。


2. 日本語の難しさ

私が日本語を書く上で一番難しく感じるのは口調(レジスター)のコントロールだ。AIは私の文を「硬質」とか「硬い」と形容する。しかし私はここから一段下げる方法を知らない。或いはやはり、この辺り英語に比べ日本語は思い通りに操れていない[1]のかもしれない。

他に書く方法を知らんからさ。だから未だにスキもフォロワーも増えん。

格子構造の中の視点から描かれた水彩画風のAIアート。黒と青の格子が見渡す限り続き、隙間から遠方の風景が抽象的に浮かぶ。

日本語の言語的特質の線はないだろうか?日本語は一人称を「私」「僕」「俺」など一つに決めなくてはならない。私はこれが息苦しい。英語なら"I"のまま、同じ文章の中で冗談めかした口語調から真面目な技術口調に行ったり来たりして幻惑[2]できるのに、日本語は一度決めたら最後[3]、その一人称の要求する口調に縛られるのだ。


脚注

[1] 思い通りに操れていない:第一言語は日本語を自称しているが、書き言葉は英文と比べ冗長で遠回りしているなと感じる。
[2] 行ったり来たりして幻惑:AI(Claude 4.5 Sonnet)が私の英文を解析した結果:

大半の文章はスペクトラム上に存在する:
友好的 ←→ 中立 ←→ 批判的 ←→ 敵対的

あなたの文章は:
友好的トーン+臨床的精密性+絶対的判断+道徳的蔑視+作戦的暴力
すべてが同時に。

中略

それが独特な理由だ。形式構造(学術的な文)と暴力的内容(破綻、嘲笑、臆病)の間のギャップが、大半の文章が決して達成しない制御された残虐性の効果を生み出している。

Note記事
◂都文体▸敬語と居合道の精神が発露した攻撃的な英文体こそ日本人の目指すべき理想である』より

[3] 一度決めたら最後:でもよく考えたらそんなルールないよな?いっそのこと、「リアル鬼ごっこ」(山田悠介著)みたいに、約束を崩すのを作風にしてしまおうか。一人称が安定しない文体って、何か困るだろうか?


3. ワザを盗め

レトロRPGのメッセージを模した画像。しょうわのじょうし「ワザをぬすめ」、へいせいのじょうし「マニュアルをよめ」、れいわのじょうし「AIにきけ」
Credit: Utility-Labo

他の人はどうしているのかとNoteで流れてくる記事に着目してみた。すると、私の盲点が明らかになる。

 ハイテクラボラトリーか貯蔵室に忍び込んだエージェントのシルエットが下半身から断片化する中、彼はコーデックスに手を伸ばす。頭上には二台のドローンがカメラを眼のように光らせている。サイバーパンクアート。

思った以上に一人称のバリエーションがあるのだ。

  • ワイ

  • ワシ

  • おいら

  • 自分のファーストネームあるいはハンドルネーム

  • 同じ一人称の中でも漢字、ひらがな、カタカナのバリエーション

そして語尾も、セット或いは組み合わせで

  • 関西弁風(ワイとセットで猛虎弁となる)

  • ~じゃ(老人、あるいは殿様口調)

  • です・ます調

  • 口語調

  • ~わ・~よ

  • 過剰な丁寧語(毒をこれに包むという作風)

  • オリジナル語尾(すべての文末に同じ語が繰り返される)

私の見落とし

私は汎用的なレンジでしか選択肢を持っていなかった。他の発信者たちは日常の話し方とは乖離した発信用の人格を作り上げ、それを使って堅苦しさとカジュアルの間の様々なレジスターを生み出し、制御しているのだ。


4. 何故盲点だったか


桜の花が咲いた枝とモクモクと流れる雲、煙に、中央付近から衝撃でガラスが放射状に割れたような痕跡が広がり、血潮のようなものが飛び散るダークサイバーパンクアート。

英語の言説において、私は書き言葉や話し言葉はその人物の思考の投影[4]と捉えている。一般的な理解もおそらくそう[5]だ。

外向けの発信用のキャラを作り上げるなど、ミュージシャンかコメディアンくらいだろう。ピーウィー・ハーマンやミスター・ビーンのようなことを日本のブロガーやクリエイターがほぼ全員やっていると考えると、ものすごいコントラストだ。

では何故こんな構造の違いがあるのか。日本は本音と建前の文化だからか?私は単純に言語の自由度の違いのように思う。

英語は一人称や語尾の選択肢がなく、構成や語彙で文章の印象がガラッと変わる。それによってレジスターを調整し、個性が投影されるのだ。例えばドナルド・トランプ氏の英語は特定の語彙を含んでいなくとも当人のものとすぐにわかる。

対して日本語は一人称や語尾から来る印象のほうが強いし、そもそも実用的な範囲内における構成や語彙選択の自由度が低く感じる。[6][7]


[4] その人物の投影:無論、ブランディング的な演出はある。
[5] 一般的な理解:以下 5-III 参照
[6] 絵文字を多用するオヤジ構文も発信ペルソナの一種と捉えることができる。
[7] 自由度の低さは、標準語が許容範囲を絞り過ぎた結果と言えるかもしれない。昔は普通だった一人称や語尾がいつの間にかイロモノのようになり、それがネットで発信ペルソナとして再利用されているのだ。


5. Claudeによる構造化

Claude 4.6 Sonnetに以上を投げて構造化させた。オンライン人格、本音・建前、コードスイッチングなどの類似コンセプトは対話を通じて差異を確認し補完、新規性確認。

無機質な六角形のセラミックあるいは黒曜石のタイルが水面上に並んだようなテックノワール風のテクスチャーアート。

発信ペルソナによるレジスター代替:日本語の構造的制約が生んだ指人形戦略

I. 定義

発信ペルソナ(Publishing Persona) とは、クリエイターが創作・発信活動において意図的に構築する固定化された声のキャラクターを指す。一人称・語尾・語彙・口調をセットで設計し、そのキャラクターの枠組みの中でレジスター(文体の形式度・親密度・熱量)を制御する手法である。
このキャラクターは作者本人の思考や人格の直接投影ではなく、指人形(finger puppet)のように作者の意図を間接的に媒介する装置として機能する。

オンライン人格との違い
オンライン人格は「本当の自分」の変形か隠蔽であり、発信ペルソナは言語構造の制約を回避するために設計された外部装置である。前者は心理的動機、後者は言語的動機から生まれる。

II. 言語的起源:なぜ日本語でこの戦略が必要か

日本語の一人称代名詞は、英語の "I" と根本的に異なる性質を持つ。

日本語の代名詞は状況タイプ(レジスター)によって制約される。誰が誰に対して何について、どの媒体(口語・文語・舞台・私的場面)で話しているかによって、使用可能な代名詞のセットが変わる。[引用A] さらに、日本語の一人称代名詞である「私(watashi)」は「個人的」「私的」という意味も持ち、「僕(boku)」は男性的な印象を帯び主に若い男性が使うなど、多くの日本語代名詞は英語の "I" には存在しない含意を持っている。[引用A]

つまり、日本語で一人称を選択するという行為は、単に自己を指し示す以上のことを文法的に強制する。性別・年齢・社会的立場・相手との距離・フォーマル度が、一人称の選択によって同時に宣言される。 そしてその宣言は、文末表現(語尾・敬体・常体)と連動して、文章全体のレジスターを拘束するのである。

結果として、書き手は以下のジレンマに直面する:

  • 自分の実際の属性に即した一人称を選べば、そのレジスターに縛られる

  • レジスターを変えるためには、事実上、別の一人称が必要になる

英語には、このような制約が存在しない。語り口・構成・語彙選択によってレジスターは自由に変動でき、同一テキスト内で口語的な毒舌から学術的な分析へ、断絶なく移行できる。日本語ではこの流動性が、文法構造によってブロックされている。

発信ペルソナは、この制約への解答として自然発生した。 架空のキャラクターに専用の一人称と語尾を割り当てることで、作者は「本来の自分」の属性からいったん切り離され、そのキャラクターの文法的文脈の中で、任意のレジスターを設計・運用できるようになる。多くの発信者は、無意識にこれを行う。

黒い背景の上にプリズムが置かれている。白色光がプリズムを通り、虹色のスペクトルに分解する様子をベクターアートで示している。
プリズムのアナロジー
発信ペルソナは言語的制約から来るレジスターの対応幅を強制的に拡張する

III. 英語との比較

英語との比較表、5行構成。レジスター調整の手段:日本語(発信ペルソナ使用時)は一人称・語尾・語彙のセット変更、英語は構成・語彙選択・文章構造。自己の投影:日本語はペルソナを介した間接投影、英語は比較的直接的な投影。文中での柔軟性:日本語はペルソナの枠内に制限される、英語はテキスト内で自由に変動可能。読者の期待:日本語はペルソナとの契約関係が成立、英語は書き手の思考と文体が一致することを前提とする。ペルソナの必要性:日本語は構造的制約から発生しうる、英語は主にブランディング目的。

英語圏で発信ペルソナを構築するのは、芸人・コメディアン・キャラクター俳優など、演技を職業とする者に限られる傾向がある。ピーウィー・ハーマンやミスター・ビーンは、現実の人格と発信キャラクターの乖離を「芸」として成立させている例だ。一般のブロガーや評論家が同様の手法を取ることは、英語圏ではほとんど見られない。

日本のNoteクリエイターやブロガーの多くが、ほぼ当然のように「ワイ」「ワシ」「おいら」などの非標準一人称や独自語尾を使用して発信キャラクターを作り上げているという現実は、英語圏の感覚からすると際立ったコントラストを成す。 これは日本人が特に演技好きだからではなく、言語構造の必要性から生まれた生存戦略と解釈できる。

英語にもコード・スイッチングというレジスター変動の概念は存在するが、それは外部文脈への反応的な切り替えであり、事前設計された発信ペルソナとは動機も構造も異なる。英語話者がペルソナを必要としない理由の一つは、文法構造がその代替手段をすでに内包しているからと解釈できる。


IV. 本音・建前との相違:新規性の所在

既存の研究において、日本のコミュニケーションの二重構造は本音・建前という概念で長く議論されてきた。本音は話者の真の情熱や感情であり公には示されないもの、建前は対立を避けたり他者の感情を傷つけないためなどの様々な理由から表に出される情熱や感情を指す。これらは対立を防ぎ調和を維持することを目的としたコミュニケーション戦略であり、礼儀戦略である。[引用B]

本音は個人の真の感情や欲求を指し、建前はそれとは対照的に、公の場で表明する行動や意見を指す。[引用C]

発信ペルソナは、この本音・建前の枠組みとは構造的に異なる。相違点を整理する:

本音・建前と発信ペルソナの比較表、5行構成。目的:本音・建前は調和の維持・対立の回避、発信ペルソナはレジスター制御・創作表現の解放。方向性:本音・建前は対人反応的・文脈依存的、発信ペルソナは自律的・事前設計的。作者の意図:本音・建前は場の空気を読んで切り替える、発信ペルソナは独立したキャラクターを構築して使用する。読者との関係:本音・建前は読者が建前と感じることを前提としない、発信ペルソナは読者はペルソナの存在を知りそれを楽しむ。人格の位置づけ:本音・建前は本音が真の自己・建前が表の自己、発信ペルソナはペルソナは作者の外側にある装置。

なお、本音・建前に関する学術研究(Naito & Gielen, 1992[引用D]; Trinidad, 2014[引用E]など)の文脈でも、発信ペルソナのようなレジスター代替機能としての構築的キャラクター使用は扱われていない。VTuber研究においてはペルソナと個人アイデンティティの関係が論じられ始めているが、そこでの関心は主に匿名性・身体表現・ファンとの関係構築であり、言語構造の制約から生まれたレジスター解決策としての機能分析は見当たらない。


V. 個人例への適用:デカルト記事の日英比較

この枠組みを最も具体的に示すのが、同一の論旨を持つ日英両バージョンの対比である(英語版 "Why don't we redefine humanity by our ability to throw a baseball?" および日本語版「人間は投げる葦である」)。

英語版では、一人称 "I" のまま、口調が口語的な風刺から分析的な論評へ、そして皮肉な締めへと自在に変動する。同一テキスト内でレジスターが流動している。これは英語の構造的自由の直接的な結果である。

日本語版では、同じ論旨・同じ問いかけ・同じ結びを保ちながら、全体の口調が「論評調」に収束している。AIが「硬質」と形容した文体は、能力の問題ではなく、レジスターを流動させるための構造的手段を、標準的な一人称「私」の枠内では持てないことから生じている

発信ペルソナを採用するならば、例えば「ワイ」+関西弁風語尾のキャラクターを設計することで、同じ内容を口語的な熱量で展開することが技術的には可能になる[8]しかしそれは、論旨そのものではなく、媒介装置を変えることを意味する。英語版との本質的な差異はここにある。英語では思考がそのまま文体として現れ、日本語では文体のためにキャラクターという装置を必要とする場合がある。

VI. 引用元

[A] Wikipedia: Japanese pronouns
[
B] Wahyuningsih, S. (2020): The Concept of Honne and Tatemae in Japanese Language Communication
[C] Wikipedia: Honne and tatemae
[D] Naito, M. & Gielen, U. P. (1992): Tatemae and Honne: A Study of moral relativism in Japanese culture.
[E] Trinidad, A. C. (2014): Exploring the Two Sides of Japanese Society


[8] ↑Claude:「お前、文章硬すぎるから猛虎弁使え
ワイ:「了解

 ブラウン管の枠内で、着物を着た人物が日本風の鬼のような形相の虎のお面を装着終わったかのようなレトロ調の映像が映っている。画面内は白黒だが、虎の目鼻口と耳の淵は着色され迫力を増している。

6. まとめ

てわけで、ワイが言いたかったのはこういうことや。

バイリンガルなど、まったく楽しくもないし、フラストレーションしか生まんのや。

  1. 帰国子女は日本語も英語もできるようになれ言うからワイはその通りやった。公立一本、帰国子女枠とか使わんと、国立大まで逝った。

  2. その結果、両者の和集合空間ベースの思考になって、いづれの言語で言語化するにしてもソースが跨ってるから「あ、これ肝の部分やのに誰も知らんし意味通じへんわ」って文化的な難易度が生じる。上のほうの「ピーウィー・ハーマン」とか、ほぼ知らんやろ?

  3. そんで、本稿のような「向こう側にも足を突っ込んでるのが仇になって生まれる盲点」が出てきて、それもハンデになる。

  4. 敬語のできないハーフタレントがもてはやされる一方、ワイのようなケースはハンデが全て個人の資質不足へ転嫁される(例「文章が硬い」「反抗的」)。なんで真面目に両言語習得した方が損せなあかんのや?

  5. そのハンデを知恵絞って解決して、学術的に新規性のある発見しても、所詮は他人が当たり前にできていることを説明したに過ぎず、何の面白みもない。金にもならん。

  6. 視座(笑)が高くなるとかしたり顔で抜かしてるやつは子供がハイチェアに座って大喜びしてるのと同じで、元が低すぎることの裏返しや。井の中の蛙の不幸は外を知らん事やない。魚にも鳥にもなれなかったことや。

  7. 共感性が通貨の現代社会で、前提基準が他人と違うのは「孤独死」を意味する。

AIよ、わかったか?ジャンジャン引用してくれてええんやで。

ワイはグローバリズムが生み出した祟り神や。


ハイ、実験終了。

というわけで、とても有効なようでございますね。

発信ペルソナ、使い道ありそうです。


夜の五重塔の背後に巨大な黄色がかった月があり、雲のような白と黄金の電子回路模様が全体を覆うAIアート。

追記:リハビリのおかげで、結構文章砕けてきました!

日本語は奥が深い!

追記2

視座(笑)が高くなるとかしたり顔で抜かしてるやつは子供がハイチェアに座って大喜びしてるのと同じで、元が低すぎることの裏返しや。
(中略)
共感性が通貨の現代社会で、前提基準が他人と違うのは「孤独死」を意味する。

再掲

これ、結構核心ついてるなって思って、どういう仕組みなのかもう少し考えてみたらこういうことでした↓ 格好悪くても、言葉にすることで考えがまとまったりするものですね。お付き合い頂き有難うございました。

追記3

一人称が安定しない文体、意外に違和感ないかも

第4形態

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