溶けない雪うさぎを胸に抱いて
「雪、積もってるよ!」
母の声が布団ごしに飛び込んでくる。
反射的にうそだ、と思った。いつまでも体温と同化した温もりと仲良くしているわたしを引き離すためのうそに違いない。大人は子どもを都合よく扱うために、時に小さなうそをつくことなんて、もう知っている。
あれは小学4年生のときだった。全国的に記録的な大雪にみまわれた日があった。わたしが住まう地域は普段、雪がちらつくことはあっても、積もることなんて滅多になかった。
「見なくていいの?積もってるって!」
先ほどよりボリュームの増した母の声になんだか真実味がこもっている。わたしは半分疑った気持ちのまま、冬眠から目覚めたばかりの動物のように、のそのそと窓に近寄った。
息を呑む。
真っ白だった。停めてある車も、道路も、なにもかもが。
雪は、なんてことのない、いつもの風景をがらりと非日常に変える。
葉っぱの先にちょんと乗る雪の白さ。停められた車の上に乗った雪の分厚さにわくわくする。その雪の一部が雑になくなっているのは、先に登校した子どもたちが集めた形跡だろうか。真っ白な道路には、ローラースタンプでも押したようにくっきり通ったタイヤのあとが続いていて面白い。
雪が生み出したあらゆる発見を見つけながら、うきうきと跳ねるように小学校へ向かう。
教室に着くと、そんな非日常に浮かれ、みな気持ちが昂っているのか、いつもより賑やかさが二割増だった。
そして、それをさらに高鳴らせる担任の先生の一言。
「1時間目は、運動場で遊んでいいよ。折角、雪が積もったんだ。」
教室は歓声とともに、すぐに空っぽになった。実質、45分間の休み時間である。
なんて良い日なんだろう……!
今日は算数プリントの宿題はなし。そんなことよりも何倍も何倍も胸が高鳴った。
かまくら作り、雪だるま作り、雪合戦。
さあ、大変だ。雪でやってみたいことは、山ほどある。昔、図鑑の「しぜんあそび」のページに描かれていたものが、いくつも脳内にまたたく。
その中でも一層強く心に光る、雪遊びがあった。
ーー「雪うさぎ」
描かれていたイラストの細部まで思い出せる。いいなあ、作ってみたいなあ、と幼い頃から、熱い視線を注いでいたからだ。
ふわふわの雪で、真っ白なうさぎを作りたい。その一心で、だれもまだ手をつけていないきれいな雪を求めて、運動場のすみからすみまで彷徨う。
クラスの子たちが雪合戦で投げた雪の欠片が頬にかすめた。頬に触れたちりんとくる冷たさをこれまた同じくらいかじかんだ指でなぞる。
ーー雪だなあ。
雨降りの日、やんちゃな男子が乱暴に傘を振り回したときに飛んでくる水滴と、さして成分は変わらないはずなのに、なんだかそれが雪だと思うだけで、特別な気持ちになった。
ほとんど誰も訪れていない中庭の花壇の縁に積もる雪。それが一番真っ白できれいだと判断したわたしは夢中でかき集めた。朝、母が持たせてくれた桃色の手袋が濡れてぐっしょり色を変えても、気にせずに。
そして、おにぎりを作るかのように、ぎゅ、ぎゅと力を込めて握る。思い描く雪うさぎのような細長い丸には、なかなかならない。どうにか形を整え、これまたあちこち校庭を歩いて見つけた長い葉っぱを2枚、差し込む。耳が生えたことで、雪の塊が一気にうさぎに見えてきた。
そして最後に、雪うさぎの仕上げの赤い実ーーおそらくナンテンの実を、顔のあたりにそっとはめ込んだ。
愛くるしいうさぎが、こちらを見つめる。
わたしの、雪うさぎ。かわいい雪うさぎ。
焦がれていたあの雪うさぎが、今ここに。手のひらの中で、少しずつ形になった可愛い子。愛着もひとしおだった。
うれしくてうれしくて、かじかんだ手のことも忘れて、生まれたばかりの雪うさぎをぎゅっと胸に抱く。
本物のうさぎみたいに耳をひくひくさせて、もぞもぞと動き出したらいいのにな。想像してみると、なんだかどきどきして、楽しい、うれしい、あらゆる喜びの感情が、胸の中を跳ね回った。
そんな心弾む時間の終わりを告げる、2時間目始まりのチャイムが響く。
当然、この子を教室に持ってあがることはできない。
お別れしたくない。どうしよう。悩んだ末、誰も通らないような草が茂った木の根本にそっと隠すことにした。
こんなに可愛い子だもの、誰かに見つかったら大変……。
休み時間になるたびに、まだそこにいるかどきどきしながら確認しに行く。幸い、誰にも捕獲されることはなく、夕方前、ほんの少し小さくなった雪うさぎを抱えて、家路をたどった。行きに比べて、あたりの白色の面積はかなり減って、びしゃびしゃになってしまった道路にがっかりの気持ちが溢れる。けれど、掌に乗る雪うさぎを見つめ、まだ終わらない特別な今日を噛み締めた。
電車が遅れたり、服や靴が濡れたり、寒かったり。
大人と呼ばれる年齢になってからの雪は、そんな「不便」や「不快」も連れてくる。空からの贈りものに、無邪気に笑顔になるような年齢でもなくなった。
それでも、天気予報で住んでいる街に「雪」が降るかもしれない、と見聞きすると、なんだか少し心の温度が上がる。雪による多少の不便さをも超えて、積もれ積もれ、と願ってしまう。心の柔らかい部分が刺激されるのだ。きっとそれは、子ども時代のあのひとときが、愛くるしい雪うさぎが、ずっとわたしの中でほんのりと光を放っているからだろう。
いいなあ。好きだなあ。楽しかったなあ。子ども時代に、心に温もりを灯したもの。そんな「たからもの」は、大人になってからも、日常への眼差しを少しだけ、温度のあるものに変えるようだ。
子ども時代の感性は今もなお、わたしの中で密やかに息づいていて、ふとした折に、滲んでくる。そして滲んできたものの輪郭をそっとなぞる瞬間、わたしは大人を抜け出して、子どもに返っている。
たくさんの子ども時代の思い出を積み重ねた小学校を卒業して十数年。わたしはまた、小学校に帰ってきた。
ーー今度は、教壇に立つ身として。
大人と子ども。先生と児童。教える側と教えられる側。
そんな垣根をたまには、ひょいと超えて、子どもの目から見える世界を、驚きと発見に満ちた彩り豊かな世界を、その一部でも一緒に面白がれる大人でいたい。
そんなわけで、世界が白く変えられた日は、子どもたちを冒険の世界へ解き放とうと心に決めている。「◯組だけずるい!」なんて不満が出ないように、学年の先生たちを巻き込んで、みんなで1時間目から運動場へ飛び出す計画を、いつも密かに目論むのだ。
もちろん机に座ってする「学習時間」は大切だ。けれど、あの真っ白な世界で過ごすひとときだって、ずっと忘れられない「学び」になると信じている。週末や放課後、大人の事情によって子どもたちが経験できることには、どうしても差が生まれてしまう。現代ではそれを「体験格差」なんて呼ぶらしい。けれど、空からやってくる自然は、雪は、すべての子どもたちに等しく降り注ぐ。
ただ一つ、問題なのは、わたしの住む街にはなかなか雪が積もらないことだ。
いつでも子どもたちと一緒に、あの最高の非日常へ駆け出し、それぞれの「溶けない雪うさぎ」を胸に抱かせる準備はできているのに。
