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切なくなった、子どもの一言。

朝の雨雲レーダーの予想が裏切られた。恨みがましく、運動場を見やる。
ぽつぽつと降り出した雨粒は、みるみる間に地面の色を変えていく。空模様を見るに、しばらく降り続くだろう。

これは、わたしが低学年を担任していたときの話だ。

「ええ〜雨が降ってきちゃったよ!」
「先生、5時間目何するん?」
わやわやと口々に声をあげる子どもたち。
予定していた運動場での体育は急遽、中止せざるを得なくなった。
時間割や体育館の割り当ての都合上、今から体育館を使うこともできない。


かくなる上は…
「図工をします。後ろのロッカーから、粘土板と粘土を取りに行っておいで」
そう声をかけた途端、
「いよっしゃー!!!」
と教室が沸いた。粘土は、こういうときの低学年の頼もしい助っ人だ。

本来、小学校の粘土は、「教具」であり、学習のめあてによって使うもの。しかし、今日だけは特別だ。

「今日だけ特別に自由にします。作りたいもの、何でもいいよ」

またもや響く、歓声。しばらくすると、子どもたちは自分の感性のままに思い思い形を生み出し始めた。

「見て~!恐竜!」
「おお、かっこいいねえ」

「なあ、見て見て!おもろいもんできた」
「まあ、立派な。誰の?」
「先生のうんこ!」

けらけら笑う作った本人と周りの子どもたち。

大好きな生き物を作る子。たくさんのケーキを作る子。紐のように細くして文字を作る子。巨大迷路を作る子。

たまに子どもたちから声をかけられたり、かけたりしながら、彼らの机の間を回る。それぞれが熱中して手を動かしている。たまにはこんな時間もいいな、と目を細めた。

ふと、歩みを止めた。端の席のたっくんは、粘土の塊をケースから出したきりで、じっと手を止めている。子どもたちの中には、絵画や工作、作文など何かを生み出す際、充分にイメージできていないと手を動かし始めることが難しい子もいる。何か困っているのだろうか。

「先生、わからへんねん……」
たっくんは、小さな声で訴える。
どうやって作り始めるといいのかわからないのかな。そう考えながら、
「そっか……、何がわからへんか教えて」
と尋ねた。
「ぼく、何を作ったらいいか、わからへん」
急に「なんでもいい」と言われて戸惑っているのかもしれない。
「何でもいいんだよ。たっくんの好きな生き物とか、食べ物とか」
そう声をかけても、彼の表情は曇ったままだ。参考になれば、と先程見てきた作品たちを伝える。
「そうくんは恐竜。かんなちゃんはケーキ。みきちゃんは、巨大迷路。…ほんで、りょうくんはおっきなうんこ」

たっくんは、わずかに口元を緩めたものの、すぐにまた困り顔に戻った。
「先生、」
「ん?どしたん?」
その後に続いた、彼の泣きそうな声にわたしは、一瞬言葉を失ってしまった。

「ぼくは、何を作ったらほめられる?」
脳裏をよぎったのは、以前に彼の友だちが言っていた「たっくんのママ、めっちゃきびしいんだよ」という言葉。そして個人懇談会で、「うちの子の課題を教えてください」とわたしが話したことをきっちりメモしていた、真面目で教育熱心なお母さんの姿だった。

「褒めたい」「褒められたい」きっとどちらも切実で真っすぐな思いだ。きっと、お母さんもたっくんも毎日一生懸命なんだろう。けれど、この子の中でいつしか「褒められたい」がぐんぐん大きくなり、行動基準はいつの間にか、「自分が何をしたいか」ではなく、「大人からどう評価されるか」になってしまっているのかもしれない。

胸の奥が、きゅっと切なく締め付けられた。
「たっくん、あのね、」
わたしはいつもより少しゆっくり、言葉を紡いだ。
「何を作ってもいいんだよ。一生懸命やったら、もうそれで花丸。何をしても、一生懸命にできたら先生はたっくんをすごいと思うよ」

…伝わってるかな、伝わるといいな。粘土だけじゃない。これからの、あなたの全部の選択においてそうだよ。

彼は小さく頷くと、大好きなヘリコプターを作り始めた。


その一件があってから、わたしはよりクラスの中での彼の様子を気に掛けるようになった。それからも時折、何かに取り組む際、不安そうにこちらを伺うたびに、
「それで大丈夫だよ」
「一生懸命やれたことが、花丸」

「たっくんが考えて良いと思ったら、それでいいんだよ。」
と結果ではなく、自分で選んで行動したプロセスを肯定し続けた。そして、彼のお母さんにも、そんな様子をできるだけ伝えることを心がけた。

たっくんと過ごせたのは、彼の人生の中でほんの僅かな、たった一年間。
劇的な変化があったわけではない。
一年間が終わる頃には「以前よりも笑顔が増えたかな」と思える程度だった。わたしの言葉が彼の心に届いたのかは、今でも分からない。

けれど、あれから何年も経っても、「自主性」や「自己肯定感」といった言葉を耳にするたびに、彼の「何を作ったらほめられる?」という言葉と声が、ひりひりと蘇る。

なぜあの時、あんなにもきゅっと心が締め付けられたのか。

あるとき、ふと気づいた。そうか。わたしも子どもの頃、親や先生に喜ばれること、評価されることばかりを選択の基準にしていた。いや、間違いなくそうだった。
なんなら大人になった今でも、「自分がどうしたいか」ではなくて周りの顔色をうかがって「どうすべきか」と考えてしまうこともある。
幼い頃に染みついた「思考の癖」はそう簡単に治るわけではないらしい。

「大丈夫。あなたが考えて選んだことなら、それでいいんだよ」
ああ、これは、他でもない幼いわたし自身が誰かに言ってもらいたかった言葉だったのだ。子どもたちと向き合うことは、時に、かつて子どもだった自分に出会いなおすことでもある。


きっとこれからも出会うであろう、周りの目を気にして、自分が選ぶ道に自信のない子どもたち。彼らには、どんなささやかなことであれ、「あなたが考えたことに価値があるんだよ」と伝え続けたい。

そうやって、目の前の子どもたちをありのまま肯定することで、いつかかつての子どもだったわたしもにっこりとうなづく日がくるのかもしれない。

#エッセイ部門

#小学校の先生

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