糸をほどく朝
北海道東部の湿原に近い町は、朝6時ごろ霧、気温は17度前後。湿度は94%前後で、日の出は5時02分ごろ。朝6時には明るくなっているけれど、低い霧で遠くの草地が白く沈む朝。
窓のそばに置いた毛糸玉から、細い糸が少しだけほどけていた。
美津子はそれを見つけて、しばらく手を出さなかった。
ほどけたものは、すぐに巻き戻したくなる。けれど、あわてて引っぱると、かえって絡まることがある。若いころは、それがわからなかった。糸も、人との話も、早くきれいにしようとして、余計に固くしてしまった。
六時を少し過ぎても、外は白かった。
湿原の方から霧が来ている。家の前の道も、向かいの倉庫も、見えるには見えるが、輪郭がやわらかい。トタン屋根の色まで薄まって、まるで昨夜のうちに誰かが水で洗ったようだった。
ストーブをつけるほどではない。
それでも、素足では少し冷える。美津子は古いひざ掛けを膝にのせ、手芸箱のふたを開けた。中には、針、糸切りばさみ、使いかけのボタン、半端な毛糸が入っている。何年も前から同じ場所にあるものばかりだ。
青みがかった灰色の毛糸は、去年の冬に買った。
孫に帽子を編むつもりだった。けれど、途中で目を間違えて、そのままになっている。ほどく気にも、続ける気にもなれず、箱の奥へ押し込んでいた。
今朝、なぜそれを出したのかは、自分でもよくわからない。
たぶん、昨日の電話のせいだ。
娘からだった。声はいつも通りだったが、言葉の隙間に疲れがあった。仕事のこと、子どもの学校のこと、買い物に行く時間がないこと。そういう小さな話がいくつも出てきて、どれも大きな問題ではないのに、聞いているうちに美津子の胸は少し重くなった。
「お母さんは元気?」
最後にそう聞かれて、元気よ、と答えた。
元気ではある。嘘ではない。
ただ、元気という言葉に入らないものもある。朝起きたときの関節のこわばり。鍋を持つ手の頼りなさ。天気が悪い日に、昔のことを思い出しすぎること。そういうものは、電話ではあまり言わない。
言えば娘が心配する。
言わなければ、自分の中で少し余る。
美津子は毛糸の端を探した。
一度見つけたと思ったが、別の輪だった。指でゆっくりたどる。無理に引かない。結び目に見えるところは、指先で押してみる。ほどける場所と、ほどけない場所を分ける。
台所の時計が小さく鳴った。
外では鳥が一羽、短く鳴いた。霧の中では、音だけが先に来る。姿は見えない。けれど、そこにいることはわかる。
美津子は、娘の小さかったころを思い出した。
学校へ行く前、髪を結ってやるのが毎朝の仕事だった。娘はじっとしていられず、椅子の上で足をぶらぶらさせた。きつく結ぶと痛いと言い、ゆるくするとすぐ崩れる。美津子はよく怒った。
「動かないで」
何度もそう言った。
今なら、もう少し違う言い方ができたかもしれない。髪はまた結べる。少し崩れても、子どもはそのまま走っていける。あのころは、朝の時間がいつも足りなくて、きれいに整えることばかり考えていた。
毛糸が、ひとつほどけた。
小さな輪がゆるみ、次の糸が自然に動いた。美津子は息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
窓の外で、霧が少し薄くなっている。
遠くの草が、ぼんやり見えはじめた。まだ日差しは弱いが、朝は確かに進んでいる。白い景色の中に、枯れかけた芦の色が少しだけ戻ってきた。
美津子は、ほどいた毛糸を巻き直した。
帽子にするかどうかは、まだ決めない。マフラーでもいい。何にもならなくてもいい。今日はただ、絡まったところを少しほどくだけで十分だった。
電話をかけるには、まだ早い。
娘はきっと、朝の支度で忙しい。子どもを起こし、弁当を詰め、洗濯機を回しながら、何かを探している時間だ。
美津子は手芸箱のふたを閉めなかった。
窓辺に置いたまま、湯を沸かすことにした。急須に茶葉を入れ、湯気が上がるのを待つ。茶碗はひとつでいい。けれど、今日は菓子皿をもうひとつ出した。
そこに、小さな砂糖菓子を二つ置いた。
あとで電話をしたら、昨日の話を少しだけ聞き直そうと思った。助けられることは多くない。でも、ほどけるまで急がずに待つことならできる。
湯が沸いた。
白かった外は、少しずつ朝の色に戻っていた。
美津子は茶を注ぎ、窓辺の毛糸を見た。ほどけた糸の先が、古い木の上で静かに光っていた。
