苗箱の雨
秋田県南部の盆地に近い町は、朝6時ごろ雨、気温は17.6度前後。湿度は100%前後で、日の出は5時18分ごろ。朝6時には明るくなっているものの、田の向こうの山並みが雨に沈む朝。
蔵の戸を開けると、木の敷居が黒く濡れていた。
佐知子は長靴の先で水を払ってから、中へ入った。雨は昨夜から続いている。強くはないが、やむ気配もない。軒先から落ちる水が、古いバケツの底を一定の調子で叩いていた。
蔵の左手には、使わなくなった苗箱が重ねてある。春には青々としていたものが、今は泥を落とされ、ただの浅い箱に戻っていた。佐知子はその一番上に手を置いた。濡れた縁は、思ったより冷たかった。
今日はそれを、隣の家へ返す日だった。
借りたのは五月の初めだ。足りなくなって、電話をすると、隣の俊夫さんが「うちのを使えばいい」と言った。軽トラックの荷台に載せて運んできてくれたとき、佐知子は何度も礼を言った。俊夫さんは「箱なんて、使われてなんぼだ」と笑った。
その俊夫さんが、先週、畑で倒れた。
命に別状はないと聞いている。けれど、まだ入院している。退院しても、今年の稲刈りは無理かもしれないと、近所の人が言っていた。
苗箱は、俊夫さん本人ではない。それなのに、返すとなると、ただ物を戻すだけでは済まないような気がした。
佐知子は箱を一枚ずつ外に出した。雨が横から吹き込み、袖口が湿っていく。全部で十枚。ひもで縛ると、箱の角が少しずつずれて、きれいな束にはならなかった。
夫の信也なら、もう少しうまく縛っただろう。昔から手先が器用だった。けれど今朝は、奥の座敷でまだ眠っている。昨夜、集落の寄り合いから帰ってくるのが遅かった。稲刈りの日取りと、手伝いの段取りを決める話し合いだった。
田んぼは、それぞれの家のものだ。けれど雨が続けば、乾くのを一緒に待つ。機械が足りなければ貸し借りをする。誰かが動けなくなれば、別の誰かが予定をずらす。そうしているうちに、どこまでが自分の家の仕事なのか、少しずつ分からなくなる。
若い頃の佐知子は、それが息苦しかった。
何かあるたびに人が来る。台所の勝手口から声をかけられる。留守にしていれば、あとで理由を聞かれる。結婚してこの町に来たばかりの頃、優しさと干渉の境目が分からず、よく疲れていた。
けれど、今朝の雨を見ていると、その境目は最初から細い線ではなかったのかもしれないと思う。田の水みたいに、少しずつ混ざるものだったのかもしれない。
佐知子は束ねた苗箱を台車に載せた。道はぬかるんでいるだろうから、軽トラックを出すほどではない距離でも、歩いて運ぶには重い。玄関へ回る途中、台車の車輪が小石に引っかかり、箱がかたむいた。
「危ないな」
自分に言うようにつぶやき、ひもを締め直す。雨粒が頬に当たった。冷たいというより、細かい米粒を受けているような感触だった。
隣の家までは、田んぼ一枚分の道を回る。途中、用水路の水がいつもより高くなっていた。濁った流れの中に、刈る前の稲の影が揺れている。穂はもう垂れていた。雨に打たれながら、重さを覚えたものだけが頭を下げるのだと、ふと思った。
俊夫さんの家の納屋は開いていた。奥さんの由紀子さんが、古い雨合羽を着て出てきた。
「こんな朝に、悪かったね」
「こっちこそ、借りっぱなしで」
佐知子は台車を止め、苗箱を降ろそうとした。由紀子さんが手を出しかけて、すぐ引っ込めた。腰を痛めているのだろう。佐知子は見ないふりをして、一束ずつ軒下に置いた。
「俊夫さん、どうですか」
聞くと、由紀子さんは一度、田の方を見た。
「口だけは元気。稲刈りの心配ばっかりしてる」
その言い方があまりにいつも通りで、佐知子は少し笑った。由紀子さんもつられて笑ったが、すぐに目元を指で押さえた。雨のせいにできる程度の水分だった。
「箱、助かったの。春に」
「うちこそ。使ってもらってよかった」
使ってもらってよかった。
その言葉が、佐知子の中でゆっくり沈んだ。借りたこちらが礼を言うはずなのに、返された側もそう言う。物が家と家の間を行き来するとき、そこには損得とは別の何かが残るのかもしれない。
納屋の奥に、去年の米袋が積んであった。ひもで結ばれた口が、いくつも同じ向きに並んでいる。几帳面な仕事だった。俊夫さんの手がそこにないことが、かえってはっきり分かった。
「今年、うちの信也も手伝いに行くって」
佐知子が言うと、由紀子さんは首を横に振った。
「迷惑かけるね」
「迷惑じゃないです」
思ったより強い声が出た。二人とも少し驚いた顔をした。
佐知子は、慌てて言葉を探した。うまく言おうとすると、きっと余計になる。
「春に箱を借りたので」
それだけ言うと、由紀子さんは小さくうなずいた。
帰り道、台車は軽かった。空になった台には、雨だけが残っている。佐知子はそれを押しながら、昔の自分なら、こういう貸し借りを早く終わらせたかっただろうと思った。借りたものは返す。礼を言う。それで関係を閉じる。そうすれば、自分の領分が守られる気がしていた。
けれど今は、閉じきらないものがあってもいいと思える。
春に借りた苗箱が、秋の手伝いにつながる。今日の雨が、稲刈りの日を一日ずらす。誰かの入院が、別の家の予定を変える。面倒で、気を遣って、ときどき重たい。それでも、そういうものに支えられて、米は家の中へ入ってくる。
蔵へ戻ると、バケツの水は半分ほどたまっていた。佐知子はそれを外へ捨てず、戸口の脇に置いた。あとで長靴を洗うのに使える。
座敷の方から、信也の咳払いが聞こえた。起きたらしい。
「雨、まだ降ってるか」
障子越しの声に、佐知子は「降ってる」と答えた。
「苗箱、返してきた」
「そうか」
少し間があった。
「俊夫さんとこ、午後に寄るか」
佐知子は濡れた手を手ぬぐいで拭きながら、外を見た。田の向こうの山は、まだ雨に隠れている。けれど稲の色だけは、薄い光を受けて、静かに明るくなっていた。
「うん」と答えると、蔵の中で木の匂いが深くなった。
雨はまだ続いていた。けれど、ただ待たされている朝ではなかった。
